百万回転生短編 新たなる味覚
健康に長生きするのが俺の生涯目標だというのは今さらいちいち述べるまでもない。
では、そのためになにができるのか?
寿命を伸ばす、新薬を開発する。そういったこともできるのかもしれない。
だが、俺は知っている。寿命を伸ばそうとする。アンチエイジング法を見つけたとする。しかし、うまくいかない。
新薬の開発にこぎつけたとする。若く健康でいられる夢のような薬を開発できたとする。しかし、うまくいかない。
なにかが必ず、邪魔をするのだ。
それはまぎれもなく『敵』なのだった。こちらの油断を誘い、夢が叶うかのように演出し、最悪のタイミングですべてをかっさらう『敵』。
影もかたちも見えないからこそ油断してはならない。それゆえに、俺は大望を持ってはならないのだ。
では、大望を抱かず、邁進せず、『敵』も邪魔をしようがないほど『なんとなく』健康に長生きするためにはどうすればいいのか?
それは、食事と運動だ。
特に食事は大事だ。食べたものが体を作る。だから俺は栄養バランスを気にして、自分で夕食や弁当などを作るなんていう活動もすでに始めているのだ。まだまだうまくないが、この『なんとなく』続けた料理という習慣は、必ず俺を助けることだろうと思っている。
だから俺は、コーヒーを飲まない。
カフェインが寿命を縮めることなどわかりきっているからだ。
あれは覚醒を促し血流を促進し興奮を誘発する薬物だ。飲めば鼓動が早まり、尿意を催す泥水だ。
人体は一生のうちに心臓が鼓動を刻む数が決められているという。ストレスや興奮に気遣ってその鼓動数を減らそうとしている俺が、なぜわざわざあんなものを摂取して、減らそうと思っている鼓動数を増やさねばならないのか?
「まだレックスには早かったかな?」
いやだから早いとか早くないとかじゃないんだよママ。
俺は別にコーヒーが苦いから飲めないとかそういう話をしているんじゃないのだ。寿命のことだ。鼓動のことだ。俺はコーヒーなどという一銭の得にもならない泥水で寿命を縮めたくないと言っているのだ。
「でも、ミリムちゃんはコーヒー好きだよね」
あいつの飲んでるのはコーヒーじゃない。牛乳にコーヒーを数滴加えただけの、コーヒー風味牛乳だ。
しかし今、俺の隣ではまさしくコーヒー風味牛乳を飲むミリムの姿があるのだった。
こいつは無表情で無口でなにを考えているのかわからないところがある――もちろん俺からすれば、しっぽの動きとか、耳の動きとかで、考えは手に取るようにわかるのだけれど、それでもまだ、不透明な部分があるのは事実だった。
ちらり、とミリムのちっこい体には大きすぎるカップをかたむけつつ、あいつがこっちを見た。
やはりその視線から感情は伝わってこないのだが、なぜだろう、ママがテーブルの向こうでニヤニヤしているせいだろうか、『年下の私が飲めるコーヒーを、年上のレックスは飲めないんだ』と言われているような気がする。
自尊心!
それは身の破滅をうながす多くの要素のうち、トップスリーぐらいに入るものだった。
これは自尊心を刺激されているな、と感じた時、俺はいったん行動にブレーキをかけるべきなのだ。自尊心を刺激されるにまかせて突き進むとろくなことがないのを、俺はなん度も繰り返した人生で知っている。
けれど。
……けれど、コーヒーを飲めるか飲めないかでヒエラルキーが決まってしまうような今の状況は、どうしたものか。
たとえば明日、ミリムと学園で合って、なにかを話したとする。
と、どうだ。コーヒーのことなんか話題にものぼらないだろう。
でも、俺は思ってしまう。『こいつ、無表情だけど、俺のこと、コーヒーも飲めないお子様だと思ってるんだよな』
それはきっと、呪いのように俺の人生につきまとうだろう。
いついかなる時も『コーヒーも飲めないやつ』と思われていると思ってしまう――これはまさしく呪いだった。俺という人生にかけられた大きな大きなストレスの源。コーヒーという単語を聞くたび心に突き刺さる魚の小骨のようなもの。
ならば、そのストレスを思えば、ここでコーヒーを飲めるようになったほうが、寿命が縮まないのではないか?
計算し、検討し、決断した。
俺はパチンと指を鳴らし、ママに言う。
コーヒーをもらおうか。
ママはニヤニヤしてキッチンへ向かい、マグカップにコーヒーを入れて持ってきた。
う……黒い……
黒いものは体に悪いというのを俺は生物として知っている。だが、ミルクは要求しなかった。ミルクなしで飲むことでこそ呪いはとけるのだと判断したのだ。
マグカップは分厚く、重い。
俺は意を決して、一気に口につけたカップをかたむけた。
…………
これは…………
甘い!?
砂糖と蜂蜜の風味をたっぷり感じるそれを飲んで、ママを見上げた。
ママはウィンクをして述べる。
「おいしいでしょ」
俺はうなずいた。
コーヒーを飲み、コーヒー臭い息を吐く。
横で飲んでいたミリムが俺のほうのコーヒーに興味を示して手を伸ばしてきたので、俺はカップの中身を一気に飲みほし、牛乳コーヒーを飲んでいる彼女に笑いかける。
この味は、お前にはまだ早い。
十一歳のある日の話だ。
俺は一つ、ミリムより大人になった。
大人の味は甘くて……
あとはやっぱり、コーヒーくさかった。