幸せな日
生存報告します。今日も私は生きてます。
湯沸かしポットがカチッと音を立てた。私はゆっくりと椅子から立ち上がり、ティーパックの入ったコップに湯を注いだ。私の朝は常に一杯のミルクティーと共に始まる。
トーストを食べ終えたあと、新聞片手に紅茶を飲みながら、今日の予定について考えた。
別段なにか特別な予定が入っていたわけではない。ただ昨日のことが頭の片隅に引っかかっていただけなのだ。
思い直せば昨日は散々な日であった。まず寝起き早々タンスに足をぶつけた。その後通勤途中に雨に逢い、傘を買って退勤すると雨が止んだ。また降り出した雨のせいかテレビの映りも悪く、最後に寝る間際にまたタンスに足をぶつけた。今日はまずこのタンスを捨てに行くことにしよう。
さて、こんな災難に遭ったばかりなのだから今日の一挙手一投足にも些かの不安が付き纏う。タンスを捨てに行くのにも、別れ際に一発足に来そうで怖い。そんなことを考えながら、私はコップを傾けていたのだった。
しかし、私は未来を不安視してばかりではなかった。いつだかどこかのテレビ番組で、「人生の幸不幸はプラマイゼロになる」なんて聞いたことがある。昨日が悪けりゃ今日は良い。せっかくの休日なのだ。きっと良い日になるに違いない。
だが、と私は将来を楽観視する自分に警鐘を鳴らした。本当に昨日の負債を今日だけで完全に返済するのだろうか。人生という広い目で見てプラマイゼロなのだ。もしかすれば今日は昨日に増して悪い日かもしれない。だとすれば今日は一歩たりとも外に出るべきではないのではないか。
私は友人に電話し、以上の悩みを尋ねてみた。彼は一通り私の話を聞いた後、苦笑しながらこの問いに答えた。
「そんなこと普通は考えずに生きてるもんさ。気にしてたら辛いだけだぜ。」
彼の意見は最もである。だが、私の求めていた答えではなかった。私はあくまで今日という日がどんな日になるかを聞きたかったのだ。気にするな、なんて問題の先延ばしに他ならない。それに気にするなと言われるとかえって気になるものである。
ああ、私はこのタンスを捨てに行くべきなのか。悩んでいると紅茶を飲む手も止まり、先ほどまで自己主張激しく立っていた湯気もすっかり消えて無くなってしまった。
そんな風にうだうだと悩んでいると、ティーンという甲高い音が耳に響いてきた。もちろん頭の上で電球に光がついたとかの一昔の漫画的表現ではない。
「はーい。今出ます。」
私は余った紅茶を飲み干し、玄関のドアを開けた。
「やあやあ。あれ?顔色悪いね。元気にしてた?」
ドアの前には私の同級生が立っていた。
「誰だお前は?」
「はいはい。上がるね。」
「……」
無視だった。彼女はそのままリビングまで歩き、先ほどまで私が座っていた椅子に座った。
「あ、また紅茶飲んでる。私も紅茶ー。」
「…サー。」
まるで父と娘だ。言われるがままに私はポットに残っていたお湯をまた沸かし、自分のコップと新しく出してきたコップに入れた。
私は出来た紅茶をテーブルの上に置くと同時に溜息をついた。
「しかし、人が悩んでいるのにお前は能天気だなあ。」
「…?悩んでるの?似合わなーい。」
彼女はゲラゲラと音を立てて笑った。座った時に膝に置いた手を思わず握ってしまった。
「それで?なに悩んでるの?」
「それはだなあ…」
私は若干キレながらも、冷静に先ほどの悩みを打ち明けた。
彼女はひとしきり私の話を聞いた後、手に持っていたコップを置いた。
「ふーん。なるほど。」
「分かったか?この高尚な悩みが。」
「分かったよ。ものすごくね。」
彼女は大袈裟に顔を縦に振った。
「要するにあの言葉の受け取り方を間違えてるんだよ。」
「受け取り方?」
その言葉に私は顔をしかめた。間違っていると言われれば、ムッとするのが人間である。
そこまで言うなら聞いてやろうじゃないかと、私は彼女の声に耳を傾けた。
「『人生の幸不幸はプラマイゼロになる』っていうのはね。」
彼女は一呼吸置いてから、話を続けた。
「もともと全部がゼロなんだよ。」
「…は?」
勿体ぶった割にはよく分からない答えを返してきたものだ。
「つまり全部ゼロなの。」
「なにも詳しくなってないけど。」
何が『つまり』なのか。
「もうちょっと具体的に言ってくれないか?」
「具体的にねえ…。じゃあ昨日の傘のことについて考えてみようか。」
彼女の言葉に従い、私は昨日の出来事をもう一度振り返ってみた。
「確かに昨日の時点では買った傘が使えなくて、無駄な買い物をしたかもしれないよね。」
「その通りだ。」
玄関に視線を向ける。新品の傘が一本、古びた傘入れに対比するようにそびえ立っている。
「でも、君って確か一本も傘持ってなかったよね。」
「あ、そういえば。」
よく考えれば、以前どこかで傘を失くしていた。ならば、買った傘は今後無駄にならず使われるだろう。
「確かにそれならあの買い物は無駄じゃなかったかもな。」
私は納得してうなづいた。
「しかし、なぜ我が家の傘事情を知ってるんだ?」
「当たり前だよ。私が借りパクしたんだもん。」
「へえ、そっか。…待て、今何て?」
「もうあるみたいだから貰っとくね。」
彼女は私に向かってピースサインを突き出した。しまった。こんな時に備えて空手教室に通って、正拳突きを習っておくべきだった。
「…まあ今の話は今回の悩みに関係ないし、一旦棚上げしておこう。それで?この具体例がさっきのゼロとどう繋がるんだ。」
今の説明ではまだ彼女の言葉の核心に迫れない。私はさらに追及した。
「だからね。物事ってのには、幸も不幸もないんだよ。」
「!?」
不意な言葉に私は驚いた。というより、彼女がこんな深い思考をしているのに驚きを禁じえなかった。
なおも彼女は話を続ける。
「傘の件もそうだよ。確かにその場では意味のない買い物だったかもしれないけど、いつかは必要な買い物だったんだよ。」
「…なるほど。」
私は感嘆した。発言者の印象に反して存外に深い言葉だ。
「つまりは何事も受け取り方次第で変わるってことか。」
「そうそう。いつでもポジティブシンキングを心掛けなくちゃね。」
彼女は笑顔でこう締めくくった。
答えが出ないのではないかと内心不安に思っていた私もつられて笑顔になる。
まさかこうもすんなりと解決するとは思わなかった。おかげで紅茶も美味しく頂ける。彼女に感謝しなくては。
「しかしお前みたいな奴でも役に立つことがあるんだな。」
「もう、お前みたいな奴って何よ。」
照れ隠しなのか、彼女は空になったコップを持ち上げ、上下に振った。
そうまさにその時である。コップの取っ手がポキリと折れた。互いにあっと言う暇すらなく取っ手のとれたコップは放物線を描きながら宙を舞い、地面に落ちると花火のように粉々に割れ、辺りに散開した。
部屋がひっそりと静まり返った。私はそっと自分のコップを机に置いた。
目の前でしきりに冷や汗をたらしている彼女の姿が見えた。
「ほ…ほら、ポジティブシンキングだよ。ポジティブシンキング。こういう時でも実践しなきゃ。」
「そうか…。」
私は右手で拳を固く握り、ゆっくりと立ち上がった。
「遺言はそれだけか?」
「嫌だー。死にたくないよー。」
うわーんと彼女はわざとらしく泣く振りをした。
しかし、明らかに泣いていないとはいえ追い詰めすぎると本当に泣く恐れがある。ここで私は責め方を変えることにした。
「だいたいポジティブシンキングって言ったってなあ。この場合でのポジティブな考え方って何だ?」
すると、この質問に何か活路を見出したのだろうか、彼女はさっと起き上がり、腕を組んでしきりに唸りだした。やがて何か考えついたのか、人差し指を立ててこう提案してきた。
「ちょ…ちょうど古くなっていたし新しいのを買おうよ。いい機会だったと思って、ね?」
「ほう、悪くない提案じゃないか。」
「うんうん。私も手伝うからさ。」
乾いた笑い声が対面から聞こえてきた。笑顔もどこか引きつっているようだ。
仕方ない。私が本当の笑顔を見せてやろう。
テーブルの上に置いてあった車のキーを片手に私は彼女に笑いかけた。
「よし、なら今から行こうか。あと自分の財布は置いていくから。」
そう言って私は玄関のドアを開け、車を取りに行った。
後ろから悲鳴が上がった気がしたがきっと気のせいだろう。
しかし、ただでコップが手に入るとは、
今日はなんて良い日なのだろうか。
連載中の「とある1日の2人」最終回はもう少し時間かかりそうです。