貴方の隣にいる私はかつて
波の音が聞こえる
海亀が来そうなほど綺麗な海
旅館で貴方は幸せだと言って寝そべった
私は海底と亀の背中を思い出す
貴方は何も知らない
かつて私が沈みながら目にしたものは
ぷくんと膨らんだハリセンボン
イソギンチャクと交渉するクマノミ
耳から離れた波の音の代わりに
水面へ駆け上っていく泡の音や
潮と潮が擦れる音が大きく響いていた
光が波と戯れる下を揺らめいて
巨大な石ころが数多の苔を育むのを眺めた
人に語られるものも語られないものも
一緒くたに沈みながら
そろそろ、と私を手放そうとした時
大きな瞳のお姫様に出会った
その半身を覆う綺麗な鱗を一枚引き剥がし
私の喉元に張り付けた
魔法の様に息が通る
(なんてことをしてくれたんだ)
ぎろりとお姫様を睨みつけると
拍子抜けするくらい幼かった
まだ、八歳。後で知った。
お姫様は私を海亀の背に乗せて
あちらこちらへ連れて行った
温かいところへも 冷たいところへも
亀を助けたという青年がやってきて
お姫様のお姉さんと地上に戻っていったけど
お姫様は相変わらずで
海の青が濃いところも淡いところも
私に見せてくれた
死んだり生き返ったりする私の瞳を
お姫様はどう思ったのだろう
八歳だったお姫様が少し大きくなって
クマノミがイソギンチャクに定住したころ
私は鱗をお姫様に返すと言った
ここでは終わりが来ないから。
言わなかったけど。
言わなかったのに。
お姫様は泣きじゃくりながら
私に箱をひとつわたして
あげる、でも開けないで、と言った
(きっと、もう、大丈夫)
彼女の大きな瞳は訴えた
(そうだよね?)
故郷に帰って私が驚いたのは
あの青年が昔話になっていたこと
ただそれだけだった
久方ぶりに独りになった私は
すぐにでもお姫様との約束を反故にして
開けてしまいたいと思いながらも
箱をそのまま 遠く 海へ放り投げた
それを開ければどうなれるか知っていたのに
大きな瞳が私に訴える
誰よりも聡明だったお姫様は
本当に言いたいことは全て飲み込んだのに
溢れかえった彼女の残酷な願いが
瞳から零れ落ちていた
(生きて。……たとえ、独りでも)
箱から駆け上る泡の音は
私の強がりと恨みごとを詰め込んで
お姫様の耳に飛び込んだかもしれない
(お人好し)
(人じゃないくせに)
(でも、約束、守ったよ)
波の音が聞こえる
清潔な畳の香りの中で
貴方は寝息をたて始めた
本当に、なんて幸せそう。
私の心はようやく海亀の背中から手を離し
貴方の髪をさらさらと撫でた
貴方にはきっと教えない
(だいぶ時間がかかったよ)
(でもきっと、もう、大丈夫)
今更 そう私も応えていた