第六話 「拝啓」
鮫が空を飛んで襲いかかって来る。俺は動きをよく見て、右ストレートを繰り出す。ヒットした瞬間、鮫が怯んだので、武器を鉄バットに変更し、頭を上から殴打する。殴打し続けると、尾が跳ねなくなった。
空中にYou Winの文字が浮かぶ。
「やったね、鉄也君。これで二十連勝だよ」
「たりめえだろ。俺が負けるかよ」
鮫が塵になって消えて、青い球体、通称まんじゅうが残った。
「なあ、まんじゅうの色って倒した病魔によって違うけど、何か意味あるのか?」
「色によって上がる身体能力が異なるんだ。青は速度だね。赤は攻撃力。緑は動体視力。黄は防御力で、黒は全て」
「黒、すごすぎだろ」
「でも、黒は、癌とか狂犬病みたいな強い病魔しか落とさないよ」
俺はまんじゅうを食ってから、電脳フィールドを離脱した。ヘルメットを取ると、おっさんの横に少年がいた。背の高さから察するに小学校中学年ぐらいだろう。少年の指は携帯ゲーム機のボタンや十字キーを押している。
「誰だよ、てめえは?」
「丸井先生、この人、口の聞き方がなっていませんね。僕、野蛮な人は嫌いです」
「俺も生意気なクソガキは大嫌いだよ」
俺は拳を鳴らした。少年はビビる様子もなく、ゲーム画面を注視している。
「二人とも落ち着いてよ。とりあえず、自己紹介しようか。うん。そうしよう」
「僕、帰ります。次はもう少しましな人を用意してください」
そう言って、ガキはゲームをしながら出て行ってしまった。分けわからんぜ、まったく。
「おっさん、あの生意気なガキは何なんだよ」
おっさんはコーヒーをマグカップに注いでいる。
「彼は的井流架君。二日前から入院生活を始めたんだ。ゲームが好きなんだけど、対戦相手がいなくて退屈してるみたいなんだ。鉄也君、一緒に遊んであげてよ」
「どうして俺が。暇じゃねえんだよ。だいたい、今はオンラインで誰とでも対戦できるんじゃねえの?」
「オンライン対戦は、相手の顔が見れないから、好きじゃないんだって。負けて悔しがる顔を見たいって言ってたよ」
「悪趣味だぜ、クソガキ」
俺はおっさんが淹れたコーヒーを飲み干してから、戦闘医専用ヘルメットを抱えて立ち上がった。
「どうだい? 時間のあるときでいいから、遊んであげてよ」
「お断りっ」
「先生、外来診察の時間です」
看護師が患者を中に入れた。俺は出て行く。戦闘医専用ヘルメットさえあれば、自分の病室からでも病魔を倒せるから、問題ない。
病室に戻り、病魔と戦いまくった俺は、一息つこうと売店に向かった。屋上へ行ってもよかったが、初菜に会いそうな気がして止めた。
売店は一階の外科と耳鼻科の間にある。歯ブラシやタオルなどの生活用品や菓子やパンなどの食料を売っている。俺が買うのは、主に漫画雑誌だ。入院してから毎週読む漫画雑誌が六誌に増えた。
俺が漫画雑誌の代金を払っていると、
「鉄也君」
と声をかけられた。売店の入り口に蓮見先生が立っていた。
「先生、来るときは電話かメールしてから来いって言ったろ」
「あ、ごめん。忘れてた。私、ドジだね」
売店のおばあちゃんが出したお釣りは、百円玉と五十円玉を間違えていて、本来受け取るはずの金額より少なかったけど、俺は間違いを正さず、そのまま受け取って、蓮見先生と病室に戻った。
「もしかして、娯楽に飢えてるの?」
病室の隅に積み重なっている漫画雑誌の山を見て、蓮見先生が言った。
「まあな。漫画読むか、音楽聴くか、散歩するか、ぐらいだな」
「パソコンでネットサーフィンしたりは?」
「ネットって言ってもなあ、俺、詳しくねえし。楽しみ方よく分からねえ」
「そっか。鉄也君、ITに弱いもんね。CDプレイヤーの使い方も私が教えたし」
蓮見先生は花を出して、花瓶の中をのぞいている。
「これ、水とか替えてる?」
「知らねえよ」
「替えてきてあげる」
「待てよ。今日は何か、用事があって来たんじゃねえのか?」
蓮見先生は答えずに、花瓶を持って出て行ってしまった。お節介だぜ、まったく。まあ、見舞いってのは悪くない。退屈しのぎにはなる。あのガキもゲームばかりしてるから、退屈するんだ。見舞客と話せばいい。それとも、見舞客が来ねえのかな。
戻って来た蓮見先生が花を花瓶に差していく。
「ねえ、鉄也君。もう何日もピアノに触ってないんじゃない?」
「そういや、そうだな」
「ホールにピアノあったよ。あれ、弾かせてもらうことってできないのかな?」
「さあな」
俺はわざと音を立てて、漫画雑誌を開ける。読んでいるふりをして、蓮見先生を視界に入れないようにする。
「もうピアノは弾かないの?」
「今はピアノなんか弾いてる場合じゃないから」
「雑誌を読む暇はあるのに?」
俺は蓮見先生を睨む。先生は、ごめん、と言うと思っていた。でも、言わなかった。
「どうして俺にピアノを弾かそうとするんすか?」
「美姫ちゃんから手紙、預かって来たの」
蓮実先生が水色の封筒を机に置いた。ハートのシールで封がしてある。だっせえ。
「中は見ていないけど、何となく、美姫ちゃんの気持ち、分かるから。私も鉄也君はピアノを続けた方がいいと思う。もちろん、治療優先で、無理のない程度に。一日中練習しろなんて言わない。一分でも一秒でもいいから、鍵盤に触れてほしい」
「勝手だよ、あんたら」
俺は歯噛みした。ピアノが上手になったって、白血病が治るわけじゃないだろう。死んだら、終わりなんだよ。くそったれ。
蓮実先生は瞳に涙を溜めたまま、帰ってしまった。病室には俺と手紙だけが残った。漫画雑誌を一通り読んでから、手紙を開けた。
拝啓 弾田鉄也様
吹く風も次第に夏めいて参りましたが、鉄也さんはいかがお過ごしでしょうか。私はと言うと、ピアノ漬けの日々を送っています。練習、練習、練習、食事、排泄、また練習、入浴、練習、睡眠、練習。それというのも、あなたに勝つためです。コンクールでの成績の話ではなくってよ。これまで、私が一位、あなたが最下位もしくは失格なんてことは何度もありました。でも、一度だって、私は、私の演奏があなたの演奏より優れていると感じたことはございません。
入院生活、何かと苦労もございましょう。でもどうか、ピアノを捨てないでくださいまし。完治した時、腕が鈍っていたのでは、お話になりませんわ。いいですか。あなたには未来があります。絶対あります。
一日でも早く退院できる日が来るよう、ピアノを弾きながら祈っています。
敬具
手紙を読み終えた俺は、舌打ちした。美姫の野郎、ふざけやがって。こんな手紙読んだら、弾かないわけにはいかない。俺は単純だからよ、ライバルには負けたくねえんだ。
病室を出て、三階へ上がる。廊下を歩き、ピアノがあるホールへ向かう。すれ違うジジババに「おう」とか「ヨオ」とか声をかけながら進む。
ホールは、学校の教室二つ分程度の広さしかない。丸テーブルと椅子が程よい感覚でおいてあり、患者が座って雑談している。食べ物があれば、カフェと変わらない。ステージの端にピアノを見つける。よっしゃ、弾いたるぞ、という気持ちで前かがみになってホールの中央を進む。
ジャンプしてステージに上がり、グランドピアノの屋根を開ける。全開だ、バーロー。鍵盤を適当に叩いて、音程の狂いを確認する。今度、おっさんに頼んで、調律師読んでもらおう。
音程を確認しただけで、患者の視線がステージに集まった。上等だ。てめえら、俺様の演奏をよく聴いとけ。
ドッビュッシー作曲、「二つのアラベスク」を弾く。すぐに違和感に気づく。指が重い。全然回らねえ。音も伸びないし、汚い。こんなの、俺の、音じゃない。
弾くのをやめてしまおうかと思ったが、弾き続ける。弾くしかない。宮崎美姫に負けてたまるか。
心を砕きながら演奏し、最期の音を弾き、ペダルを離した。余韻が消える前に拍手が聞こえた。患者共が手を叩いてやがる。耳馬鹿が。こんな演奏に拍手するんじゃねえよ。
昼まで練習曲をひたすら弾いた。指の動きが徐々に戻って行ったが、まだ駄目だ。明日も弾かなければ。毎日、弾かないと。