第五話 「初菜の病」
俺はおっさんと四階の食堂に向かった。いつもは個室で食べているが、ナースステーションに連絡さえすれば、入院患者も食堂で飯が食えるのだ。ただしメニューは病院食と変わらない。
今日の夕食のおかずは、ほうれん草の胡麻和えと豆腐ハンバーグと肉じゃがだった。デザートは蜜柑ゼリー。
食堂の席は空いていたから、テレビの前の机に座れた。テレビは大型で、病室のテレビより三倍は大きい。
「そろそろ教えてくれよ。何が見れるんだ?」
俺がそう言うと、おっさんは笑ってテレビをつけた。チャンネルが切り替わり、緑色の大地に少女が立っている姿が映し出された。
「電脳フィールドじゃねえか」
「これは優秀な戦闘医のバトルを放送するチャンネルなんだ。勉強になるから一緒に見よう」
戦闘医の少女は小柄だった。髪の毛はピンク色でポニーテールにしてある。両手にはナイフを持っている。
「彼女は世界でも有名な、S級戦闘医、キスシア・リリエットだよ」
「まだガキじゃねえか。中学生ぐらいだろ、あれ」
黒い穴から出てきたのは、竜だった。竜の牙一本が少女と同じ大きさだ。踏み潰されて即死だ。
「敵は胃癌の病魔だね」
「強い病魔とやるときはチームでやるんじゃねえのかよ」
「普通はね」
俺もおっさんもテレビから目を離さずに会話していた。なのに、次の瞬間、竜は跡形もなく消え、少女の周りには肉片が山のように転がっていた。
「え? 放送事故か? おかしいぞ」
「いや、これがキスシアの速さなんだ」
「嘘だろ。あの一瞬で竜を片したっていうのかよ。たった二本のナイフで?」
スーパースローで映像がハイライトが流れ出した。確かにキスシアのナイフが竜の喉を裂いている。
「彼女は世界にたった二つしかない、白血病魔を倒せるチームの一員だよ」
キスシアでも白血病魔を一人では倒せないのだ。俺は食欲を失った。
「病魔を倒して、まんじゅうを食べ続ければ、君もキスシアみたいになれる可能性がある」
「どうかな? 強くなる前に死んじまうんじゃねえかな」
俺は半ば諦めていた。それぐらいキスシアの強さ、速さは予想外だった。
「落ち込んだ?」
「まあな」
「あ、次のバトルが始まるよ」
俺は口に入れた豆腐ハンバーグを吹き出しそうになった。テレビにメロンパン女が映っていたのだ。
「どうしてあいつが」
「言ってなかったっけ? 初菜ちゃんは患者でありながら、戦闘医なんだよ」
確かに言っていた気がする。でも、テレビに映っているということは、初菜もキスシアと同程度の実力ということだ。あり得ねえ。
初菜は紫の着物姿で片手に日本刀を持っていた。
「刀って実際は重たくて片手じゃ持てないはずだろ」
「現実の初菜ちゃんの腕力とアバターの腕力は別物だよ。まんじゅうを食べれば、身体能力値が上がる。まんじゅうの重要性が分かってきたかな?」
話している間に、黒い穴から病魔が出現した。大蛇だ。それも九匹。いや、一匹だ。頭が九つあるだけで、体はある一点で繋がってやがる。
「敵は肺炎の病魔だね。八岐大蛇を模しているみたいだ」
「今度は一瞬で終わらねえよな」
「初菜ちゃんの長所は速さじゃないから、大丈夫だよ」
初菜はゆっくりと歩を進めた。歩くたびに長い髪が揺れている。目元は涼やかで、殺気がまるでない。存在感が薄いから、注意して見ないと、画面に映っているのに見失いそうになる。
「変だ。病魔の野郎、攻撃しねえぞ」
「おそらく病魔には初菜ちゃんが見えていない」
「そういうアイテムか武器があんのか?」
「ないよ。初菜ちゃんが気配を消しているだけだ」
気配を消したって、視界から消えるわけじゃないだろうに。でも、俺自身、見失いそうになっている。
初菜が蛇の頭の前で止まった。予備動作なしで剣を振り、蛇の頭を斬った。瞬間、他の八つの頭が初菜の存在に気づき、一斉に初菜に襲いかかった。初菜は空中に高く舞い上がり、体をねじりながら蛇の攻撃を紙一重で躱していく。その様子は、木の葉が舞い落ちる様に似ていた。初菜が地面を踏んだ瞬間、蛇の頭が一つ残らず胴体から千切れて飛んで行った。
「は? いつ斬った?」
「僕も見えなかったけど、多分、攻撃を躱しながら斬っていたんだよ」
「だとしてもおかしいぜ。どうして後になってあんないっぺんに斬れるんだ? 剣で斬ったら、斬った瞬間頭が飛ぶだろ、普通。てか、絶対」
「本当にどうやるんだろう。まあ、やり方聞いてもできそうにないけど」
画面には初菜の戦闘のハイライトが映っていた。スーパースローだと、蛇を躱しながら斬っているのが見えた。
「初菜ちゃんは敵の注意や意識を誘導するのが上手いんだ。客観的に見てる僕らの意識さえ逸らすんだから、大したものだよ」
「ミスディレクションっていうやつか」
「うん。でも、初菜ちゃんの得意技は他にもいくつかある」
「いくつか?」
「武器だって普通の日本刀しか使ってなかったでしょ」
つまり、全力じゃなかったってことだ。肺炎は患者を殺すこともある病気だ。その病魔に余力を残しつつ勝利したのだ。
初菜のあとに放送されたバトルは、全てチーム戦だった。
「初菜もどこかのチームに入っているのか?」
「いや、一人だよ」
おっさんはデザートの蜜柑ゼリーを口に運びながら言った。
「初菜ちゃんは一人」
「あれだけ強いなら、他のチームからお誘いがかかるってもんじゃねえのかよ」
「誘いは毎日来るさ。でも、初菜ちゃんは一人」
「何でだよ?」
「理由なら、本人に聞くといい」
おっさんはゼリーを食べ終わると、家で娘が待ってるからと言って帰ってしまった。俺も食器を返却口に持っていき、食堂を出る。
廊下を歩いている間も、初菜のことが頭から離れない。おっさんが言っていた「一人」という言葉が、やけに耳に残っていた。
人の心配をしている場合じゃないだろう。俺の体に住みついている病魔は、キスシア並に強い戦闘医が複数でかかって、何とか倒せるレベルなんだ。俺は初菜やキスシアよりも強くならないといけないのだ。
俺は思考で熱くなった頭を夜風で冷やそうと、屋上に行った。ベンチに座っている人がいた。初菜だった。
俺は引き返そうとしたが、やっぱり止めた。逃げてるみたいじゃないか。
ベンチの前を突っ切っても反応はなかった。こいつ、基本、無視するよな。
柵にもたれて視界の端に初菜を入れる。初菜はノートを広げていた。何が書いてあるかまでは分からない。辺りは真っ暗ではないが、薄暗いから、初菜自身、ノートを読めているか微妙だ。ただ開けているだけという気もする。
屋上を風だけが流れていく。
頭も冷えたので帰ろうと思い、再びベンチの前を横切る。初菜と目が合う。俺は立ち止まっていた。
「なあ、お前、どうしてチームに入らず、一人で戦ってるんだよ?」
馬鹿。何訊いてんだよ。どうだっていいだろ、んなこと。自分の体も支配できねえのかよ、俺は。
「うるさい。あなたには関係ない」
初菜の黒目が俺を睨む。俺は一歩退いて、そのまま屋上の出入り口に向かう。
と、その時、後ろで咳き込む音がした。振り返ると、初菜が背中を丸めて咳き込んでいる。
「おい、大丈夫か?」
俺が走って近づくと、初菜は片手を俺の方に伸ばして、牽制してきやがった。このアマ。
「大丈夫かって訊いてんだよ」
初菜は目をつむり、体を震わせながら、咳を繰り返す。口元を押えている手から赤い雫が落ちていく。血だ。
「冗談じゃねえぞ」
俺は初菜を抱きかかえる。思っていたより、重くはない。そのまま走って屋上から建物内に入り、助けを呼ぶ。廊下に看護師が集まって来て「先生を呼んで来て」と言い、数十秒後、俺の知らない先生がやって来た。
初菜はストレッチャーに運ばれて、治療室へ行ってしまった。
俺は久しぶりに全力で走ったせいで乱れた息を整えようと、胸を押えたまま、突っ立っていた。
翌朝、看護師の回診が始まるより早い時刻に俺は起こされた。誰かが病室に入って来て、俺の体を揺さぶったのだ。
「昨日はありがと」
寝ぼけていたので、視界が霞んでいた。目の前に誰がいるのか分からなかった。後で冷静に考えると、あれは初菜だったのだと思う。
俺は遠ざかる足音を聞きながら二度目の眠りに入った。
その日、俺はおっさんから初菜の病気を教えてもらった。
病名は、急性骨髄性白血病。