第三十一話 「ライバル」
八月の暑さに負けないぐらい、暑苦しい客が来たので、俺は病室のエアコンの温度を二度下げた。
「いいですか。鉄也さん。私は逃げるわけではないのですよ」
声の主は、俺のピアノのライバル、宮崎美姫だ。ピアノの世界では名の知れた奴で、あだ名は金髪縦ロール。こいつがピアノを弾くと、長い金髪縦ロールも手と一緒に動くから。
「どこへでも行けばいいだろ。お前ならいつ行ったっておかしくないとは思ってたよ」
「鉄也さんからそのように思われていたとは、光栄ですわ。でも、やはり、国外へ旅立つともなれば、生涯のライバルに一言挨拶するのは、当然ではなくて?」
「俺はいつから生涯のライバルになったんだよ。お前、ほんと、無駄に熱いよな」
美姫の横に座っている蓮見先生も苦笑いしている。
「熱くもなりますわ。私はまだ一度もあなたに勝てたことがないのですもの」
「馬鹿言うな。コンヴァトに行くお前の方が俺より上だよ」
九月から美姫はフランス、パリのコンセルヴァトワールでピアノを習うことになった。留学の準備のため、明後日にはフランスへ飛ぶらしい。
「コンヴァトかあ。懐かしいなあ」
蓮見先生が呟いた。先生も二十歳の頃、留学していたのだ。
「鉄也さん」
改まって、美姫が言う。
「私のピアノは本当のところ、どうなんですの? 鉄也さんの考えが聞きたいわ」
美姫の瞳が震えている。
「お前のピアノは」
物心ついた頃から、俺と美姫は同じコンクールに出場してきた。だから、分かる。
「すげえよ。大丈夫だ。コンバトへ行ってもちゃんとやっていける。ライバルの俺が保証する」
美姫が目を見開き、大きく頷いた。
「流石、私の生涯のライバル。今、私が欲しい言葉をどんぴしゃで言ってくださるのね」
「本心だよ。じゃあ、元気でな」
「元気でなって、人の健康を心配している場合じゃないでしょう。あなたは白血病を克服し、私と世界の頂点で競うのです」
これだから素人は。白血病魔の強さも知らないで簡単に言うよな。
「分かった分かった」
てきとうに返事すると、美姫が俺の手を潰れるぐらい強く握って来た。ピアニストは握力が強い。
「勝手に死んだりしたら、絶対許しませんから」
美姫の瞳には今にもこぼれ落ちそうなほどの涙が溜まっていた。俺は指が熱くなった。
「分かったよ。俺もお前に勝ちたいしな」
美姫は俺に勝ったことがないと言うが、俺は美姫に勝ったことがないと思っている。ほんと、不思議なライバル関係だ。だからこそ、この関係を続けて、よりいい演奏をしたい。美姫に会うと、思い知らされる。俺、ピアノが好きだ。
大声が病室に響いた。爆発したように泣き始めたのは、美姫でも俺でもなく、蓮見先生だった。
「先生、いきなり何だよ?」
「だって、だって」
蓮見先生はポケットティッシュを出して、鼻をすする。嗚咽がひどくて言葉が聞き取れない。俺と美姫が小学校に入る前からの付き合いだからな。思うところがあっとのかもしれない。
二人が帰った後、俺は電脳空間に行き、そこからは覚えていない。




