第十七話 「足りない」
翌日、蓮見先生がピアノのレッスンをしに来てくれた。
ホールのピアノでブラームスのピアノソナタ第一番ハ長調を弾く。
「フォルテが強すぎない? それじゃあ、フォルテッテッシモだよ」
蓮見先生はピアノの横にパイプ椅子を出して座っている。ノースリブの服から伸びた細腕が鍵盤を叩いて、手本を示す。
「鉄也君、何かイラついてる?」
「別に」
俺はもう一度弾く。
「次は音量が小さすぎかな。でも、テンポはキープできてる。ミスタッチもないし。音量だけおかしい」
俺はため息をつく。今日のレッスン、気分が乗らねえぜ。
「じゃあ、フォルテとかピアニッシモとか気にしなくていいよ。退きたいように弾いてみて」
「いいのかよ?」
蓮見先生は昔から楽譜を大事にする人だった。楽譜以外のことをやりたければ、まず楽譜通りに弾けるようになってからにしなさい、と何度も言っていた。
「いいよ。今日は作曲者の意向は無視して、鉄也君の意向を尊重する」
俺は何も考えず指を思うまま動かした。白血病とか初菜とか余命とかが頭から吹っ飛ぶぐらい集中した。
「うん。悪くない。美姫ちゃんに聞かせたいぐらい」
「どうしてそこで美姫が出てくんだよ」
宮崎美姫。俺のピアノのライバルだ。コンクールの成績はだいたいいつも俺より上。演奏は、音が派手で華がある。しかも基礎をちゃんとやってるから、本番でもブレない。
「最近調子が悪いの。迷ってるみたい」
「迷うって何に?」
蓮見先生の表情が固まった。
「何でもない。レッスンの続きやりましょう」
蓮見先生が帰った後、病室で病魔と戦っていると、おっさんが来て言った。
「鉄也君、強くなる方法、考えてきたよ」
そういえば、昨日、おっさんに、初菜より強くなる方法を考えろ、と頼んだのだった。
「複数同時操作型ヘルメット、使ってみない?」
「何だよ、それは?」
「アバターを同時に二体、操作できる戦闘医用ヘルメットだよ」
二体、同時に操作できるなら、成長速度も二倍だ。
「そいつはいいや。すぐ持ってきてくれ」
「でも、条件があるんだ」
おっさんの丸い顔に笑みが浮かぶ。
「今日から隣の部屋で生活してくれるかな?」
「隣って? どっちの?」
「もちろん、初菜ちゃんの方だよ」
「話にならねえ」
俺がヘルメットをかぶり直そうとすると、おっさんが止めた。
「どうして俺があいつと生活しなきゃなんねえんだよ」
「今日の午前中、初菜ちゃんが倒れてたんだよ。でも、ナースがすぐには気づかなかった。十分以上放置」
「倒れた後じゃ、ナースコール押せねえもんな」
「そういうとき、病室にもう一人いたら押せるでしょ。君も昨日倒れたし、ちょうどいいから、二人一緒の病室にしちゃおうと思って。幸い、初菜のちゃんの使っている個室はもともと二人部屋だったから、勝手がいいんだ」
だからって、どうしてよりにもよって俺と初菜なんだ。お互いストレスで余命が縮む気がする。
「初菜の了承はとったのかよ?」
「いや、まだ。これから」
おっさんはハンカチで額の汗を拭く。
「無理だと思うぜ。少なくとも俺じゃない。初菜には別の患者と同室になってもらえよ」
「いやいや、鉄也君が一番可能性あるんだよ」
「なんでだよ?」
「初菜ちゃんが君以外の患者と会話してるところ、見たことある?」
なかった。思えば、初菜はいつも一人だった。好物のメロンパンを食べるときでさえ、笑顔にはならない。
初菜と同室になるかは置いておき、俺は複数同時操作型ヘルメットを試しに診察室に行った。
「脳にかかる負荷が単純計算で二倍だから、ほとんどの人は使いこなせないんだ」
おっさんがヘルメットを取り出す。俺がいつも使っているのとは違って、電極が二本生えている。
「でも鉄也君、ピアノ弾けるでしょ。右手と左手を同時に別々に複雑に動かせる。だから、可能性があると思ってね」
「初菜はできたのか?」
「無理だったよ」
初菜にできないことが俺にできるのだろうか。やってやるという気持ちと無理だと言う気持ちがないまぜになる。
ヘルメットをつけると、視界が左右で別れた。アバターが二人立っている。二つのアバターに同じ動きをさせることは簡単だった。
「別々に動かせるかい? ピアノを弾く感覚を使ってみて」
俺は右手と左手で膝を叩きながら、アバターを動かす。右の視界のアバターはキック、左の視界のアバターはパンチ。
「あれ? できるぞ。楽勝じゃねえか」
「すごいよ。じゃあ、そのまま病魔を倒してみよう」
Cランクの病魔を二体同時に倒し、続いてBランクの病魔も倒せた。
「頭が痛いとか体がだるいとかない?」
「ねえよ。でも、一つ問題がある」
「何だい?」
「これじゃ、足りない。十体同時に操作できる奴、ねえの?」
おっさんが絶句した。
「あるけど、高価なものだから院内にはないし、そもそも無理だよ。十体同時操作なんて」
「あのなあ、おっさん。ピアノを何本の指で弾くか、知ってっか?」
おっさんの唇が歪んでいく。もちろん、への字にではなく、U字に。
「分かった。十体を同時に操作できるヘルメット、取り寄せるよ」
「金は宛てがあるから、そいつに払わせるぜ」
「宛てって誰だい?」
「くそ親父だよ」
病室に戻り、電話をかけると親父は二つ返事で了承した。
「他に望みがあるなら言え。冥土の土産に叶えてやる」
と言って、すぐ電話を切った。仕事中毒の馬鹿め。だから、母さんに逃げられるんだ。でも、仕事中なのに俺からの電話に出やがったよ、あの馬鹿。
十体同時に操作できるヘルメットが来るまでは、二体同時操作型へルメットを使うことになった。後の問題は、初菜だ。




