プロローグ
雨の日だった。
傘も持たずに、葉ノ池市民音楽ホールから走り出た俺は、雨で重くなっていく学ランを脱ぎ捨てた。俺の拳には、さっき殴ってやった審査員共の血がついている。あいつら、俺が選んだ自由曲を不適切として、審査の対象外としやがった。ボカロは曲じゃねえってか。一生クラシック聴いてろ、ボケ。
「待ちなさい」
背後から声がかかった。蓮実先生だった。スーツ姿の先生は、OLみたいだ。切り揃えた前髪、血色のいいりんごみたいな頬、小さな唇。これはもう、こけしと言ってしまってもよいだろう。
「なぜ自由曲を変えたりしたの?」
「うっせえな」
ホール前の噴水を避けて進むと、蓮実先生が腕を掴んできた。勘弁しろよ。女は殴れねえだろ。審査員のババアは別だがな。
「答えなさい」
「他の奴等がクラシックばっかり弾くからだよ。ふざけやがって。クラシックもおもしれえけどな、飽きんだよ。甘い物ばっかり食べたら、胸やけするだろうが。同じだよ」
「だからって、暴力はいけないでしょ」
「暴力じゃなかったら、何してもいいのかよ? 俺から言わせりゃ、審査しないことの方が暴力よりよっぽどひどい」
俺が睨むと、蓮実先生が手を離した。
「今日の演奏はいい演奏だったよ。審査員が審査しなくても、私は聴いてた。あなたのライバルの子達も聴いてた。ホールにいた人たちの多くは、鉄也君の演奏を最初から最後まで聴いて、拍手してたよ」
「てめえらの為に弾いたんじゃねえ」
「なら、誰の為に弾いたの?」
「自分のた――」
視界が揺れた。足に力が入らない。地面にぶつかる寸前、蓮実先生の絶叫が聞こえた気がした。後は、真っ暗で、無音だった。
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病院のベッドで目覚めた俺は、ナースコールを押した。すぐに中年の医者と、看護師が二名、来てくれた。丸顔の、狸みたいな医者は俺の手を両手で握って、言った。
「君、白血病だから」
ハア。
まったく。
俺が何したよ。