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街の中心から続いていた道は、いつの間にか未舗装の砂利道になっていた。山沿いには人家が点在しており、そのうちの一つが上岡美代の家だった。新しくはないが、二人で住むには明らかに大きく、作りは質素だった。
鍵は、簡単に開いた。
勝手な侵入に許可を求めるつもりはないから、挨拶などしない。靴は脱ぐ。台所、客室、居間、座敷と見て回る。静かに歩いたつもりだったが、板敷きの廊下は、細い足が触れるたびにきしんだ音を立てた。
その部屋は、たぶん上岡美代の一室だったのだろう。勉強机があり、本があり、年頃の少女らしいあれこれがあったが、珍しいものは見あたらない。
隣が、祖母の部屋だった。箪笥といい、小さなちゃぶ台といい、あらゆるものが、持ち主の過ごしてきた年月の長さを感じさせた。仏壇もある。綺麗に掃除は行き届いているものの、人が暮らしている部屋の、あの雑多な感じがない。むしろ、部屋の主がいつでも帰ってこれるように整えてあるようだった。上岡美代の祖母は、もう長い間入院しているのだろう。
押し入れのふすまも古い。所々に染みが浮いて、破れた部分を繕った跡が目立つ。
ここには、何かあるだろうか。
綾が手を伸ばしたとき、玄関の方から、ガラガラと扉の開く音がした。
動揺はしなかった。
ただ、疑問がわいた。上岡美代が考えていたより早く帰ってきたとしても、到着より早く宗一が綾に伝え、そっと抜け出すことができるはずだった。宗一が見落としたのだろうか。何か大事な発見があって、美代には手が回らなかったのかもしれない。
いずれにせよ、美代は、「どなた?」と不審かもあらわに尋ね、返事がないと見るや一歩一歩部屋へと近づいてきた。床がきしむのでそう分かった。
逃げることもできた。庭から裏へ抜けるのは簡単そうに思えた。
が、綾は腹を決めた。
振り返る。
「二崎さん……どうして、こちらへ?」
そこには、きょとんとした表情の美代がいた。
「はあ、なるほど、そういったご事情で……」
美代は熱いお茶を淹れてくれた。
なんとなく落ち着かない。後ろめたい理由もあるが、たぶん、同世代の女の子の部屋でお茶を飲むなんて経験を、これまでしてこなかったからだ。
「怒らないのね」
「怒る?」
「勝手に家捜ししてたんだもの。警察くらい呼ばれるかと思ったわ」
「うーん。まあ、仕方ないかなって。特殊な状況ですし」
「怖くはない?」
「怖い――。そうですね。恐ろしい形をしたバケモノを見ました。昨日まではそんなものが見えることすら知らなかったのに、奇妙な質問はされるし。でも、守ってくださるのでしょう?」
「え、ええ」
雰囲気が違う。こんなに落ち着いていただろうか。
「あなた方は、わたしを守ってくださる。でも、その方法については教えてくださらなかった。なぜかは分かります。わたしが信用に足りないから。でも、わたしはあなたを信じます。どのような手段をとるのか、教えてくださいませんか」
綾は、湯飲みに写る自分の目を見た。
「……宗一が、コーヒー店で店員を眠らせたのは覚えてる?」
「はい」
美代は神妙にうなずいた。
宗一なら、もっと思い切りよく話すだろうか。
「上岡さん、もっと事態が進行した場合には、あなたにも同じことをするつもりだった。眠っていてもらうの。そうしていれば、私たちが知っている限り、いくら親和性の高い受肉者にも精触は起こらないから。その間に、できるだけ異存在を排除する。協力してほしいって言ったのは、こういうやり方だから。無理矢理にだってできないことはないけど、生活は人それぞれだもの。口裏をあわせたり、納得してもらってからの方が何かとやりやすいでしょう?」
「なんとなく、わかります。でも――」
美代は、挑むような目つきで綾を見た。
「それでは時間稼ぎにしかなりませんね。わたしを眠らせて、それから? 相手があきらめなければ、どうするんです?」
綾は湯飲みに口をつけた。そこから先を話さなくてはならないなんて。無言の相手に銃を向け、引き金を引くのは簡単だ。それが相手の信頼に対する裏切りであっても。
でも、まだ守るべき大小である美代にそれを話すのは、つらい。
「異存在は、ずっとこちらに顕現していられるものではないらしいの。押し寄せた波が引いていくように、しばらくすれば消える。その間だけよ、眠っていてもらうのは。でも、異存在の排除も、受肉者の隔離も、うまくいかなかったときには――」
「そのときは?」
宗一がいてくれれば。どうして?
やりにくいことは全て彼に任せて、自分は澄ました顔をしていられるから?
そうかもしれない。自己嫌悪の念が綾の内側をかき乱した。
いや違う。圧倒されているからだ。目の前の、美代という少女に。綾は今になって自覚した。自分は圧倒されている。恐ろしくて仕方がない。理由はわからない。その理由を考えるだけの余裕が失われていた。宗一がいてくれさえすれば、自分にとって何よりも頼もしいのに。
ただ、今は事実を述べなければならない。そのために勇気をふるわなくてはならない。どうしてかは分からないけれど、どうしても――
「そのときは、あなたを殺す。どんな手段をもってしてでも、精触を阻むのが私たちの任務だから」
言ってしまうと、気分は楽になった。
美代は平然としている。それどころか、艶っぽく香り立つような微笑を浮かべて見せた。その表情にはあまりにも色気があって、同性の綾でさえ胸が高鳴り、頬が染まるのを自覚するほどだった。
つい、と美代は半身を乗り出した。綾は動けなかった。美代の顔が近づいてくる。美代の瞳は怪しげな色で綾の視線をその奥へ奥へと誘っていた。頬と頬がそっとこすれた。知らず悩ましい喘ぎが漏れた。美代の唇が綾の耳へと口づけせんばかりに迫った。鼻先の感覚がくすっぐったい。
美代はささやく。
「よく言った。それで、どうする、ええ?」
その声は低く、深い地の底から響いてくるようだった。全身は寒気に泡立ち、固まって動かなくなった。どれも錯覚にすぎないはずだった。だが綾は混乱した。
息が詰まる。
ぴた、と綾の首筋に冷たい何かが触れた。
綾は短い悲鳴をあげ、それから逃げようとして足に力が入らず、体勢を崩して机の上に倒れた。
なんとか首だけを動かす。
美代の姿はない。
部屋ですらなかった。
机までもなくなって、真っ暗な空間に放り出されている。
吐き気が胃からせり上がってくる。瞳は無意識に基準点を求めてせわしなく動いたが、上下も左右も分からない。
冷たいものは指から手へ、腕へ、つま先から膝へと飲み込もうとしているようだった。ひどく気持ちの悪い感覚。無数の手だ。しかもその手は、まるで死体のような……
綾は一瞬、 平常心を取り戻した。
知っている。
この状況は、知っている。
教本に書いてあった事例と同じだ。
その一点を足がかりに、冷静な思考がよみがえってきた。
心を乱すのが相手の――そうだ、手遅れだったのだ。既に美代という人間は存在しなかった。もはや自分と同じ人間ではない相手の狙いは、こちらの心を乱すことだ。
それに対抗するには、まず呼吸を整えること。
綾は膨大な自制心でもって自分の肉体を無数の手にゆだねた。できる限り、全身から力を抜く。
そして、額に円のイメージを描く。両手、両足にも一つずつ。五つの円は交わって一つの輪を作り、その内側には五芒星を思い起こす。万物の調和と安定を示す図像だ。
浅く短かった呼吸が、次第にゆっくりと、長くなっていく。呼吸の必要さえなくなっていくようだっった。
自分は大丈夫だ。
そう確信した瞬間、冷たい手は一斉に綾の体を覆った。自分以外のものが皮膚を通じて内側へと浸透してくるのを感じた。体が自分でないものに支配されつつあった。指先一つ動かない。肘から上は――肩は、まだ動かせる。まとわりつく不快なものをはらいのけようと力をこめる。一度か二度は、がむしゃらに肘撃ちのような動作ができた、が、すぐに肩も動かせなくなってしまった。
それは、体の中心に向かって内側を進んでいた。たぶん、心臓だろう。今なお綾の心臓は全身へ血液を送り出していたが、冷たい手は、その氷よりも冷たい手のひらで、温かく柔らかい心臓を握りつぶそうとしているのだ。
異質なものを排除しようと、体が痙攣した。
綾は耐えようとした。無駄な試みだった。
「けほっ……!」
咳き込み、息を漏らした隙を、それは見逃さなかった。
歓喜に打ち震えて――なぜだかそれが喜んでいるのだと分かった。どういった喜びなのかは分からない。相手があまりにも異質すぎるから。何も分からない。その理不尽さが恐怖を煽り、恐怖は混乱を助長した。順序だった思考はできなくなっていた。綾はそれを自覚した。その自覚はさらに焦りを呼んで、一切の自制心を失いかけていた。
ぶる、ぶる、と歓喜の中でおぞましく蠕動したそれは、自身の一部を綾の喉奥深くへと送り込んだ。抵抗する力は失われていた。綾は叫ぼうとした。声にならなかった。それは食道を先へ先へと下っているようだった。痛い。涙があふれる。痛い。何度となくこみ上げる嘔吐感がむなしくさえあった。
助けて。
後頭部に、ノックされたような、軽い衝撃があった。
ああ、もう駄目だ。
教本に載っていた。精触に際しては、まず体の力を奪い、次いで後頭部から侵入すると。
重い打突音が繰り返された。ぬる、とした感覚が首筋を伝う。頭蓋骨に、穴。拳が通るくらいの大きさ。フタを外すみたいに、頭が開いて、生の脳が露出する。何も感じない。
助からない。
綾は全てを諦めた。
そして、宗一は、もう死んでいるのかなと思った。彼だけでも、また不思議と偶然の力を借りて生きていてくれればいいのだけど。
綾は優しい光に包まれて、暗い沼の底から浮き上がった。
妙なことだらけだった。
知り合いの記者から急なフライトをねじ込まれたのはいい。ある審議官たっての頼みだと言っていた。だが乗り込んだのは妙な格好をした少女と、犬。行き先についても詳しい説明がなかった。それでも仕事は仕事だと割り切って、その目的地へと急行していた。
ふと目の前がチカチカするなと思ったら、後部座席の少女は顔を真っ青にして体を背もたれに預けていた。真っ青どころではない。死人のように白い。
死んでいないのは、浅く上下する胸元の動きで分かった。普段なら生唾を飲み込むくらいに魅力的な曲線だった――それは、彼女がこの機に乗ったときから気になっていた――が、一瞬のうちに死体のようになってしまった少女に劣情を催すほど恥知らずではなかった。
館林審議官たっての願い、ということで少女の隣に席を得た犬も、心配げに少女を見上げ、小さく鳴いて、血の気のない頬を舐めた。
少女は犬の頭に手をやり、やめてくださいと言った。大丈夫です、とも言った。エンジン音で声は聞こえないが、職業柄、口の動きを追うのには慣れている。
どうしたのだろう。
「もう少しの辛抱ですよ。あの山、見えますか。こぶができたみたいな形をしているでしょう。あれを越えたら、もうすぐです。少し、酔いましたか?」
いいえ、ありがとうございますと、今度はこちらにも聞こえる声で言い、健気にも微笑んだ。気立てのいい娘だ。
少女の唇が動く。
ソ……イチ、というのは人の名前だろうか。
サン、ニ、シ、……カラ。
長い髪が陰になった。少女はうつむいてしまい、意味は判然としなかった。
綾は机の上に倒れていた。
光に包まれたのは覚えている。
その光は、確かにほのかの声で囁いていた。
「宗一さんに、叱られますから」
熱い涙がまなじりから零れた。
「時として人間には驚かされる」
嫌な奴。綾は立ち上がろうとした。足が震えるのは無視して、ただ力をこめる。
「……」
「なんだ、娘」
外しようのない距離。
反動を押さえる力など残っていなかったが、指先だけはしっかりと動いてくれた。
一発。
二発。
美代の形をした何かは傲然と綾の前に立ちはだかっている。
三発目でようやく、綾は顔を上げ、相手を真正面から睨んだ。
四発目。縦断はその腹部を貫いたかに見えた。
五発目。右足。
六発目は左肩に当たった。同時に、美代の後ろで壁が砕けた。柱や畳にも小さな穴が穿たれていた。
「わたしは殺せない」
知ってる、と答えて、口元は緩むにまかせた。
「見上げた人間だ。何がおかしい」
「考えていた」
「聞こう」
「後悔してる」
「……」
「最初に、撃ち殺しておけばよかった」
美代は右手をかかげた。
首筋をぴったりとした冷気が掴んだ。このまま縊り殺そうというのだろう。
綾は、恐れていなかった。
死が避けられないのだとしても、一人きりで死ななくても済むだと、なんとなく分かったから。
ほら、聞こえる。
あれは?
間抜けな音だ。
甲高い、クラクション。
気持ち悪い。中年親父の中に入るなんて、ふざけた悪夢以外の何ものでもない。
不幸な運転手と宗一だけを乗せた市営バスは、舗装のない砂利道を限界ギリギリの速度で暴走している。路面に凹凸のあるたび、巨大な車体がゴムまりみたいに飛び跳ねる。宗一自身は怪我などしないが、運転手が顔をハンドルに叩き付け、歯が数本飛び、鼻から血を吹き出したのには若干の罪悪感を覚えた。
威勢良くクラクションを鳴らす。
気分は映画の騎兵隊だ。
愛馬はバスで、拳銃は……持っていない。
タバコも吸えない。酒なんて、もってのほかだ。
ハイヨーシルバー。
小さな家がぐんぐん大きくなっていく。
そこに綾がいる。
宗一の命じるまま、運転手はさらにアクセルを踏んだ。深く、深く。
強烈な衝撃が走った。
ブロック塀をぶち破ってもバスは止まらない。
車体は軽々と持ち上がって、猛獣が飛びかかるみたいに家へと突っ込んだ。
壁などないのも同然だった。台所だろうか、流しや食器棚が見えた機がした。
ガラス戸も、廊下も、その先の扉も突き破ったが、それでも勢いは止まらない。この運転手、死んではいないだろうか。ふと心配になって確認してみる。気は失ったままだが、これだけの衝突でも骨を数本、折っただけだ。
自分が気絶している間に何が起こったのかを知れば、後で死にたい気分になるかもしれないが、それは宗一の知ったことではない。後始末は局長の仕事だ。分をわきまえ、上司の所掌範囲を犯さぬのは部下の努めである。
忠良な部下を持って、犬の局長は感動の涙さえ流すだろう。
バスは、小綺麗な部屋を半壊させたところで止まった。
もう中年親父の体に用はない。
宗一は、ぼろぼろにひしゃげたバスの運転席から飛び出した。
家全体が揺れたかと思ったら、轟音をとどろかせて薄鈍色の車が目の前の全てを押し潰していた。舞い上がった埃に目がにじむ。車体には――よく見えないが――市営とかなんとか、黒字で書いてある。
バス?
「あれ。綾、泣いてる」
宗一がいた。その顔はいつもと変わらない。
「泣いてない」
「強がらなくてもいいのに」
「埃よ、埃」
「ふうん」
自分は馬鹿だと思った。宗一が、まるで白馬に乗って駆けつけた王子様みたいに格好いいと思ったから。胸が詰まる。呼吸を整えるなんてできそうにない。でも、相手はそんな事情などおかまいなしだった。
バスの下敷きになったはずの美代は、涼しい表情で、再び姿を現した。ただしその髪は逆立ち、怒気をはらんで不規則に揺れている。
「綾、一つになろう。それしか方法はないみたいだ」
「なあに、わたしじゃ不足?」
「そんなわけないじゃないか。ただ、うまくいくかはわからないよ」
「望むところよ。受肉は阻止できなかったのだから、仕方ないわ」
「綾は逃げてもいい。僕一人でも時間は稼げる」
「それ、もう一度言ったら怒るから」
「ごめん」
「私はね、宗一。あなたと一緒なら、死ぬのはいつだっていいの」
「……分かった」
美代の形をしたものは、手出しをしてこなかった。怒りを忘れ、周囲を気にしているようにも見える。視線だけは、僅かな動きも見逃すまいとしているようなのだが。
「入るよ、綾」
「ええ。きて」
手と手が、鼻先と鼻先が、胸と胸板が重なり合い、宗一はゆっくりと綾の中へと沈んでいった。
熱い。交わった部分が溶けて混ざりそうなほど熱い。その熱は心地よくて、脳は喜悦に染まる。刺激は体を駆け巡り、吐息となって漏れ出た。
自分の内側から宗一の声がした。耳元でそっと語りかけられているみたいだった。
「……どう?」
「女に聞くようなことじゃないわね」
「久しぶりだ」
「そうね」
「なかなかさせてくれないから」
「うるさい。どうするの、あれ。倒すんでしょう?」
「うん。いくよ」
「お好きにどうぞ。どうせ私の体を一番よく知ってるのは、宗一なんだから」
全身に、自分ではない力が漲る。綾はそっと寄り添ってそれを支えた。
差し違えてもいい。
命が終わるなら今がいい。
よく晴れた冬の夜、胸一杯に空気を吸いこんだときの感覚に似ていた。
晴れやかで、清々しい。
そして、全てが片付いた。理解は遅れて到達した。
ぱん、ぱん、と乾いた音が二つ。
そこには老婆がいた。背筋は伸び、矍鑠としている。
「参道に放り出しておいて、妙な予感がするから下りてきたらこの有り様。かわいい孫をどうするつもりなの?」
「万が一にも傷つけさせはせぬよ」
老婆は美代の頭をコツンと叩いた。
「この子たちは川崎さんの秘蔵っ子よ。あなた、さっきまんまと一本取られていたじゃないの」
「二度はない」
「一度あれば十分よ。それにどうして……。あなたはいつも喧嘩早いのだから」
「この二人は敵意を持っていた」
「事情を先に説明すればよかったものよ」
ふん、と美代は鼻を鳴らした。
「神は自ら語らぬ」
「なら言い訳はおよしなさい」
美代の形をしたそれは口をつぐんでしまった。
風もないのに。
瓦礫の合間から、転がり出るものがあった。
それは、老婆の足元で止まった。
鞠だった。小さくて汚い、今にも破れてしまいそうな鞠だ。
「どう説明したものかしら」
それはこっちの台詞だよと宗一が綾の口を通じて言いかけたので、慌てて綾は自分の口を塞いだ。
局長とほのかを乗せたヘリコプターが半壊した家の裏に着陸したときには、十分ほどが経過していた。
「改めて紹介しよう。典礼院顧問、上岡袈裟。わたしが宮内省の内局にいたころから様々に力をかしてくれた。教本の作成は彼女に頼るところが大きかった。もちろん、きわめて強力な異能の持ち主でもある」
「局長」
宗一が尋ねた。綾の中からはもう抜け出ている。
「局長は、全て知っていたんじゃないか」
「全てではない。この件とは関わりのない異存在が顕現している可能性はあった」
「少しでも教えてくれていればよかった」
「予断を与えるわけにはいかなかったのだ」
「だからと言って……!」
ごめんなさい、と謝ったのは、袈裟という名の、美代の祖母だった。
「川崎さんをせめないでちょうだい。彼は全く正しいことをしたのよ。でも、あなたたちが腹を立てるのも当然のことです。なら、責めを負うべきはわたし以外の誰でもないの。わたしの身勝手なお願いが招いたことだから」
「身勝手だかなんだか知らんが、そろそろだ。行くのか、行かんのか」
「あなたねえ。この子たちに迷惑をかけた責任はあなたにもあるじゃないの」
「あなたの血筋を守るのが昔からの約束だ」
美代の形をしたものは、つまらなそうにそう言うと、山の中へと入っていった。
老婆は溜息をついた。
「本当にごめんなさい。道すがら説明させてもらえるかしら」
綾と宗一、ほのかは何も答えなかった。
「ところでお袈裟さん」
と、これは局長。
「あなたは入院していて、とても立ち歩いたりなどはできないのではなかったか」
「そこはそれ。神様におすがりしたのよ」
「便利なものだ」
袈裟は寂しげに笑った。
獣道を踏み分けながら彼女が語って聞かせた顛末は、古いおとぎ話のようだった。
一九四五年の五月、若葉が青々と茂る夏の初め、上岡袈裟――当時は芹田智江という名前だった――は、ある青年と恋仲になっていた。動員先の工場での出会いだった。すぐに意気投合した二人だったが、なかなか二人きりになれない。
「こんど、人目を忍んで会おうと約束したのね。でも、どこで? 大発見。名案だと思ったわ。このあたりでは、昔から硫黄や鉱石が採れたの。山頂の神社も、たぶんそういった鉱物を掘りにきた人たちが、安全を祈願したのが始まりだと思うのだけど。ほとんど洞窟みたいな廃坑がいくつかあって、じゃあそこで落ち合おうって。邪魔をする人なんていないはずだった」
それは全くの偶然だった。
気まぐれな風の流れに乗って、米軍機が一機、市の上空に迷い込んだ。右の翼から煙を噴いていたから、たぶん東京や横浜を空襲した敵機が迎撃にあい、逃げてきたのだろうと今では推測されている。
しばらくして、小さく爆発したのがはっきりと見えた。機体は旋回を続け、高度を落とし、それでも市の中心を外れたところまで飛んで、ようやく爆弾倉を開いた。いくら緊急事態とはいえ、その機長には、目標ではない市街地の上で爆弾を投下するのはためらわれたのだろう。
腹に抱えていたものを捨て、軽くなった機体はどこへとなく去ったという。
「みんな、ほっと胸をなで下ろしていたわ。わたし一人を除いてね……」
すぐに救助隊が編成されたものの、捜索は当初から難航した。というより、匙を投げてしまった。
坑道の入り口は完全に潰され、当然その内部も崩壊していると思われた。そして、誰も構造を知らなかった。
絶望的だと告げられた。風の生暖かい夕暮れだった。
その夜、彼女は禁忌を犯した。
「お願いしたの。彼を助けてくださいって。でも、駄目だって。もう死んでしまっているものを、助けることはできないんだって」
美代は黙々と先頭を進む。
「だけど、それでは可愛そうだから、会わせてあげるって約束してくれたの。それがいつになるかと待ち続けて、お迎えの来る直前まで待たされるとは思わなかったけれど」
不意に木々が途切れた。
「ここは?」
「昔は『見入らずの谷』とか言ったものだ。いいか、今より決して動くな。足踏み一つしてはならん」
どうして、と口にしかけた瞬間、地鳴りがした。山全体が震えているようだ。足元が揺れる。
「どういうことなの?」
老婆が尋ね、美代が答えた。
「雨の後にはよく地滑りが起きる。見ろ」
「見入らずの谷」を埋めていた土は、ゆっくりと、次第に加速しながら麓へと流れた。その先には――半壊した、家。
「なんてことを」
「ふん。家などまた建てればよかろう。ゆくぞ。足元は悪い。気をつけよ」
谷底まで下りる必要はなかった。半分ほどのところで美代が指さす。無残な山肌に、ぽっかりと、縦一メートルくらいのひびが入っていた。その裂け目から、水のような液体が滴っている。
犬の局長は舌を伸ばしてぺろと舐め、ぺっと吐きだした。
「明礬だ」
老婆は、もう、痛みを抑えきれないとばかりに胸元へ手を押し当てていた。
「山津神さん、やっぱり嘘でした、なんていうの、ナシよ」
「少し待て。大きな仕事には力も使うし時間もかかる……。この娘の体を借りたのもそのためだ。喜べ、あなたの孫は大した力量の持ち主だ。修行を積めばご先祖の誰をもしのぐかもしれん」
「この子が望めば、ね。別の道を選んだときは、そっとしてあげてちょうだい」
「無論さ。あなたがたを陰から見守るのが、そもそもの約束だったのだ。あなたのご先祖との――。そろそろ頃合いか」
ぼろ、ぼろ、と裂け目は内側に崩れ、広がり、溢れる水量も増していった。
その光景を、美代は満足げに眺めた。
「神の出番はここまでだ。さて、今こそ術を解いてもらおう。たかだか五十年前に仕掛けた呪縛、よもや忘れてはおるまいな」
「あら、本当に効いていたの、あれ」
「さァな」
美代は慈愛に満ちた笑みを浮かべ、袈裟はそっと目元をぬぐい、深く息を吸って、染み渡るような声で歌った。
ほとんど意味は分からなかったが、最後の一節だけは綾にも聞き取ることができた。
「解きほどき、搦めの縄 ほとほと三途に 放ち、道ぎり」
糸が切れた人形のように美代の体は力を失った。倒れる寸前、駆け寄って綾はその体を抱きとめた。
裂け目から湧き出る水量はさらに増えた。
頭が、出た。
見間違いかと思った。
額まで出た。やや緑色に染まっていたが、まぎれもなく人間の頭だった。
そっと美代を横たえ、綾は割れ目のなかに浮かぶ体を引き上げた。石のように固い。ほのかも神妙な面持ちで手伝った。
「聞いたことはある」
呟いたのは局長だった。宗一は高見の見物。これは仕方ない。
「遺骸を一定の条件下で薬液に漬けることで形を保存することができるが、まれに自然界でもそういった現象が起こると。たとえば、明礬水が染みこむなどして――」
袈裟は跪き、遺体をそっと撫で、顔を寄せた。しばらくそのままでいた。
その後で、綾は、ようやくその男の顔を見た。
まるで昨日死んだみたいだと、綾は思った。




