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昨日死んだ男  作者: 安宅
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2(2)

「みどり、ちょっといい?」

 高城(たかしろ)みどりとは中学三年までクラスが同じだった。高校に進学すると話をする機会などは減ってしまったが、今でも一緒に帰ることがある。そんなとき、普段は最寄り駅で別れる。みどりは国鉄で三つ隣の駅まで行く。美代は駅前のロータリーでバスを待つ。次のバスが来るまで時間があれば、校則違反ではあるけれど喫茶店でコーヒーを注文することもある。

 みどりは中学一年の入学当初から新聞部で活動していた。

「島崎綾子? ……うーん、知らないなあ」

「知らない?」

「うん」

 みどりはうなずいた。癖っ気の強い髪先をつまみながら言う。

「だって、うちの部、高校生は男子ばっかりだもん。女子なんてわたしと、高三の坂本さんに円谷さんくらい」

 二年生の女子部員はいないらしい。

 なら、あの島崎綾子という二年生は何者だったのだろう。

「夏休み前の特集で学校の怪談をやるっていうのは?」

「なにそれ。それも島崎って人が言ってたの?」

「そうよ。いろんな怪談について聞いて回ってるんだって――」

「美代、それ怪しいよ。新聞部(うち)じゃそんな特集やらないもの。今はみんな、ミスコン出場者のインタビューと写真集めで大忙しよ」

「ミスコンって文化祭の出し物よね。実行委員の仕事じゃないの?」

「今年は大々的にやりたいってんで、委員会から申し入れがあったんだってさ。男子部員は大賛成で、鼻の下のばしまくってカメラ片手にインタビューよ。私にまでエントリーしろって言うんだもの。やだやだ」

 みどりはため息をついた。

 出てみればいいのに、とは思う。みどりならずいぶんいいところまで行くだろう。

「とにかく、その島崎って人が言ったことは全部嘘ね。部員じゃないし、そんな特集を企画してるってのもデタラメ」

 嘘なら嘘で、まだ疑問が残る。

「どうしてそんな嘘をついたのかしら。それで何か得することがある?」

「そこよねえ。目的……。思いつかないなあ。話しかけてきたのが女の人じゃなくて男だったら簡単なんだけど」

「どうして?」

「そりゃもちろん、話しかけること自体が目的なのよ。気になる女子とお近づきになるにはまず話しかけてみること。そのきっかけ作りとしてインタビューをでっちあげる。もっといいやり方があるだろうけど、あり得なくはない話よね」

「相手は女の人よ?」

「それはつまり」

 みどりの大きな目がこちらを見つめる。ずい、と顔を寄せて真面目な顔をするから、つい美代も真剣に続きを待った。

「あんたに気があるに違いないわ。その島崎って人」

「はあ」

「意外といるらしいからね。私も相談されたことあるし」

 みどりは手帳を取り出した。小さな時刻表が挟んである。ロータリーの中央には古びた時計台が立っていて、大儀そうに針を進めている。

「それじゃ、何か進展あったら教えてね。それにさ、あんたの話だとかなりの美人らしいじゃない? ミスコンに登録しないかって誘ってみてよ」

「他人事だと思って……」

「あ、そうだ。美代、あんたこそ出てみない? 絶対声かけとけって、男どもがうるさいのよね」

 カタン、コトン、と、列車の音が近づいてくる。

 みどりは改札へと走っていった。

 そこではっきりと断らなかったのには理由があった。コンテストに出たいからではなく、みどりに負い目があるからでもない。声が出なかった。

 人影に気づいたからだった。

 バス停の傍らに立って、それはこちらを見ていた。

 ぞくり、と悪寒が背筋を走った。

 それは人に違いなかった――首から上がなく、全身が押し潰されたように小さく、捻れてはいたが、その輪郭は人間を想起させた。体を覆うものは何一つ身につけていない。生気のない白い肉を震わせながら、それはただ美代を見ている。 

 なぜこちらを見ているとわかるのだろう? 胴体の上、まるく盛り上がった部分が首の付け根のように見えるだけで、顔などない。目も鼻も、口もないのに。

 それは、ぴく、と動いた。いくつもの皺が寄り集まっては消えた。その動きだけで吐き気を催すほどおぞましかった。鳥肌が立つ。寒い。また動いた。どれも長さが違ういびつな四肢をくねらせ、よじらせて、ずる、ずる、と近づいてくる。誰か! 皺が波打つ。脚が動かない。それの体が前のめりになり、手をついた。血管らしきものが浮き、骨張っていたが、指の肉だけは水死体のように膨れあがっている。その手が地面の舗装を引っ掻く。美代は口元を押さえた。黄色い爪が剥がれ、肉はすり切れてやぶれ、透明な汁が滴った。強烈な腐臭が美代を襲った。

 もう片方の手がぴくぴくと痙攣しながら持ち上がり、何かを求めて空を切ったとき、ふっと体が自由になって、美代は駆け出していた。どこへ、というあてもなく、とにかく見知った場所へ。

 からんからん、と小さな鐘が鳴る。店に入り、急いで扉を閉める。客はいない。振り返る。ガラスのはるか向こうにバス停が見える。何もいない。本当に?

 視線を右から左に走らせる。

 いない。

 左から右へ――やはり、いない。

 金森(かなもり)コーヒー店。美代は息をついた。気づけば心臓は痛いほど早く鼓動していた。制服が肌に張りつくくらいびっしょりと汗をかいている。その一滴が胸元から腹へ伝っていくのがわかった。気持ちが悪い。

「あら美代ちゃん、いらっしゃい」

 店の奥からころころとした中年女性が出てきた。洗い物をしていたのだろう、片手に手ぬぐいを持っている。手ぬぐいを折りたたんでエプロンのポケットにしまう。美代は会釈を返すので精一杯だった。全身の力が抜けた。

「顔色が悪いわね。どうかしたの? それに、汗までかいて。バスに遅れそうになって、走ってきたのかしら。……でも、次のバスまではまだ時間があるわねえ」

「友達が――忘れ物をしちゃって」

 ようやく、酸素が頭にもまわりはじめた。

「明日までの、課題のプリントなんですけど、その娘、駅から国鉄なんですよね。だから、急いで追いかけて」

「そう、大変だったわねえ。いつものでいい?」

 お願いしますと答え、美代は適当な席を捜した。他に客はいないのだからどこに座ったっていいのだが、窓際の席はためらわれた。座った瞬間、あの得体のしれない化け物がこちらをのぞき込んできそうな気がして――今更になって、あれがなんだったのかという疑問が頭をもたげてきた。あの姿を思い出すだけで胃がせり上がってくるようだ。何かの錯覚だったのだろうか。あるいは、貧血かも。朝礼のとき、目まいがして校庭にしゃがんでしまったことはある。でも、あんな幻覚をみることなんてあるんだろうか?

 とりあえず、席につこう。

 美代は小さな店内の真中あたり、壁際の座席を選んだ。

座り心地の良い椅子に腰をおろす。ほっとした感じがする。

「はい、アイスコーヒーね」

 ストローを挿すと、氷が澄んだ音を立てた。

「あ、おいしい」

 そう? とおばさんはうれしそうに笑う。

「横浜の豆屋さんが送ってくれたのよ。こんどコロンビアの農園と契約したんだけど、参考にどうぞって」

「ブレンドですよね?」

「そうよ。今季の新作。美代ちゃんが第一号」

 さわやかな苦みの中に、豊かな香り。適度な酸味と、いやらしくならない程度の渋みが全体を引き締めている。読み囓った雑誌をまねて評価しようとしてみたが、これは難しい。

 妙な努力はやめて、素直に味を楽しむことにした。ミルクをほんの少しだけ垂らす。ブラックもいいけど、このくらいがちょうどいい。

 バスまでには二十分あるから、ゆっくりとコーヒーを飲んで、それから……

 からん、と鐘が鳴った。店の扉に備え付けられた小さな銅製の鐘で、扉の開閉があるとそれにあわせて揺れ、独特な音色で来客を告げる。

 美代は息を呑んだ。

 島崎がいた。

 その姿を見た瞬間、二つの出来事が繋がった。島崎はなんと言っていた? なにか、奇妙なものを見たことはないか――

 上岡さんは「この世ならざるモノ」を見ることができるって――

 島崎は美代に考える時間を与えてはくれなかった。つかつかと歩み寄ってくる。目つきは鋭く、美しく整った顔立ちなだけに凄みがあった。印象は、初めて見たときとは全く違っていた。全身から物々しい雰囲気が発散されている。

 そして、衝撃をうけた。

 美代の中でいくつかの思考がはじけた。

 島崎の後ろには、あの男子生徒が従っていた。食堂で見たのは幻覚でも思い違いでもなかったということだ。だが人間が消えたり現れたりするはずがない。なら、自分が見たのは? いま、そこに立っているものはなに? 

 さっきの、あの化け物はなに?

 早く。ここから立ち去りたかった。二人は偶然この店に立ち寄っただけかもしれない。顔をうつむける。どこかへ。島崎と、その男から離れたい。生理的な恐怖が美代を動かしていた。

「おばさん!」

 島崎を出迎えようとした金森は、突然の大声に驚いてこちらを振り返った。

 お会計、と美代が言うより早く、後ろの男が動いた。スッと手が伸びて、その指先が額に触れる。あり得ないことに、指は半ばまで沈んだように見えた。指が額から抜け出ると、体を支えていた糸が切れてしまったみたいに崩れ落ちた。カウンターの裏に姿が隠れ、床にぶつかる鈍い音がした。

 悲鳴が漏れた。自分の喉からだった。

「落ち着いて」

 島崎が言う。

「気を失っただけ。まだ誰も死んでいないわ」

「ま、まだ……?」

「そうね。最初に死ぬのはあなたかもしれないけれど。話を聞いてくれるかしら?」

 ぬっと頭を突き出して、緊張感のない声が割り込んだ。

「僕はまだ挨拶してなかったよね。こんにちは。名前は樟宗一。なんとなく察してるとは思うけど、僕は人間じゃない。いや人間だったんだけどちょっとした事情があってね。ほらこの通り、カップを手に持とうとしても――すり抜けるでしょ? いやさっきは本当にびっくりしたなあ。僕の姿は見えないのに、君には見られちゃった。意味わからないよね? わからないよ、普通。混乱してると思う。これがなんでなのかっていうと」

「宗一」

 島崎は樟と名乗った男を睨んだ。

 立ち上がったまま、力が抜けて、美代は再び椅子に腰を落とした。かちん、と、まだ溶けきっていない氷が鳴った。



「まずは謝らせてほしいの。わたしはあなたに嘘をついたから」

 どうせなら全部嘘だと言ってくれればいい。

「まずわたしの名前は、島崎綾子ではなく、二崎綾。本名と偽名が似ているのは、その方が使いやすいから。新聞部の部員だっていうのも嘘。部活に入ってはいないし、学生でもないの」

「でも、その制服……」

「着てるだけよ」

「いわゆるコスプレだね」

「やめて。あなたが言うとやらしいわ」

 二崎は白いマグカップに口をつけた。勝手に淹れたコーヒーだ。コーヒーメーカーの使い方は知らなかったらしく、逐一、樟という男が二崎に教えていた。ただ、それは美代に樟が見えるからそうとわかるだけで、何も知らなければ、二崎が一人で黙々とコーヒーを淹れているようにしか見えなかっただろう。指示を出すタイミングといい、仕草の中のさりげない待ち方といい、息がぴったりとあっていた。

 黒い液体を口にふくんだ二崎の眉間に皺が寄る。

 ……ブラックは苦手、なのかもしれない。

「あの、お砂糖とミルク、使いますか?」

 ファンシーな意匠の角砂糖入れを受け取った二崎は、なんだか悔しそうだった。

「可愛いよねー」

 声を潜めて言ったのは樟だ。

「えっ!? え、ええ、はい!」

 二崎の顔が一気に赤くなる。シュガートングをつまむ指に力が入りすぎて角砂糖が砕けた。

 美代はあわてて紙ナプキンを差し出した。

「宗一! 人前でなに言うのよ!」

「綾ってさ、いつもクールでお澄まししてるけど、たまに無防備なときがあるんだよね。そこをこう、つっつくとこんな感じ。実に可愛らしい」

「はあ……」

 美代は素直に感心した。

「おふたりとも、仲がいいんですね」

 二崎は沈黙を貫き、樟はうんうんとうなずいた。

「そりゃもちろん、なんたって僕が最初に死んだときはもう、ぼろぼろ泣いちゃってさ。『死なないで、宗い――』」

 見事だった。いつの間にか二崎の右手は灰皿をつかんでおり、一切の予備動作なしにその角で樟の鼻っ面を痛打していた。樟はのけぞり、両手で鼻を押さえている。

「余計なことは言わないでいいの」

「だ、大丈夫ですか!?」

「大丈夫だよ。ぜーんぜん」

 言葉のとおり、樟はけろりとしている。鼻血など出ておらず、腫れてすらいない。

「ほら、さっきやってみせたじゃない。僕は物に触れない、というか触ってもすり抜けちゃうし、逆も同じ。だから痛みも感じない。なんとなく理解はできてもね。で、何にも感じないのって意外とつらいんだよね。気分を紛らすために、こうやって蹴ったり殴ったりしてもらってるわけ」

(あ……)

 二人の言動に気を取られていたが、謎は全て、まるまる残っている。しかも、いまの光景と樟の言葉は、何か、昨日までの常識を覆す異質なモノが実在していると雄弁に物語っている。

(本当に、そうなんだ……)

 樟は真剣な表情になっていた。

「上岡さん」

「はい」

 美代も、自然と引き締まった面持ちになった。

「綾とも相談して、ちょっとした『どたばた喜劇』をしてみせれば緊張がほぐれるんじゃないかと思ったんだけど、どうだろう。落ち着いて、話、できそう?」

 二崎の表情も、超然とした、クールなものに戻っていた。

「……」

 もっともその頬には、まだうっすらとした紅が残ってはいたが。



 どこから説明したものかなあ。なかなか全容を把握するのは難しいと思う。僕らにだってわからないことだらけだからね。できるだけ順を追って話すから、途中で疑問に思ったり矛盾に気づいたりしても、まずは最後まで聞いて欲しい。

 オーケー? うん、まずは「異存在」から。学食では、綾は「この世ならざるモノ」って言っていたかな。わかりやすいよね。それがどういうものか直感的に納得できる。けど、誰かが言ったように「わかりやすいものが正しいとはかぎらない」。「異存在」は、まず間違いなく「この世」の中に存在しているんだ。僕らが生きているのと同じ、この世界にね。

 あ、僕が生きているといえるのかどうかについてはいろんな解釈があるけど――今は関係ないね。自分では、生きているといって差し支えないと思ってる。

 さて、「異存在」。

 これは実在している。でも、彼らはいったい何者なんだろう? まだ答えはないんだ。精霊だとか幽霊、悪魔だっていう人もいる。宗教的な立場からの、いわば伝統的な認識だね。歴史上、長い間この認識が支配的だったんで、いまでも僕らが使う用語の中に名残がある。「受胎」とか「精触」、「顕現」とかね。これは後で説明するよ。

 次に、もっと科学的に――というよりは宗教的な予断を排して「異存在」を定義しなおそうとする人たちも出てきた。十八世紀半ば頃からだったかな。彼らの考えは非伝統的認識と呼ばれていて、それによると「異存在」は僕らと変わらないこの世界の住人なんだけど、何らかの理由で見えもしないし触れもしない。お互いに干渉できない。非伝統的な用語では「障壁」とか「境界が保たれている」っていう。ところが、やっぱりなんらかの理由でその「境界」が曖昧になるか、すり抜けてしまうものがいる。伝統主義的にはこれを「顕現する」ともいう。「顕現」すると、人の目にも見えるか、見えやすくなる。どのていど見えやすいのかは、不確定性原理の壁を越えてきた隣人と状況次第なんだってさ。

 非伝統主義の言葉を借りればこんな感じ。正直僕も理解できてない。たぶん、誰もね。

 ただし、はっきりとしている事もある。どのような原理が働いているにせよ、顕現した「異存在」を認識できる人間とできない人間がいるって事実だ。そういう認識力のある人間を伝統的には「霊感がある」といったり、非伝統的には「親和性が高い」といったりする。つまり、君は「霊感」があって「親和性の高い」人間ってわけだ。僕が見えているくらいだし。さっきのアレも感づいたんじゃないかな? あの、白い肉塊を。出来損ないの水死体みたいで気持ち悪かったねえ。



「見ました。わたし、バス停の傍で!」

 美代は叫んでいた。二崎の肩が、ぴく、と動いた。樟はにっこりとうなずく。

 なんとなく気恥ずかしさを感じたが、気を取り直して思い出す。美代はなんと言っていた? そうだ、確か……

「その化け物――『異存在』って言うんでしたっけ? それと、わたしや、わたしの祖母になんの関係があるんですか?」

「直接の関係は、ないと思う。強力な『異存在』が力を保ったまま顕現すると、その前後で程度の低い連中が出現するらしいことは記録でわかっているんだ。だから、その一環だろうね。予測されるのは、今後、そういった小さな『異変』が大きくなっていくこと。もう一つは、その変化の過程で、桁外れの何かが起こるだろうということ」

「その『何か』に関係が……」

 答えたのは二崎だった。

「ある。と、考えているわ。もし私たちの考えが正しければ、あなたたちの身に危険が及ぶこともあるかもしれない」

 美代は、二崎と樟がこの店に入ってきたとき自分に放った言葉を思い出した。

 最初に死ぬのは――

 心の内を覗いたかのように、二崎は今までになく優しい声で言った。

「心配しないで、『異存在』から守るために私たちはここにいるの。でもそれにはあなたの助けが必要。協力してもらえる、かしら」

 美代はうなずいた。うなずく以外に、なかった。

「わたしにできることなら、なんでもします。でも、まだ頭が混乱していて……」

「時間は、必要よね」

「……」

「あまり余裕はないけれど、いいわ。今日はこのくらいにしておきましょう。ごめんなさいね、驚かせてしまって」

「いえ、それでは……。あの、そろそろバスが来ますので」

 どこに行くのか、とは聞かれなかったし、伝えなかった。伝えるべきだったのかもしれない。彼らの話によれば自分の祖母は今日の一件に巻き込まれているらしく、自分がこれから向かう先はその祖母のもとなのだから。

 なぜ伝えなかったのか。理由はない。頭はまだまだ混乱していたし、圧倒的な二つの事実――あの白いぶよぶよとした化け物と、樟宗一という現実的ではとうていありえない存在――によって彼らの説明を受け容れてはいたが、心底納得したわけではない。靄のような不信感はなおつきまとっている。

 平静を装ってカウンター脇を通り抜けたとき、床に倒れたままの「おばさん」の姿が目に入った。熟睡しているようであった。安らかな寝息さえ聞こえてくる。

 美代は立ち止まり、振り返った。

 二崎と樟はそこにいた。二崎は背を向けたまま白いカップを口元に運んでおり、樟の方はにこにこと笑顔でこちらを見送るつもりでいたらしい。

「どうしたの?」

「……お会計、どうしましょうか?」



 からんからん、と鐘が鳴り、扉の閉まる静かな音がそれに続く。ちらと見やれば、綾は蝦蟇口を開けて小銭を数えていた。陶磁よりもなおつややかに白い指先と比べて、金属貨幣のくすんだ色合いはたとえようもなく無粋だった。

「僕らってさあ」

「なあに?」

「悪役だよね」

「どうして?」

「嘘をついてゴメンって謝ったその口で、また嘘をついたりさ。『異存在から守るために』かあ。いざとなれば彼女の方こそ殺さなきゃならないのにね。――拳銃、どう?」

 綾はスカートの内側に手をやった。手が上に向かうとともに、瑞々しい太ももがあらわになる。その付け根付近を革製のベルトが縛っており、ベルトには簡単なホルスターが吊られている。

 銃身長五一ミリメートル、三八口径のニューナンブ回転弾倉式拳銃。昔は宗一も使っていた。美代はそれを手にとって銃身を撫で、弾倉を弄んでまたホルスターに戻した。

「重さがなじんでいてちょうどいいわ。落ち着きさえ感じるくらい」

 おっかないな。宗一は苦笑した。

「いざとなれば射殺するとは確かに言わなかったけど、守りにきたこと自体は本当だもの。私たちが精触より前に『異存在』を遠ざけてしまえばそれで済む。さっきの――バス停にいたアレはどうだったの?」

「あれは雑魚だったね。手を突っ込んで、いつも通り中からちぎってそれでおしまい。うろついているのがあんな小物だってことは、本番まではまだ時間がありそうだ」

「その『本番』が、実は大した『異存在』じゃない、肩すかしだって可能性は?」

 宗一は首を横に振った。

「予知夢は運任せだけど、絶対だから。僕だって、今回ばかりは外れてほしい――。局長の言ったとおり、僕らも記録を残せない目にあうよ。僕も綾も死ぬ。僕は二度目、今度こそ正真正銘の死だ」

「それは、仕方のないことよ」

 綾はたおやかに微笑んだ。視線が絡み、思わず顔を寄せると、綾は目を閉じて控えめに唇を突き出したので、宗一はそっと口を重ねた。柔らかに触れているのがわかる。わかるだけで、感覚はない。宗一はこのやるせなさを心の底から恨んだ。

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