2(1)
「広いわね」
プラスチックのトレイには、長いこと並んで購入した「うどん(小)」。綾は小食である。
「それに、凄い混みぐあい」
食堂に連なる学生たちの列は各所で折れ曲がりながら、それでも最後尾に加わる人は次々とやってくるし、みっちりとつめこまれた長テーブルにはほとんど空席がない。
「この近辺で最大の学校らしいからね。中等部と高等部、あわせて二千五百人の生徒数だってさ」
なるほど、小学校を卒業していくらもたっていなさそうな紅顔の少年から、校則の範囲内で身なりのアレンジを覚えはじめた少女たち、規則破りをしたくてたまらない年頃の上級生たちと、年頃や背格好にはかなりの幅がある。彼らは「普通の学生」をテーマにした作品で、ここはその展示会場に違いなかった。テーマに外れた者は入場を許されない。
「ねえ宗一?」
「うん?」
「不審に思われていないかしら。私たち」
「どうして?」
「だって……。学校は十の頃までしか通ってないから学食なんて使うのは初めてだし、こういう制服だって、めったに着ないのよ?」
「食券売り場でも、誰も気にとめてなかったよ。リラックスしていれば大丈夫」
声は綾の背後についてくる。
「ならいいけど」
「服装の心配も必要ないよ。この前のブレザーもグッときたけど今度のセーラー服も可愛くて最高だ。ショートヘアの下に垣間見える細いうなじ、スカーフに覆われた細い肩、無防備な背中もセクシーだし、締まったヒップが微妙にブリーツスカートのひだを押し上げ、そこからスラッと伸びる太ももッ――」
左足の踵を立てて勢いよく踏みつける。足の先を。
宗一は片足を両手で抱え、もう片方の足で飛び跳ねながら後ずさった。
「鉄ッ! 鉄を仕込んだ踵でそれは駄目ッ!」
正面を向いたまま、綾は小さく笑った。――宗一が視界に入ると、他人にもその姿が見えてしまうので。
「ほら、探すわよ。目標が教室に帰っちゃうから」
「あ、いた」
「どこ?」
「あそこ。髪の長い女の子で、右手に割り箸、うどんを食べてる。手元には水筒と、あれは蜜柑かな?」
「これだけ人が多いと、それだけ教えられてもわからないわよ」
「そうかな」
「ええ」
「あ、そっか。僕は一度、ほのかちゃんの中で見てるから」
「……」
「場所で言うよ。一番奥から手前に向かって四列目、左端の長机で、通路から五番目の席に座ってる。ちょうど良かったね。向かいの席もたったいま空いたみたいだ」
そこには宗一の説明通りの少女がいた。たぶん高等部の所属で、立ち上がれば、背丈は綾より頭半分ほど高いだろう。
「名前はわからなかったのね?」
「姿形とか、ちょっとした光景以外には、何も。名前もだけど、具体的な状況……『いつ・どこで・どうして』を特定できる情報が、不思議なくらい読み取れなかった。制服を着て食堂にいるイメージが読めなかったら、手も足も出なかったね」
「予知夢はくじみたいなものだもの。仕方ないわ」
『誰が』がはっきりしただけでも御の字だ。そして結果を左右するのは、運試しの後でどれだけ現実に成果を挙げられるかなのだと綾は考えている。
綾は、少女のもとへと向かう。
その少女はまだ人間だ。綾と変わらない。精触を経てしまえば人間とはいえない何かになる。その前後を区別する言葉はない。ただ「受肉者」とだけ呼ばれている。理由はなんとなく察しがつく。精触の前にしろ後にしろ、その「受肉者」が、現場の人間にとっては処置の対象であることに変わりはないからだ。時間の経過、脅威としての度合いによって処置の方法が異なるだけで、綾や宗一にとっては、精触の前か後かというのは、必要な処置が変化するという意味でしかない。
「受肉者」本人にとっては違う。たいていの場合、精神的にも肉体的にも、精触は不可逆的な変化をもたらす。当然だ。自分でないものが自分と溶けあい、混ざり合うのだから。
いや、綾はもっとふさわしい表現を知っていた。
喰われる。
肉体は略奪され、
自我は陵辱される。
冒涜的な厄災だ。
いま、少女は何も知らないままその厄災の中に放りこまれている。
綾は混み合った座席の奥を、そこだけ空いた一席へと進んだ。愛想笑いの作り方を記憶から引っ張り出す。
「ここ、いいかしら」
少女は顔を上げた。
「どうぞ」
自分と同じ高等部の制服。学年記章は相手が二年生だと教えてくれた。
その上級生には見覚えがなかった。他に席が見あたらないから、自分の向かいに座っただけだろうと思ったのだが、その上級生は、花のような笑顔で美代に語りかけてきた。
「一人なの?」
「?」
「お昼ごはん」
「ええ――いつもは部室で食べてるんですけど、今日はお弁当を持ってなかったので」
「部活、入ってるんだ」
「茶道部に、今年から」
綺麗なひとだなあ、とちょっとだけ気圧されながら、なぜ話しかけられているのかわからないまま、美代は答えていた。
「ふうん。あ、私は島崎綾子。『言葉の綾』の綾に、『子供』の子で綾子。……あなたは?」
「上岡美代、です。『美しい』に、『時代』の代」
「なるほど。で、ところで」
島崎と名乗った上級生は身を乗り出した。肩口で揃えられた黒髪が揺れた。
「私、新聞部で記者をやってるんだけど、少し取材させてもらえないかしら。最近、変な噂が飛び交っているのよね。聞いたことない?」
「……噂、ですか?」
「そ。まあ、ほとんど『学校の怪談』みたいな、下らない話ばかりなんだけどね」
メモ帳を取り出して島崎が言うには、
夕方、道を歩いていると、誰かに見られているような気がする。あるいは、空気が冷たくなって、その場から走り去りたくなる。
誰もいないはずなのに物音がする。
飼い犬が散歩の途中で突然吠えはじめ、ぐるぐると回りだす。しばらくすると落ち着くのだが、急に狂騒状態に陥ったり、意味不明な行動をとる。その後、五日経つと死ぬ。
夜、校舎の三階に照明がともる。戦中、艦載機の機銃掃射を受けた子供たちの霊が、当時病院として使われていたこの校舎の中をさまよい、医者を捜している。
楽しく話していた友人が急に黙りこくってしまい、意識を失う。目が覚めると別人のようになっており、うつろな目でどこかを見つめている。視線の先を追ってみると、おぞましいとしか言いようのないものがゆっくりと近づいてきている。二人とも霊感が強いと評判だった。
などなど。
聞き覚えのある話もあれば、まったく耳にしたことのないエピソードもあった。
「怪談、ですね」
「そ。つまらない怪談。夏休み前恒例の特集でね。上岡さんも、他に何か知っている怪談とか、ない? いま話したものに付け加えたり、修正したりするようなもの」
考えてみる。が、思いつかなかった。
「そっか、ざんねん」
言葉のわりには残念でもなさそうな感じ。
島崎は、話し始めた当初と変わらない、知人に世間話でもするような口調で続けた。
「上岡さんなら、面白い話が聞けると思ったのに」
「どうしてですか?」
「あら、有名じゃない」
自分が有名?
「――霊感が強い、って」
「そんなこと」
「本当に?」
「霊感って、幽霊が見えたり、気配を感じることができたり、っていうものですよね。私、そういう何かを見たり感じたりしたこと、ないですよ」
「でも聞いたんだけどな。上岡さんは『この世ならざるもの』を見ることができるって。――ねえ。最近、なにかおかしなこと、起こらなかった?」
急に可笑しさがこみあげてきた。島崎という先輩の口調や表情は他愛もない話題にふさわしいくだけた感じなのに、目つきは真剣そのものだった。幽霊だの霊感だのという荒唐無稽なネタを内心では本気で追いかけているのかなと思うと、愛想笑いとは別に、口元がほころびそうになった。
「夢、でもいいんだけど。影のかたまりみたいなものがあって、それが手を伸ばしてくるの。その手が体に触れたり、影自体、人の形をしていて、覆い被さってきたり、体の内側を探ってきたりとか」
そんな夢を見れば怖い思いをするに違いないだろうが、怪談のネタとしてはちょっと異質な気がする。ここのところ、悪夢どころかどんな夢を見たかさえ覚えていないと正直に伝えたら、そう、と素っ気ない返事が返ってきた。
よくわからない。熱心なのか、そうでもないのか。でも新聞部の取材というのは、もともとこんなものなのかもしれない。興味を惹く回答がなければそれで終わり。
「うどん、食べてしまっていいですか?」
大時計は、あと十二、三分で授業が始まると告げていた。
「どうぞ。ごめんなさいね、邪魔をしてしまって」
いいえ、こちらこそ。お役に立てなくて。
あまりおいしくはない。麺が伸びてしまったからではなくて、もともとだ。素うどんは学食メニューの中でいちばん安い。なので味とは関係なく人気がある。列の長さも定食と並んで一位、二位を争っている。料金をプラスすれば油揚げや天かすを追加できるが、ここの油揚げは小さいうえに味が濃すぎて敬遠されがちである。醤油が油揚げの形に固まったんじゃないかと思うような味がする。天かすはまだましというか、桜えびも混じっていてむしろおいしいのだが、量が多く、こんもりと盛られてしまう。美代には油っこくなりすぎて、一度食後に胃もたれして以来、食堂で昼食をとるときはずっと素うどんである。
ふと島崎と名乗った先輩のほうを見ると、彼女は箸をつけていなかった。
美代は違和感を覚えた。箸をつけていないからではない。昼食を買っておきながら食べないというのは変だが、他に原因があった。ただ、単に変だなと思っただけで、なぜ変だと感じたのかはわからなかった。
一口すする。
再び島崎のほうを見る。
何かを思案している様子だ。取材が思った通りにいかなかったので、どうしようかと悩んでいるのだろうか。
いや。
注意を傾けているようにも見える。美代に対してではない。他の誰かに、といった風でもない。では、何に対して?
無意識だった。
意図せず視線が吸い寄せられた。思案げな島崎の左、さっきまでそこでランチをかきこんでいた生徒が食事を終え、その後誰も座っていなかったはずの席に、一人の男子生徒がいた。椅子にではなく机に座って背中をこちらに向けている。行儀が悪い。そしてどうやら、その男子は島崎に語りかけており、島崎はその男子を見ることなしに、聴覚的な注意だけを向けているようだった。
いつの間に、と思って瞬き一つ。
「――!」
次の瞬間には、その姿は消えていた。箸を落としそうになった。島崎の隣には誰もいなかった。ただ、どうしてかはわからないが、まだそこにいるという感じがした。島崎はこちらを見据えていた。人当たりの良さそうなほほえみに変わって、形の良い唇は引き締められていた。
「上岡さん」
声が出ない。金縛りにあったかのように、体が動かない。錯覚だった。口の中に、飲み込む前の麺が少しだけ残っていた。けほっ。むせる。
「は、はい」
声がうわずった。
「親戚――がいるわね。女性の。いいえ、待って――お祖母さん?」
うなずく。
「お祖母さんね? そのお祖母さん――ちょっと変わった仕事をしていらした? 神職か、尼僧か――。お寺に関係がおありだったんじゃない? それも、結構密接に――」
また、うなずく。うなずきながら、美代は恐ろしくなった。驚きではなく恐怖だった。
島崎の口が語ったことは事実であって、そうかと問われればうなずくしかなかった。美代も一度だけ、祖母から聞かされたことがあった。しかし他言してはならないと戒められ、人に話すほどのことでもないと思っていたから、祖母との約束を破ったことはなかったし、祖母も自分から話そうとはしなかった。島崎が知っているはずのない事実だった。
「お祖母さんはどうしていらっしゃるの? 何か奇妙なものを見たって、最近聞かされなかった? お祖母さん自身でなくても、上岡さん、あなたが、お祖母さんの周りに何か不思議なものが近づいていたのを感じたりはしなかった? そうでなければ、時々どこかを見つめて、ぼうっとしていたりとか、意味のよくわからない言葉を呟いていたりとか――」
美代は立ち上がった。恐怖のあまり突然に、とか、その場から逃げようともがくように、という意味が「立ち上がる」に含まれるといっていいのであれば。
「すみません。次の……授業の準備が、ある、ので――」
人混みをかきわけながら容器の中身をこぼさないよう注意しつつ、それでもできるだけ早く。美代はその場を後にした。
二年の教室は三階にある。食堂を出、風の涼しくなりはじめた秋空の下をくぐり、ようやく一息落ち着いた気がしたのは、二階から三階へと続く階段をあがりきってからのことだった。
「ごめん、気づくのが遅れた」
「どちらのこと?」
「両方」
綾は割り箸を手に取った。ぱきん、と小気味よい音をたてて箸は二本に別れた。
「血縁に手がかりがあるなんて――珍しい話でもないわけだし、もっと早く感知できていてもよかった。身辺調査書にそれらしい記述がなかったから、注意がおろそかになったかな。彼女のお祖母さんについてわかっていれば、別のアプローチもあったかもしれない」
綾は、宗一のほうを見ないよう視線を動かさないのに苦労していた。軽薄なようでいて、自分の責任について重く考えすぎてしまうところがある。欠点といえるほどのものではないし、責任感が強いのは美点なのだろうが、宗一が落ち込んでいると思うと、心のどこかで柔らかい部分がさざ波立って仕方なかった。
「予知夢というのはそういうものだって、さっきも言ったわ」
綾は素っ気なく言った。
「卦とか、読むとか、解釈するところまで含めて。いつも都合良くいくとは限らない以上、この時点で手がかりが増えたのは儲けものよ」
「そうかな」
「だと思うけど?」
もう一点、美代が宗一の存在に気づいたことは、潜在的な親和性の高さをはっきりと示していた。綾と宗一に対しても、他ならぬ美代自身に対しても。そしてこの類の能力には、自分がその能力に気づいて初めて自覚的に行使できるという特徴がある。
「嘘をついているようには見えなかった。たぶん、本当に異存在を感知したことはないのね。時間の問題ではあったはずよ、『受肉者』になるほどの親和性を持っているわけだから。今回彼女が宗一に気づいたことで、ついさっきまでは思いもよらなかった『この世ならざるもの』の存在を意識しだすのではないかしら。きっと今まで注意を払っていなかったところに目が向くようになって、そうしたら、見えてしまうという現実に直面することになる。私たちの信憑性はいやにも増すでしょうね。彼女の中で」
「周囲に言いふらすかも」
「誰が信じるの? 冗談か、錯乱したかとあしらわれるだけよ。一人で抱え込むにせよ他人に助けを求めるにせよ、強い葛藤に悩まされるはず。そこが狙い目ね。うまくいけば完全な管理下におけるかもしれない。精触を防ぐ可能性があるとすれば、まずはそれが第一歩よ」
「……難しいね」
「局長が言ってたでしょう、似たような状況下での記録が残っていないって。つまり成功例がないってこと。難しいのも当然よ」
「ケガの功名、になるかな」
「そうね」
時計を見る。人影はまばらになってきている。どんぶりの中には手をつけていないうどんがまだ残ったままである。早いところ片付けてしまわなくては怪しまれる。
「たまには必要よね。そういう考え方も」
宗一は納得したような、しないようなうなずき方をした。
麺をすする。弾力に乏しい、安っぽい麺が口腔の奥へと運ばれた。次は焦げっぽい飴色をした醤油ベースの液体。濃い口で辛い。無理矢理付け足したような甘みが尾を引いて残る。
「おいしいじゃない、これ」
「そうなの?」
綾には、料理へのこだわりがない。




