救いの手
「おい、戻ったぞ」
この国の王に、影が近寄る。彼は王の私兵であった。真っ黒の短い毛並みを持つ黒狼だ。名をヨークと言い、王に敬語を使わない唯一の従者であった。だからこそ王は彼を友として傍に置いている。
王は若いホワイトライオンで、キラキラと輝く白銀のたてがみをもっている。濃い赤の軍服には沢山の勲章が輝き、黒いマントは黒檀のように深い黒で、若い獅子の白さをより引き立てている。
「来たか。どうだった?」
王がそう言うと、影は一枚の紙を取り出し、それを王へ差し出す。そこには、始祖人間についての報告が書いてあった。
「……なるほど。研究所からの報告どおりだな……本当に始祖人間が見つかるとは。お前から見てどうだった」
「どうもなにも……見た目が人間と言うだけで、頭の中身は動物と同じだろう。考える力もあれば、感情もある。今は人体実験をされそうになって落ち込んでいるようだな。それから動物不審になっている。だが、今晩にでも職員の手引きで脱走するらしいぞ。回収するなら今晩だ」
「そうか――……」
王はどうしたものかと視線を彷徨わせた。
初めに人間研究所から始祖人間についての研究報告があったのは、数年前のこと。その時は、次々と研究所から知らされる“始祖人間の死亡報告”に、始祖人間は全員目覚めることなく死ぬのだろうと思っていた。
しかし、つい先日に始祖人間が一人だけ目覚めたと研究所から報告があったのだ。
この研究所はこの国で最も早く人間の研究に携わっていたために期待はしていたが、もたらされた報告は王の期待以上であった。
「さて……どうするか」
しかし、問題が発生したのだ。
研究所の動物たちが、研究熱心過ぎて始祖人間を殺してしまうのではないかと内部の動物からリークがあった。匿名でもたらされたそれを受け、王は密かに私兵を走らせたというわけだ。
「……困ったな。俺は始祖人間が欲しい。王の権限を振りかざすか」
「それでは研究機関の者と変わらないな」
「よし、王の権限を振りかざすことにしよう」
キラキラとした笑顔を浮かべる王に、ヨークは隠すことなくため息をつく。
「頼んだぞ、ヨーク」
「……仰せのままに」
ヨークは音も無く部屋を去る。
「楽しみだな、始祖人間か。あの研究所の悪事をあばくのに丁度良い」
ヨークの気配が完全に消えたのと同時に、王はニヤリと口角を上げた。
* * * * *
「こっちよ……!」
小梅が鼻をヒクヒク動かしながら、少女の手を引く。
そしてリネンカートに少女を押し込むと、上からシーツを山ほどかけてカートを押し始めた。少女は息を潜めてジッとしている。
「声を出さないでね」
少女は心の中で『はい』と返事をしながら、自分はなぜこんなことをしているのだろうと考えていた。
そもそも、脱走するつもりは微塵も無かったのだ。しかし、シーツ交換に訪れた小梅が『実験が早まって、夕方には所有権登録を行なうことになったわ!』と慌てたように“最終決断”を迫ってきたのだ。
「ああ、どうしましょう……王宮へ投書をしたけれど、見てもらえるとは思えないし……見てもらえても助けてくれるかなんてわからないんだから、私が頑張らないと……!」
小声でブツブツと不安そうにつぶやく小梅。それを聞きながら、少女も段々と不安になっていった。
もし見つかってしまった場合、自分はどうなるのだろうと考える。その先はけっして良い思いはしないだろうと思うと、今すぐ『やっぱり戻ります』と言いたくなるほどだ。
「大丈夫……大丈夫よ……ジョーがミヤ先生の気をそらしてくれているから……」
少女がそっとシーツの間から小梅を見れば、耳も尻尾もピンッと立っていてどう見ても緊張しているのが丸わかりであった。
本当に大丈夫だろうかと不安になってきたころ、リネンカートが大きく揺れて額を打つ。なんとか声を出さずに済んだ少女が小さくため息をつけば、小梅から『ごめんなさい』と小さく声が上がった。
「ついたわ。最後はちょっと乱暴だったけど……もう出ても大丈夫よ」
少女の頭上でシーツが取り払われていき、ほぼ同時にリネンカートから少女が顔を出した。
そしてお互いに見つめ合い、沈黙が流れる。少女が口を開き、ポツリと言葉を漏らした。
「どうして――」
「やあ、遅くなってすまない」
少女の声をさえぎるようにして低い声が響き、ジョーが巨体を揺らしながら小走りで走ってくる。小梅も少女もそちらへ顔を向ければ、フウフウと肩で息をしながら衣類を運んでくるジョーが見えた。
「さあ、これを着て」
そう言いつつ、衣装を小梅に渡す。
すると小梅は手早く少女の服を脱がせにかかった。一瞬驚いて体を強張らせると『大丈夫よ』と言いながら笑われる。
動物相手に恥ずかしがることもないと思った少女は、自分で衣類を脱ぐのを手伝った。するとジョーも小梅も『やはり始祖人間は頭が良い』と笑顔で少女を褒めた。
「最近、貴族の間で人間に着せるのが流行っている。これは有名なブランドなんだ」
「これは私たちからのプレゼントよ」
「プレゼント……?」
少女の顔が不思議そうにすれば、小梅が泣きそうな笑顔を向ける。着せられた服は濃紺のワンピースで、腰周りがしぼられてスカートがAラインに広がっている。リボンが腰につけられており、全体的にシンプルではあるがセンスの良い仕上がりだ。
少女の長い黒髪によく似合っていた。
「私たちは人間が好きだからこの研究所にいるの。でも、人間が好きな動物は入っちゃ駄目ね。今回改めて実感したわ」
着替えの最中で乱れた少女の頭髪を、小梅が撫でる。柔らかい肉球で頬を撫でられ、少女はそのくすぐったさに身をよじった。それを微笑ましそうにジョーが眺め、何かを思い出したような顔をすると、手に持っていたショルダーバッグを少女へと背負わせた。
「君はこれから君の未来の為に、一人である動物に会わないといけない。中にお弁当が入っているから、お腹が空いたら食べなさい。それから携帯食料と水も多めに入れてあるから、何かあったら――……例えば会うべき動物と会えなかったらそれを使いなさい。防寒具も入っているよ」
「会うべき動物……? 誰ですか?」
「イグアナだ。イグアナは知っているかい?」
バッファローと犬とイグアナ。
不思議な組み合わせに驚くも、少女は少しだけ頷く。
「良かった……記憶がないと言っていたし、そもそも見たことが無かったらどうしようかと思っていたんだ。どうも君の記憶喪失は対人関係に限るらしい。トイレの仕方や服の着方はわかるようだからね」
そう言われて少女は少しだけ背筋が寒くなった。
もしトイレの仕方も忘れていたら、良い年をしてお漏らしをするはめになったかもしれないと思うと肝が冷える。
「さあ、あそこに小さな扉が見えるかい? 僕が絶対に通れないサイズの扉だ」
「……はい、たぶん……あれですよね?」
指を差した先には、銀色の扉がある。少女が見たそれは特別小さいわけではないが、確かにジョーは通れないであろうサイズであった。
非常口と書いてあるが、ジョーは何かあったときにどこから避難するのだろうかと少女は余計な心配をしてしまう。
「あそこから出たら、まっすぐに走りなさい。曲がり角はどこも曲がらなくいい。まっすぐに進むと今度はガラス戸が見えてくる。外に続くガラス戸だ。そこは裏庭につながる扉なんだが、裏庭の隅にある生垣でイグアナが待っているよ」
「彼の名前は“グリー”と言うの。忘れないで名前を確認してね」
少女が一度だけ頷くと、ジョーが手に持っていた服とおそろいの生地のベレー帽をかぶせる。深くかぶせすぎたそれを小梅が直しながら、小さくため息をついた。
「……もっとあなたと仲良くなりたかったわ」
一度だけつぶやかれた言葉。
それを聞いて、少女は言いようのない後悔に襲われた。
「……酷い態度を取ってごめんなさい」
「こちらこそごめんなさい……! あなたにそんな顔をさせるつもりは……ただ、本当に酷いことをしてしまったわ……」
じわりと涙を浮かべながら、小梅が顔を覆う。ジョーは小梅の肩に手を置いて、空いた手で小梅の頭を撫でた。
「……さあ、名残惜しいがもう行って。ミヤ先生がそろそろ気づく頃だ」
緩やかに手を振る小梅とジョーに見送られ、少女は銀色のドアの向こう側へと旅立って行った。