人体実験
「これが始祖人間か」
ノックもなしに部屋へ入ってきたのは、ゆるいカールのかかったヒゲを持つヤギであった。
少女はすぐにそのヤギが“ミヤ先生”なのだと気づいたが、自分の扱いの悪さに思わず閉口する。しかし、すぐにそれが当たり前のことであると気づいた。なぜなら、人間が動物実験をするときに、動物のいる部屋へ入るときにノックをしたりしないはずだからだ。
「名は」
「……覚えていません」
「ほう! 本当に話すのだな! 意思疎通できるだけでも、高い研究費を投資し続けたかいがあったと言うものだ!」
「もう! ミヤ先生ったら! 意思疎通できるんですから、動物と接するときと同じ態度を取って下さい! この子が傷ついたらどうするんですか」
ミヤの後ろにいる小梅がそう文句を言えば、ミヤは片方の眉を上げて小梅を睨みつける。
「君のその悪いクセはいい加減にやめたまえ。人間ごときに入れ込むと、実験がやりづらくなると言っているだろうが。担当を外されたくなかったら、以後気をつけることだ」
「ミヤ先生、そうは言いましても、我々動物は人間がいたからこそ生きながらえて――」
「それが無駄な思想だと言っているんだ」
底冷えのする低い声。草食動物だというのに、ミヤには恐ろしいほどの迫力があった。
思わず少女は生唾を飲み込む。
「まずは血液検査だな。変な菌に感染していないといいのだが」
乱暴に医療機器を引き寄せ、少女のそばによるミヤ。
腕に突き刺された針の痛みに顔をしかめれば、小梅が痛ましそうな顔で少女を見つめた。ミヤは血液を真空の瓶に入れると軽く振る。そしてしばらくそれを見つめると、銀色のスーツケースのようなものに保管した。
その後もミヤは無言で少女のまぶたをめくったり膝を叩いたりしている。やや緊張した面持ちで少女が見つめていると、ふいにミヤと視線が合った。
「記憶はどこまである」
「ありません、何も。起きたらここにいました。名前も何も思い出せないんです」
「使えんな」
「…………」
黙り込み、血圧を無言で測り始めるミヤ。
それ以上会話は無かった。
どれほど経ったか、ひとしきりの問診を終えた後、ミヤはカルテに何かを書き込んで満足げに一つ頷いた。
「基本は他の人間とかわらなそうだ。後は脳波の計測と、生殖器が使えるかどうかだな。卵子が生きているのなら取り出してクローンを作れるだろう」
少女は“クローン”という単語に一瞬耳を疑い、そしてミヤを見つめた。
しかしミヤは少女と目を合わせることもなく、医療道具を片付け始めている。助けを求めるようにして小梅を見れば、小梅も目をそらしたまま少女の方を見ようとしなかった。
「…………」
裏切られたと思った。それと同時に自分はこの犬に少しだけでも心を開き始めていたのかと驚く。
「私、実験に協力したくありません」
「したいかどうかじゃない。お前はただの実験体だ。そこにお前の意思は必要ない」
ミヤの言葉に、少女は目の前が真っ暗になる。
そして大きく息を吸い込むと、ゆっくり吐きながらミヤと小梅が部屋から出て行くのを見守った。そして扉が閉まった瞬間、ポツリとつぶやく。
「動物なんかに……」
静かにそう言った言葉を聞く者はいない。
怒りに震える声と体。
「動物ごときに……いいようにされてたまるか」
少女は、静かに脱走の計画を練り始めた。
* * * * *
「先生……彼女には意思があるのですから、あまり実験内容は言わないようにして下さい」
小梅が控えめにそう言うと、ミヤは顔をしかめながら振り向いた。
しかし、ミヤが何かを言う前に小梅が口を開く。
「彼女がまた逃げでもしたら、今度こそ私達のラボは廃止されますよ。投資をして下さっている方々には、あの脱走の件を重く見ている方が多いのですから」
目を細めて小梅を睨みつけるミヤ。しかし、小梅はツンとしたままミヤを見ない。やがてミヤは舌打ちしながら足早に歩き始めた。
「あれの飯に睡眠剤を混ぜろ」
「そんな酷いことを――」
「逃げられたらラボが潰れるのだろう? ならできることは何でもすべきだ」
思わず小梅の鼻にシワが寄る。しかし、小梅には握り締めた拳を震わせることしかできなかった。
* * * * *
「さあ、ご飯よ」
カートで持ってきたのは温かな湯気を立てるキツネうどんとフルーツヨーグルトだ。
少女はお腹をすかせていたが、もうあの時のように笑うことはできなくなっていた。このご飯に睡眠薬でも入っているのではないかと疑うくらいには、小梅との出来事にショックを受けていた。
「いりません」
「…………」
小梅のシッポが垂れる
それを見て、少女は眉間にシワを寄せて、今にも泣きそうな顔になった。
「どうしてあなたが傷ついているんですか……?」
「……そうよね。ごめんなさい」
「実験をする必要性はわかります。でも、受け入れられるかは別です。そんな中で受ける中途半端な優しさは、崖にぶら下がる私に差し伸べられた手が、つかむ直前で私を突き飛ばす手だと知るのと同じです」
少女は淡々と、目に涙を浮かべて低い声を出す。小梅は何も言えずに下を向く一方であった。
すると、開けっ放しになってたドアからジョーが顔を出す。
「あまり小梅をいじめんでくれないか?」
困ったような顔で中を覗き込んでいるジョーは、廊下で左右を確認すると、こっそり部屋の中に入ってドアを閉めた。
「そのご飯には何も入っていない。正確に言えば、睡眠剤を入れろと言われたが小梅は入れなかった。なぜだかわかるかい?」
「…………」
淡い期待が胸の奥底から湧き上がってくる。もしかしたら、この人はあの権力がありそうなヤギを裏切ってまで自分を助けてくれるのではないかと。
しかし、また絶望するかもしれないと思うと、深く考えたくなくなってしまう。唇を噛み締め、ジョーから視線をそらす。
「それは最後の晩餐だ。君は、今日ここから逃げ出すんだよ。僕らの手引きでね」
「……信じられません」
「ああ、そうだろうね。でも事実だ。君にはここから出て行ってもらう。こんなことを言うべきではないが、早くも限界なんだよ。私も小梅も。意思を持った者に実験を……それも同意を得ずにするのがこんなに辛いとは思わなかったんだ」
少女はなんて勝手な理由だろうと思った。
もし言っていることが本当だとしても、怖い目にあったのは事実なのだ。知能を持った人間はいないと言われ、両親もいないと言われ、元のあの楽しかったときに戻ることもできないと言われ――……
そんな中で、優しくてもらえたのが嬉しかったのだ。
もう一度信じてもいいのだろうかと思いかけるが、また裏切られてしまったらと思うと素直には喜べない。これすらも、罠ではないかと思ってしまうのだ。
「人間が疑り深いのは知っている。ああ、嫌味ではないんだ。知恵があるからこその反応だからな。それに、信頼を失うようなことをしたのは私たちだ」
「…………」
「あのね、もう少し、考えてみて欲しいの」
今まで黙っていた小梅が、優しい声で少女に語りかける。
「でもあまり時間はないわ。今のあなたには所有権が無いから“野良人間”ということで逃げ出せるけど、所有権が実験所になったら、あなたはもうここから出られない。今実験所では、あなたの“飼い主登録”をするという提案が挙がっているわ。だから、今日の夜までに決めて」
「飼い主登録……? 実験所にいる実験体は、いちいち飼い主登録をしないといけないんですか……?」
「いや、それは違う。君が特別だから、誰かに取られないように“実験所の愛玩動物である”という体で進めたいらしい。時間が足りないのは良くわかる。こんなことを言う資格は無いが、どうかもう一度信じてほしい」
そう言って、二匹は部屋を出て行った。
取り残された少女は、温くなったキツネうどんに箸を沈める。
「…………」
涙をポロポロと流しながら、少女は黙々とうどんを口に運んだ。