ハイデン
「ん……」
薄っすらと、一匹のチワワの目が開いていく。
自分がどこにいるのか全くわかっていないチワワは、何度か瞬きをした。
「お目覚めですか、ハイデン様」
ハイデンと呼ばれたチワワは、自分がどうしてここにいるのか全くわかっていなかった。
そうであろうと察したカンガルーの研究員が、ハイデンを覗き込みながら笑顔を浮かべて説明を始める。
「契約日は何百年も前ですが、お客様はご主人様に再びお会いするため、冷凍睡眠の処置を受けておられます。覚えていらっしゃいますか?」
そう言われても、ハイデンはピンと来なかった。
そして口を開くこともできず、酷く喉が渇いているのに唾も出ない。
無理やり口を開こうとしてむせると、横から素早く水の入ったコップが差し出された。それを受け取って中身を全て飲み干すと、タイミングを見計らって再びカンガルーの研究員が話しかけてくる。
「ご主人様が見つかったようです。ハイデン様の脳波にその兆候が見られましたので、解凍処置を施させて頂きました」
しばらくボーっとしてそれを聞いていたものの、やがてハイデンの脳裏にある少女の姿が浮かんだ。
「…………」
それがなんだったかと一瞬考え、次の瞬間には心臓が止まりそうになる。
「ハナキが見つかったのか!?」
大声で叫んだハイデンに、カンガルーの研究員は飛び上がって驚いた。そのまま床に転びながらも、なんとか姿勢を立て直して息を整える。
「は、はい……! そ、その兆候が見られましたので……ただ、あの、まだ飼い主様は見つかっておりません。ハイデン様には体調を整えて頂いて、その間に飼い主様を探します。見つかる頃にはハイデン様の体調も整うでしょう」
「今すぐ会いたい! ハナキに会わせてくれ!!」
「それはいけません! なによりまだ見つかっていませんし、見つかっていたとしてもベッドから立ち上がるのはあまりにも危険です。どうか今はゆっくりお休み下さい」
今にも立ち上がろうとしているハイデンをなんとかベッドへ押し付けると、カンガルーの研究員は興奮して唸るハイデンを宥めてため息をついた。
「まだ体が万全ではないのです。ここで万が一お亡くなりにでもなったら、ご主人様を悲しませてしまいますよ」
「か、悲しむ……? それは駄目だ。ハナキは泣き虫だから。俺が頬を舐めてやれないのに、泣かせるのは駄目だ」
「そうでしょう、そうでしょう。ご主人様の涙を見たくないのはみな同じです。私の先祖もそう言っておりました」
ハイデンは唸りながらもベッドへ寝転ぶと、まだ見ぬ飼い主の姿を思い浮かべて尻尾を振った。
* * * * *
「なんだって!? 国王陛下の愛玩人間!?」
研究所のメインオフィスに、所長の声が響き渡る。
室内は一瞬にして静まり返り、そこにいる者の間に不穏な空気が漂い始めた。
「は、はい……ですから、その、ハイデン様がご主人様にお会いするのは非常に難しいかと……」
「そ、そんな……まさか……いや、しかしでも……」
「王宮につてがあれば別ですが、書類にそのようなことは書いてありませんでした。ご契約者様はかの有名な企業の社長をしておられますが、それも王宮に取引があるわけではなく……また、あったとしても何百年も前の取引では……」
「……なんて……ことだ……」
所長は絶望していた。
初の快挙と喜んだ直後にこれだ。
先日王の誕生を祝うパレードで、国民の心が震えんばかりの出来事が起こったばかりだと言うのに、その渦中の人物である者が自分のところで冷凍睡眠をしていた顧客の飼い主だったとは夢にも思わなかった。
顧客が目覚めたと聞いたときから胃を痛めていた悩み「もし研究所の中でも悪名高いところに飼い主がいて、すでに切り刻まれた後だったらどうしよう」などというのは、今思えば実に小さい悩みだった。
「よりにもよって王族の……だと……?」
顧客の飼い主がいるところが悪名名高くとも、言ってしまえば金で人間は買える。始祖人間でない限り人間は掃いて捨てるほどいるので、大金を積めば買えなくはないのだ。
とは言ってもオリジナルの人間だから相当に金をつむことになるだろうが、冷凍睡眠を継続できる資産家に人間を買う金が出せないとは思えない。
そして冷凍睡眠をしてまで飼い主との再会を待ち望む顧客が、失っていた飼い主を買い取らないわけがないのだ。
もちろんそれらは全て“研究所がまだ飼い主である人間を殺していなければ”だが、それを上回る“無理難題”が、今目の前に立ちはだかっている。
「終わった……私は終わった……」
「そんなこと仰らないで下さい……!」
国王の愛玩人間となると話は別だ。
買おうにも買えない。
何せ一介の国民は国王に会うことすらできないのだ。
そしてそれを目覚めたばかりのハイデンに伝える勇気を持った者は、誰もいなかった。
* * * * *
「なあ、いつになったらここを出られるんだよ」
あれからしばらくの時が経っていた。
ハイデンは不機嫌そうに耳を伏せ、小さな体を膨らませながらカンガルーの研究員につめよる。
もう体を元に戻す工程はすっかり終わっており、家族さえ迎えに来てくれればいつでもここを出られる位には回復していたのだ。そして家族にも――この場合は子孫だが、子孫のチワワにも連絡済であった。
先方はやや困惑した様子だったが、概ね良好な態度で「すぐにでも迎えに行きたい」と言っていた。
しかし、迎えに来るのに丁度いい日程を、研究所はまだ伝えていなかったのだ。
そしてついに、ハイデンはしびれを切らした。
「もういい。俺の体には問題がないんだろ? 医者がそう言ってたしな。俺はもう行くぜ」
「え!? いや! あの、ちょっちょっ……少々お待ちを……!」
「そう言ってもうだいぶ待っただろ!! 一体何が駄目でここに閉じ込められているんだよ!」
「ま、まだご主人様が見つかっておりませんので……! 見つかり次第、ご連絡を――」
「それはここじゃなくて家でも待てるだろうが! それにハナキの匂いがするんだから、ハナキは俺が探しに行った方が早い! 今この瞬間にもハナキが泣いているかもしれないってのに、お前は――」
そこまで言いかけて、ふとハイデンは嫌な予感がした。
「…………」
「…………」
そしてその“違和感に気づいてしまったハイデン”を見て、カンガルーの研究員は視線をそらした。
「お前……一体何を隠してる」
「え……隠して……? 何を仰っているのかわかりません……」
目が泳ぐカンガルーの研究員。
「……まさか死んでるのか」
震えるハイデンの声に、カンガルーの研究員は反射的に「まさか!」と叫んだ。
「そ、そうだよな……そうだ……だって、まだハナキの匂いがする……それに目覚めは生きた者の匂いをかいでからでしか起こらないしな」
大きく息を吐き出すハイデンを見ながら、カンガルーの研究員は胸が張り裂けそうになった。
当然のことながら、生まれて二十数年しか経っていないカンガルーの研究員に飼い主はいなかったが、その先祖にはいた。先祖はオーストラリアの個人邸宅で飼われていたカンガルーで、“アルコフ”と名づけられて非常に可愛がられていたそうだ。それはそれは幸せな毎日で、飼い主と寝食をともにし、悲しいときは寄り添いあい、嬉しいときは喜びを分かち合う。
それが、あの忌まわしき日を境に一変したのだ。
一瞬にして視界が真っ白に染まり、気づいたときは廃屋病院の中だった。かろうじて生き残った彼は、飛び込んでくる断片的な情報から最終戦争により地球が滅亡したのだと知った。
そして、それを理解できたことに恐怖した。
なぜ、自分は“人の言葉”を理解できるのかと。
「ハイデン様。一つ、話をさせて下さい」
しかし、それは厳密に言うと人の言葉ではなかった。
自分が生きて情報を得るたびに、人間と動物の立場が逆転してしまったのだと知った。知能を失った人間が地面をはっているのを見たときは、何ともいえない気持ちになり一日中泣いた。
知能を得た動物達はみなそうであった。
「私の先祖の話です。もう手記でしか彼の話は知りませんが」
失った飼い主を想い、動物達はみな泣いて暮らしていた。
知能を得ても、何も事態は変わらないのだから。
もう愛おしい存在はいなくなってしまったのだから、知能を得て人間と意思疎通がしたいと思っても、できないと気づいてしまった。
だから、知能を得ても何の意味もないと思ったのだ。
「彼はこう言っていました。“飼い主を持っていた者にしかわからない、本能……絶対的な心のつながりがある”と」
動物たちはみな必死に飼い主を探したが、ある者は死体を見つけ、あるものは見つけられず、またあるものは見つける前に自分が怪我や病や寿命で死んでいった。
しかし、いつかまた主人に会うのだと夢を見た動物達は、それでも飼い主を探すことを止められなかったのだ。
「それは誰にも理解しがたい特別な想いなのだと」
「……ああ」
下を向いて辛うじてそうつぶやいたハイデンの声は震えていた。
「私はその想いを大切にしたいです。ですから、所長が隠していることをお話します」
そのセリフにハイデンはゆっくりと下げていた顔を上げる。
「ハイデン様のご主人は、現在ハナ様と名前を変えて生きておられます。研究所に拾われましたが、その後に飼い主を見つけて幸せに暮らしているようです」
それを聞いたハイデンの顔に、わずかだが安堵の色が浮かんだ。
「飼い主というのは、新たな制度です。恐らくハイデン様はご存じないと思いますが、世界には人間を昔我々がそうだったように“愛玩用”として飼う習慣ができました。店で人間を売っているのです。“愛玩人間”と呼んでいます」
「そう……なのか……それは……何とも言えないな……あの場所は悪いところじゃなかったけどよ、人間がそうやって売られてるって思うと……こう、酷く心が痛むな」
「昔はそのようなことが無かったのでしょう? 文献で読みました」
「ああ……当時は地を治める者もなくて無法地帯で……人間がかつてそうしていたように、俺らが人間を治めて暮らしていこうって言う団体が出来上がったばかりだったんだ。だけど、それと同時に人間を迫害する者と、飼い主を失ったショックで自殺する動物が増えた」
「そうでしたか……」
「俺も事業を始めて一財産築いたけど、それでも心の穴は埋められなかった。そんなときに出会ったのが、この冷凍睡眠だ」
わずかにショックを受けたような顔に、カンガルーの研究員は眉尻を下げた。
「それで、ハナキは誰に飼われてんだ? その……譲ってもらうことはできないのか……?」
ハイデンは、自分の飼い主だった人間に所有者がいるのであれば、いくら金を積んでも譲ってもらえないのではないかと思う。
それは当たり前のことだし、ハイデン自身もいきなり横から現れた見知らぬ動物から「お宅の愛玩人間を譲ってほしい」と言われたら困惑するだろうということは理解していた。
だが――
「ご主人様を所有されているのは――」
まさか、自分の飼い主が現国王陛下の愛玩人間になっているとは、予想もしていなかったのだった。
「現国王陛下、レノ様でございます」
ポカンと口を開けたハイデンを、カンガルーの研究員が痛ましい表情で見つめている。




