スネルの窓
水中ゴーグルを付けて、シリコンの水泳帽を被って、みんなが同じ学校指定の水着を着ていたとしても、私にはハッキリと彼のことがわかる。体格的な特徴もあるけれど、それだけじゃない。私には、彼が彼であるという確信が、世界の誰よりも強く持てるのだ。
高校一年の、あの長く眩しかった夏休み。
すべての始まりは、友達のサエコに半ば強引に誘われて見に行った、うだるように暑い日の水泳大会だった。
「いけーっ! ソウタ先輩! フレー、フレーッ!」
「ほら、チサコももっと声出して応援してよ!」
サエコの彼氏であるソウタ先輩は、県大会でも優勝を狙えるほどの実力派選手らしく、サエコは人数合わせの私に特大の応援幕を持たせて熱弁を振るっていた。
私はメガホンを握り直し、少し戸惑いながらも周囲の熱気に合わせて声を張り上げた。その甲斐あってか、先輩は見事に高校三年生の部で優勝を果たした。
自分たちの高校のプールで開催された大会だったこともあり、会場の盛り上がりは最高潮に達していた。けれど、もともと水泳に特別な興味のなかった私は、歓声に揺れるプールサイドで、どこか周囲との温度差を感じていたのを覚えている。
大会が閉幕すると、サエコは「じゃあね!」と手を振り、そそくさとソウタ先輩の元へと駆け寄って一緒に帰ってしまった。
一人取り残された私は、帰るタイミングを失ったまま、夕方の少し涼しくなり始めたプールサイドに腰を下ろした。
制服のスカートを捲り上げ、両足をプールの中に浸してみる。バシャバシャと小さく足を動かすと、ぬるい水が肌を包み込んだ。
(あーあ、サエコは羨ましいな。あんな素敵な彼氏がいて)
茜色に染まり始めた夏の空を見上げながら、私は小さく息を吐いた。どうして夏という季節は、一人になるとこんなにも感傷的な気持ちにさせるのだろう。
鼻をくすぐる、いつもの塩素の匂い。肌にジリジリと残る日差しの名残。遠くで狂ったように鳴き続ける蝉の声。それらすべてが、夏の余韻として胸に満ちていく。
ぼんやりと水面を見つめていたその時、頭の隅でひとつの記憶が弾けた。――今日、夏期講習があるんだった。しかも、もう開始まで時間がない。
「あーっ!! まずい、急がなきゃ!!」
誰もいないプールサイドで、思わず大きな独り言が口から飛び出した。
慌てて足をせり上げようと水面に目をやった、その瞬間だった。
ゆらゆらと揺れる青い水底から、ちょうど私を見上げるような形で、じっとこちらを見つめている「誰か」の目があった。
「キャッ……!?」
心臓が跳ね上がり、短い悲鳴が響く。すると、その影は滑らかに水面へと浮上し、正面を向いて勢いよく顔を出した。
「ごめんごめん! 脅かす気はなかったんだ!」
彼は慌てて水泳帽とゴーグルを外すと、濡れた髪をかき上げながら平謝りを始めた。
「あんまりにも、君が綺麗だったから……つい、見惚れちゃって」
夕日に照らされ、きらきらと水滴を散らす彼の姿を見て、私は言葉を失った。なんてストレートな告白をする人なのだろうという驚きと同時に、私の胸の奥で、確かな鐘の音が鳴り響いた。
――運命の人だ。
水に濡れて短く刈り込まれた黒髪。ハッキリとした涼しげな顔立ち。水着の上からでもわかる、無駄なく鍛え上げられたしなやかな身体。彼に一瞬で心を奪われてしまったことは、今でも彼には絶対にナイショの秘密だ。
それからの日々は、まるで夢のように順風満帆だった。彼も私に好意を寄せてくれていることがすぐにわかり、私たちは残りの夏休みを二人きりで満喫した。
スパイラルビーチへ朝早くから出かけたものの、あまりの人の多さに圧倒され、結局は誰もいない静かな穴場の海岸まで二人で歩いたこと。
潮干狩りに夢中になって、アサリとハマグリをバケツいっぱいになるまで獲ったのに、帰り道で彼が「実は俺、貝類が食べられないんだよね」と苦笑いして私を爆笑させたこと。
夏休みの宿題を終わらせようと居座った図書館で、お互いの距離が近すぎて緊張し、ひそひそ話が盛り上がりすぎて司書さんにきつく怒られたこと。
プールの帰り道、夕暮れの細い路地で、どちらが早く食べ終わるか競いながら分け合った一本の棒アイス。
マダイ川の夜空を焦がした、十万発を超える大花火大会。土手に並んで座ったとき、彼が「浴衣、すごく綺麗だね」と呟いてくれた。嬉しくて、でもそれ以上に心臓が破裂しそうなほど恥ずかしくて、わざと怒ったふりをしてそっぽを向いた私を、彼はどんな気持ちで見つめていたのだろう。
サエコと一緒に出かけた夏祭りの縁日では、薄暗い神社の裏手で柄の悪い男に絡まれ、恐怖に震えていた私を、彼はどこからともなく駆けつけて救い出してくれた。
「後悔させてやるからな、ガキが!」
捨て台詞を吐いて逃げていったのは、四十代くらいの見知らぬ男だった。今思い出しても身震いするほど怖かったけれど、私の前に立ちはだかってくれた彼の広い背中に、私はもう一度、深く惚れ直していた。
夏の思い出が、万華鏡のように美しく彩りを変えながら咲き誇っていく。そんな至福の夏休みが、終わりに近づいていたある夜。
「最後の思い出にさ、夜のプールに行かない?」
彼からの誘いは、私にとって人生で一番の冒険だった。
ひっそりと静まり返った夜の校舎。その裏手を息を潜めて通り抜け、錆びたフェンスを二人で乗り越える。頭上には冷たい月明かり、そして夜気を震わせる蝉の声だけが響く、幻想的なプールがそこにあった。
「わぁ……すごい。綺麗……」
「だろ?」
「ねえ、もしかして何回もこんなことしてるの? もうっ、不法侵入だよ?」
「ち、違うって! 部員のみんなと、たまに熱い日の夜に涼みにくるだけだよ。勘違いしないで!」
月光の下で、少しだけ焦りながら言い訳をしている彼の横顔が、どうしようもなく愛おしかった。
「……ッ、イタタ」
ふと、彼が右手を庇うように顔を顰めた。
「大丈夫? あの時の傷、まだ治ってないの?」
縁日で助けてくれたとき、男を咄嗟に殴りつけた彼の拳は、あのとき痛々しく血を流していた。
「このくらい、なんてことないよ。君を守れた勲章さ。さあ、せっかく来たんだから泳ごう!」
はにかむように笑うと、彼は衣服を脱ぎ捨てて真っ先に水へと飛び込み、悪戯っぽく私に水をかけてきた。
「もう! やったなぁ!」
私もすぐに水着になり、彼に教えてもらったばかりの拙いヘッドエントリーで水へと滑り込む。
夜のプールに、激しい水飛沫が上がった。バシャバシャとお互いに水を掛け合う。子供みたいに楽しくて、見つかる恐怖なんてどこかへ吹き飛んで、二人で声を合わせて笑い転げた。
「ねえ、こんな大声出して、警備員さんにバレないの?」
「大丈夫。この時間、警備員はここから一番遠い宿直室で、冷たいアイスでも食べて
る頃さ」
「もう、悪さばっかりして」
ひとしきり騒いだあと、私たちはプールサイドに並んで肘をかけ、ぷかぷかと足を浮かせて夜空の月を眺めていた。
「……綺麗だね、チサコ」
不意に、優しく力強い彼の手が、私の手を取って引き寄せた。
抵抗する理由なんて、どこにもなかった。私は吸い込まれるように、彼の腕の中へと身を委ねた。
彼に抱きしめられる確かな温もりと、身体を包み込む夜のプールの冷たさが、皮膚を通して真っ直ぐに心へと伝わってくる。きつく目を合わせると、彼は少し照れくさそうに、でも愛おしさを隠さない優しい目で微笑んだ。
彼の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
私はそっと、胸の高鳴りに身を任せて、両目を閉じた。
ゴッ!
静寂を切り裂いたのは、耳の後ろで響いた、鈍く硬いものが激しく割れるような音だった。
――そこから先の記憶は、完全に途切れている。
「大丈夫ですか! チサコさん、聞こえますか!」
次に目を覚ましたとき、視界に飛び込んできたのは、眩しすぎる病室の白い天井だった。
頭には何重にも包帯がグルグル巻きにされていて、ひどい鈍痛がする。かなりの出血をしていたらしく、お医者さんが慌てた様子で「まだ動かないで!」と私を制した。
傍らでは、お母さんとお父さんがボロボロと涙を流しながら、私の目覚めを神に感謝するように喜んでいた。
けれど、私の頭の中は酷く混乱していた。何が起きたのか、状況がまったく掴めない。
「プールに……彼と一緒にいて、それで……。彼は!? 彼はどこにいるの!?」
「落ち着いて、起きたばかりなんだから!」
先生が宥めるように言い、点滴のチューブに静かに注射器の薬液を注入した。急速に引きずり込まれる眠気の中で、私の意識は再び深い闇へと落ちていった。
それから、数年の歳月が流れた。今年もまた、あの頃と同じ匂いのする夏が巡ってきた。
あの夜、何が起きたのか。その残酷な真相を知ったのは、退院してずっと後のことだった。
あの日、縁日の夜に神社の裏で絡んできたあの男が、執念深く私たちを尾行し、夜のプールに侵入して背後から襲いかかってきたのだという。
彼は、突然の襲撃にひるむことなく、必死に身体を張って抵抗した。男をなんとか取り押さえ、意識を失ってプールへ沈みかけていた私を水面へと引き上げてくれた。
けれど、彼自身も頭部に致命的な一撃を受けていた。
彼は朦朧とする意識の中で、私をプールサイドの安全な場所へ横たえ、震える手で警察へ通報した。そして――私を救い出したことに安心したかのように、そのまま冷たいコンクリートの上で絶命したのだという。
あの日から、私は彼に教わった水泳を本格的に始めた。
水の中に入ると、彼との思い出が、昨日のことのように鮮烈に蘇る。特に、じっとりと蒸し暑い、こんな夏の匂いを感じる日は尚更だ。
コースロープの前に立ち、シリコンの水泳帽を深く被り、ゴーグルを装着する。
彼と一緒に駆け抜けた、あの刹那の夏の日々をきつく胸に抱き締めながら、私は青い水へと飛び込む。
力強く水を捉え、体を反転させ、光の射し込む水中から、あの時の彼と同じ姿勢で。
私は今でもサトシの面影を探し続けている。




