虚構のクララ
Chapter. 127
その背中を見失うものかと、クララは奥歯を噛みしめた。
黒いローブが木々の隙間をすり抜ける。
枝葉が顔を叩いた。
構わず走る。
胸の前で揺れる学院章が何度も視界に入った。
「待って!」
声を張り上げても返事はない。
影は振り返ることなく森の奥へ進んでいく。
まるで最初から追われることを知っていたように。
「くっ……」
足元に魔法陣を展開する。
淡い緑の光。
風属性の補助術式。
身体が軽くなり、一気に距離が縮まった。
それでも届かない。
相手は決して速くない。
だが捕まらない。
手を伸ばせば届きそうな距離まで近づいたかと思えば、
次の瞬間にはまた離されている。
嫌な感覚だった。
まるで、誘導されているような。
そんな考えが脳裏を過ぎる。
だが今さら引き返せなかった。
ここまで追ってしまったのだから。
あの地下書庫で見つけた痕跡。
昨夜の魔力反応。
そして今夜の不審な行動。
すべてが繋がっている気がした。
もし予想が正しいなら、学院の中に協力者がいる。
それも、かなり高位の。
そう考えるだけで背筋が冷たくなった。
森が途切れる。
開けた空間に出た。
クララは思わず足を止める。
古代遺跡。
月光に照らされた石柱群。
何百年も前に放棄された祭壇跡。
課外授業で一度訪れたことがある場所だった。
影はその中央に立っていた。
ようやく。
ようやく追いついた。
荒い呼吸を整えながら杖を構える。
「逃げないのね」
言葉は思ったより冷静に出た。
だが心臓は激しく脈打っている。
相手は答えなかった。
背中を向けたまま立っている。
月明かりが黒いローブの輪郭を白く縁取っていた。
「観念して」
クララは一歩前へ出る。
「あなたが何者なのか知らない。でも――」
言葉が続かない。
妙な違和感があった。
背格好。
立ち方。
肩の力の抜き方。
どこか見覚えがある。
そんなはずはないのに。
自分はこの人物を知らないはずなのに。
胸の奥がざわつく。
理由の分からない不安。
影がゆっくりと右手を上げた。
フードに触れる。
その仕草を見た瞬間、クララの鼓動がひときわ大きく鳴った。
やめて。
なぜかそんな言葉が浮かんだ。
顔を見れば、何かが終わる。
そんな予感だけがあった。
フードが外される。
月光が髪を照らした。
銀色。
見慣れた色だった。
誰よりも。
学院中の誰よりも。
クララが見慣れた色。
「――え」
思考が止まる。
そんな。
そんなはずがない。
ゆっくりと振り返った顔を見た瞬間、膝から力が抜けそうになった。
忘れるはずがなかった。
入学式の日。
新入生代表として壇上に立っていた姿を今でも覚えている。
二年生になった今でも、その背中は学院中の憧れだった。
主席。
生徒会長。
王国魔法競技会の優勝者。
ずっと、想い続けてきた相手。
「レオン……?」
――――
物語はここで終わっていた。
正確には、そこで止まっていた。
Googleドキュメントの原稿の上で、カーソルが静かに点滅している。
主人公クララベル・ホルトが月明かりの下で立ち尽くし、想い人であるレオン・アシュクロフトの正体を知る場面で。
その先には何もない。
空白だけだった。
「……だめだなあ」
私は椅子の背もたれに身体を預けた。
小さく軋む音がする。
ノートパソコンの画面には、見慣れた文章が表示されていた。
Chapter. 127
書き始めてから四年。小説投稿サイトで連載を続けてきた『星詠みのクララ』は、いつの間にか私の生活の一部になっていた。
平日は会社員。
朝から夕方まで働いて、帰宅して夕食を済ませたあとに少しずつ書く。
休日は家事の合間に書く。
そんな生活を繰り返してきた。
けれど今夜もまた、その先が書けない。
私はため息をついた。
窓の外は暗い。
時計を見ると午後十一時を回っていた。
明日も仕事だ。
本当ならそろそろ寝なければならない。
それなのに、画面を閉じる気になれない。
レオンはなぜ敵側にいるのか。
本当に敵なのか。
クララは何を知るのか。
結末はどうなるのか。
頭の中には断片がいくつも浮かんでいる。
けれど、それらはどれも決定打にならなかった。
自分で作った物語なのに。
一向に書く気力が湧いてこなかった。
私は机の横に置いていたマグカップを手に取る。
とっくに冷めたコーヒーは苦かった。
―――ごめんね、クララ。
そんな思いが胸を横切る。
画面の中では少女が今も立ち尽くしている。
想い人の裏切りを知ったまま。
何も知らされないまま。
時間だけが止まっている。
更新が止まってもうすぐ一年。
誰に見せるためでもなく、ただ自分の熱量だけで突っ走ってきた物語だった。
けれど、数字の動かないアクセス解析と、いつまでも空っぽの感想欄を見つめているうちに、いつしか燃料は底をついていた。
こんなのじゃ駄目だ、と思う。
感想をもらうために書いていたわけじゃない。
だけど、書けないものは書けなかった。
私はカーソルを見つめた。
白い画面の中で、それだけが規則正しく明滅している。
まるで、物語の続きを待ち続けているかのように。
その時だった。
ピンポーン。
静まり返った部屋に、不意にインターフォンの音が響いた。
「……え?」
私は顔を上げた。
時計を見ると、午後十一時十七分。
心臓の鼓動が、にわかに速くなる。
こんな時間に心当たりのある来客などない。
宅配便の夜間指定はとっくに終わっているし、友人なら事前にLINEが来るはずだ。
―――不審者。
最悪の想像が頭をよぎり、背中に冷たい汗が流れる。
ピンポーン。
二度目のチャイム。
居留守を使おうかとも思った、だけどストーカーや空き巣の下見だったら?
電気のついている部屋で息を潜めているのも怖い。
私は極力足音を立てないように立ち上がった。
部屋の入口までの数歩が、ひどく遠く感じられる。
息を殺しながら、ドア横のインターフォンモニターを恐る恐る覗き込んだ。
そして、私は言葉を失った。
そこに映っていたのは、若い少女だった。
十六、七歳ほど。
蜂蜜色の髪。
大きな翡翠色の瞳。
細身の体格。
旅装のようなマント。
胸元には見覚えのある意匠のブローチ。
そんなはずがない。
ありえない。
ありえないはずなのに。
私はその顔を知っていた。
誰よりも知っていた。
何百回も想像した。
何千回も文章の中で描いた。
彼女が笑う顔も。
怒る顔も。
泣く顔も。
困った時に眉尻が少し下がる癖も。
全部知っていた。
だからこそ分かってしまった。
「……クララ?」
思わず呟いた声は掠れていた。
モニターの中の少女が顔を上げる。
まるで聞こえたかのように。
そしてこちらを真っ直ぐ見つめた。
翡翠色の瞳。
脳裏に思い描いていたものと寸分違わない。
心臓が嫌な音を立てる。
ありえない。
ありえてはいけない
そんなことがあるはずがない。
だって、クララベル・ホルトは存在しない。
私が作った人物だ。
ノートパソコンの中にしか存在しない。
文章の中だけの少女だ。
それなのに―――モニターの向こうに立つ少女は、まるで長い旅を終えてここまで辿り着いたかのように疲れた顔をしていた。
頬には薄い汚れがついている。
肩で息をしている。
そして、再びチャイムを鳴らす代わりに、何かを口にした。
モニターには音声も入っている。
小さな雑音のあと、少女の声が聞こえた。
「……お願いです」
私は凍りついた。
その声まで想像通りだった。
一度も聞いたことがないはずなのに。
なぜか分かる。
これはクララの声だ。
私がずっと頭の中で聞いていた声だ。
少女は不安そうに視線を揺らした。
それから意を決したように顔を上げる。
「書いてください」
私は息を止めた。
少女の唇が震える。
「続きを、書いてください」
私は慌ててモニターから身を離した。
「な、なに……」
呼吸が浅くなる。
手のひらが汗ばんでいた。
疲れているのだろうか。
仕事のストレスだろうか。
あるいは寝不足か。
そうだ。きっとそうだ。
幻覚だ。
何かの見間違いだ。
現実に小説の登場人物が現れるわけがない。
私は震える手でモニターの電源を切った。
画面が黒くなる。
それだけで少し安心した。
見なければいい。
見なければ存在しない。
子供じみた考えだと分かっていたが、その時の私は本気でそう思った。
背中を壁に預ける。
心臓がうるさい。
「落ち着いて……落ち着いて……」
独り言が止まらない。
どうしよう。どうすればいい?
警察? 警察を呼ぶべき?
いや、何を説明するの?
深夜に知らない少女が来ました? その少女が、自分の書いているネット小説の主人公にそっくりなんです、助けてくださいって? ……通報した瞬間に、頭がおかしい人だと思われるだけだ。
「これは夢よ夢よ夢よ」
狂ったように頭を振る。
「すみません」
すぐ近くから声がした。
私は飛び上がった。
「きゃあっ!?」
振り返る。
開け放したままのドアの向こう。
部屋の入り口に、少女が立っていた。
蜂蜜色の髪。
翡翠色の瞳。
旅装のマント。
間違いない。
さっきまでモニターの向こうにいた少女だった。
クララベル・ホルト。
私が書いた主人公。
そのはずの存在。
私は声にならない悲鳴を上げた。
「えっ!?えっ!?えっ!?」
頭が真っ白になる。
少女の方も少し困った顔をしていた。
「驚かせるつもりはなかったんです」
「どうやって入ったの!?」
反射的に叫ぶ。
玄関は閉まっていた。
鍵もかけていた。
窓だって閉めていたはずだ。
なのに、なぜ。
なぜこの少女は私の部屋の中にいるのか。
クララはきょとんとした。
まるで当たり前のことを聞かれたみたいに。
「魔法で」
「魔法で!?」
「はい」
「はいじゃないのよ!」
私の声が裏返る。
クララは少しだけ眉をひそめた。
「でも、そうとしか説明できません」
「できるでしょ!もっとあるでしょ!」
「空間を飛び越えました」
「説明になってない!」
「空間の座標を繋ぎ直す魔法です」
「そこじゃない!」
私は半ば泣きそうになりながら叫んだ。
対するクララは真面目な顔のままだ。
ふざけている様子はまったくない。
むしろ不思議そうですらある。
「学院で教わった転移術なんですが……」
「学院なんてないの!」
言い終わってから、自分の言葉に自分で固まった。
クララも固まった。
数秒。
沈黙。
少女はゆっくりと瞬きをする。
「あります」
「ない」
「あります」
「私が書いたの!」
ついに叫んでしまった。
クララの動きが止まる。
翡翠色の瞳が大きく見開かれた。
私は肩で息をしていた。
クララは黙っている。
やがて。
「……やっぱり」
少女は小さく呟いた。
その声には、妙な納得が滲んでいた。
「レオンの言った通りだったんですね」
私は息を呑む。
レオン。
その名前を聞いた瞬間、ノートパソコンの画面が脳裏によみがえった。
月明かりの遺跡。
Chapter. 127。
そこで止まった物語。
クララは真っ直ぐ私を見つめる。
「あなたが、世界を生み出した人なんですね」
目の前の少女は、私の返事を急かさなかった。
ただ真っ直ぐにこちらを見つめている。
その視線が妙に居心地悪かった。
疲労かもしれない。
ストレスかもしれない。
あるいは本格的に頭がおかしくなったのかもしれない。
どちらにせよ、今さら慌てたところで状況は変わらない。
私は大きく息を吐いた。
「……分かった」
クララが首を傾げる。
「何がですか?」
「私がおかしくなったってこと」
「はい?」
「幻覚でも妄想でも何でもいい」
ベッドの端へ腰を下ろす。
もう立っている気力もなかった。
「どうせ消えるんでしょ、あなた」
「消えません」
「そういうところまでリアルなんだ……」
頭を抱える。
クララはきゅっと眉尻を下げ、マントの端を指先で所在なさげにいじり始めた。
バツが悪い時、彼女はいつもこうする。私がそう設定したからだ。
脳裏に嫌というほど焼き付いた、腹の立つほどのクララベル・ホルト仕草だった。
それが余計に、私の理性を追い詰めていく。
「で?」
私は顔を上げる。
「何の用?」
クララの表情が引き締まる。
「続きを書いてください」
私は思わず笑った。
乾いた笑いだった。
「簡単に言うね」
「簡単なことではありません」
「分かってるなら――」
言いかけて、言葉が詰まる。
クララは真剣だった。
作中で何度も書いてきた顔だった。
困っている人を見ると放っておけない顔。
納得できないことがあると引き下がらない顔。
私は何度もその性格を書いてきた。
だから分かる。
この少女は本気で言っている。
「レオンを助けたいんです」
胸が痛んだ。
やめてほしかった。
その名前を出さないでほしかった。
「助からないよ」
気づけば口にしていた。
クララが瞬きをする。
「え?」
「助からない」
私は俯いた。
もう隠す気にもなれなかった。
「元々そういう予定だったから」
静寂が落ちた。
クララは何も言わない。
私は続ける。
「レオンは敵じゃない」
声が震える。
「敵に潜入してるだけ」
クララの表情が変わる。
驚き。
安堵。
そして困惑。
「じゃあ――」
「でも死ぬ」
その言葉で、少女は固まった。
私は何年も抱え続けたものを吐き出すように話した。
「最終章で死ぬ予定だった」
レオン・アシュクロフト。
学院最強の生徒。
誰より優秀で。
誰より優しくて。
誰より責任感が強い。
だから最後に自分を犠牲にする。
物語を始めた頃から決めていた。
ずっと、最初から。
「それでクララが受け継ぐ話だった」
私の声はひどく小さくなっていた。
「でも書けなくなった」
クララはゆっくりと口を開いた。
「……レオンが好きだったから?」
私は首を振った。
半分はそうだった。
だが半分は違う。
「……クララ」
「はい」
「あんたを書いた頃の私はね」
私は苦笑した。
「もっと色々できると思ってた」
社会人になって数年。
会社にも慣れた。
いつかは素敵な出会いがあるだろう。
小説も書いていた。
将来は書籍化するかもしれない。
仕事だってもう少し上手くいくかもしれない。
そんな漠然とした期待があった。
「でも現実は違った」
昇進もしていない。
恋人もいない。
誰の目にも触れず小説も止まった。
仕事も別に好きじゃない。
気がつけば三十半ばが見えてきていた。
「馬鹿みたいでしょ」
笑う。
笑える話ではなかった。
「あんたはずっと前に進めるのに」
私はクララを見る。
「私は止まっちゃった」
クララはしばらく黙っていた。
それから静かに言った。
「私はまだ前に進めていません」
「え?」
「だって」
少女は少し困ったように笑う。
「あの森で、ずっと止まったままですから」
私は言葉を失った。
その返しは想定していなかった。
クララは続ける。
「それから、困ります」
「何が?」
「レオンが死ぬのは嫌です」
私は思わず笑った。
「読者みたいなこと言うね」
「読者じゃありません」
クララは少し身を乗り出す。
「本人です」
そう来るとは思わなかった。
思わず吹き出しそうになる。
役所の窓口で、続柄を説明するときみたいな台詞。
私なら書かない台詞だ。
少なくとも、この場面では。
もっと気の利いた言い回しを考える。
もっと物語らしい、劇的な会話にする。
一年前なら、そうやって推敲を重ねていたはずだった。
だが同時に、妙な感覚もあった。
今の返答は、私が書いたクララベル・ホルトらしかった。
文章としてではなく、人間として。
私はふと考える、もし本当に私の妄想なら。
この少女は私自身の一部だ。
なら、なぜ私の予想を外してくるのだろう。
「ねえ」
「はい?」
「本当にクララだって言うなら」
言いながら苦笑する。
何をやっているんだろう、幻覚相手に。
「クララしか知らないことを言ってみて」
クララが首を傾げた。
「私しか知らないこと?」
「そう」
「でも、私のことはあなたの方が詳しいですよね?」
「そのはずなんだけどね」
私は肩をすくめた。
「だから試してるの」
クララは少し考え込んだ。
「あ」
何か思い出したように声を上げた。
「私、実はレオンのことが少し苦手でした」
「は?」
私は思わず聞き返した。
「何それ」
「だから苦手だったんです」
「いやいやいや」
思わず否定する。
「そんな設定ないから」
「設定?」
「クララはレオンに憧れてるでしょ」
聞いて彼女はあからさまに視線を逸らした。
頬にさっと朱が走り、唇が小さく尖る。
両手の指先をせわしなく絡め合わせるその仕草は、作中でレオンの名前が出るたびに、私が文字で書き込んできた彼女の癖そのものだった。
クララは小さく咳払いをすると、上目遣いにこちらを睨んで、
「……憧れてます。それは、認めますけど」
と、消え入りそうな声で白状した。
「じゃあ苦手じゃないじゃない」
クララは困ったような顔になる。
「両方です」
「両方?」
「だって彼、何でもできるじゃないですか」
それはそうだ。
「私が必死に頑張っていることを簡単にやるんです」
クララはまたもや唇を尖らせる。
「訓練でも」
「うん」
「試験でも」
「うん」
「しかも本人に自覚がありません」
私は黙った。
クララは続ける。
「だから尊敬しています」
「……」
「でも悔しいです」
しばらく沈黙が落ちる。
私は何も言えなかった。
その感情は書いていない。
少なくとも文章にはしていない。
だが―――言われてみれば。
確かにそうだった。
クララならそう思う。
そう思わない方がおかしい。
私が書かなかっただけで、そこにあったはずの感情だった。
数分後。
結局、私はノートパソコンの前に座らされていた。
正確には、自分から座った。
これ以上クララに見つめられ続けるのが嫌だったのだ。
画面にはChapter. 127。
一年ぶりに更新するGoogleドキュメントの原稿。
カーソルが明滅している。
私はキーボードに指を置いた。
―――何も浮かばない。
本当に、何も。
かつては毎日のように続きを考えていたのに。
レオンの正体も。
敵組織の目的も。
最終決戦も。
全部考えていたはずなのに。
今は空っぽだった。
隣ではクララが期待に満ちた目で見ている。
やめてほしい。
そんな顔をされても困る。
「……分かったよ」
私は半ば投げやりに言った。
「そんなに続きが欲しいなら」
キーボードを叩く。
カタカタカタ。
三行だけ。
本当に三行だけ、私は書いた。
―――
レオンの裏切りは全部ドッキリだった。
クララとレオンは盛大な結婚式を挙げた。
めでたし、めでたし。完。
―――
沈黙。
数秒後、私は椅子にもたれかかった。
「よし」
そして自分で言った。
「ゴミ」
間を置いてもう一度。
「ゴミゴミゴミ」
さらに。
「過去最低」
クララが横から画面を覗いている。
私は両手で顔を覆った。
「ひどい」
「はい」
「小学生の読書感想文の方がまだ頑張ってる」
「そうですね」
「これでどう?」
私はクララを見た。
「ハッピーエンドだよ」
クララは画面を見つめていた。
しばらく黙る。
それから静かに首を横へ振った。
「違います」
「何が」
「そうなりません」
私は苦笑する。
「だから作者は私なんだけど」
「でも」
クララは画面から目を離さない。
「これは違います」
「なぜ?」
少女は少し考えた。
考えて。
考えて。
ようやく言葉を選ぶ。
「私」
その声は小さかった。
「レオンと結婚しないと思います」
私は思わず吹き出した。
「そこ?」
「そこです」
「いや、好きなんでしょ?」
「……ええ、好きです」
返ってきたのは、寸分の迷いもない即答だった。
そのひたむきな熱量に、今度は私が面食らう。
「でも違います」
「何が」
「私が彼を好きなのと」
少女は言う。
「彼が幸せになるのは別です」
私は言葉を失った。
その発想はなかった。
少なくとも、私が17歳の頃には。
そんな考え方はできなかった。
クララは画面を指差す。
「それに」
「うん」
「彼はこんな終わり方を嫌がります」
「……」
「絶対に」
私はまた黙った。
なぜだろう。
それは私も知っている気がした。
レオンはこんな終わり方を選ばない。
クララも選ばない。
誰も選ばない。
幸せだから終わり。
結婚したから終わり。
そんな雑な結末で納得する人たちではなかった。
私は画面を見る。
三行。
たった三行。
なのに妙な敗北感があった。
書いたのは私なのに。
否定されたのも私なのに。
なぜか、クララの方が物語を理解しているような気がした。
私は画面から目を逸らした。
「じゃあ聞くけど」
半ば意地になって言う。
「どうして駄目なの」
クララは少し考えた。
それから言った。
「真実じゃないからです」
「真実?」
「はい」
私は苦笑した。
「小説の登場人物が真実とか言うんだ」
「言います」
迷いのない返答だった。
「だって私はそこにいましたから」
私は黙る。
クララは続ける。
「彼が何を考えていたかは分かりません。でも」
少女はノートパソコンの画面を見る。
「こんな終わり方はしません」
「……」
「私もしません」
私は指先で机を叩いた。
何となく落ち着かなかった。
「じゃあ、どうするの」
「分かりません」
「分からないのか」
「分からないです」
クララはあっさり認めた。
「でも違うことは分かります」
その言葉に、思わず笑いそうになる。
妙にクララらしい。
正解は知らない。
でも間違いは見逃せない。
そういう子だった。
私が書いた通りに。
いや、私が書いた以上に。
そこでふと気づく。
私はいつから、続きを考えなくなったのだろう。
レオンが死ぬ。
その先をクララが受け継ぐ。
世界は救われる。
何年もそう考えていた。
なのに、それが本当に正しいのか、一度でも考え直したことがあっただろうか。
「あの」
クララが言った。
「どうしてレオンを死なせるんですか」
私は肩をすくめた。
「英雄だから」
「はい」
「世界を救うため」
「はい」
「そういう話だから」
クララは納得していない顔だった。
「それは理由じゃありません」
「理由だよ」
「違います」
「違わない」
「違います」
頑固だった。
昔からそういう子だった。
「どうしてそんな話を書こうと思ったんですか」
私は答えようとした。
だが、言葉が出ない。
どうして。
どうしてだっただろう。
物語の都合。
テーマ。
構成。
伏線。
色々な理由を考える。
どれも正しい気がした。
同時に、どれも違う気がした。
クララは待っている。
私は目を閉じた。
そして、ぽつりと言った。
「……報われないから」
自分でも驚いた。
そんな答えが出てくるとは思わなかった。
「え?」
「現実は」
喉がひどく乾いていた。
「頑張っても報われないから」
言葉が止まらなくなる。
「努力したから成功するわけじゃない」
「……」
「正しいから認められるわけでもない」
「……」
「好きなことを続ければ夢が叶うわけでもない」
私は笑った。
ひどく情けない笑いだった。
「だから」
気づけば言っていた。
「レオンみたいな人は最後に死ぬんだよ」
部屋が静まり返る。
私は俯いていた。
誰かに言ったことはなかった。
自分でも気づいていなかった。
だけど、たぶん本当だった。
私はいつの間にか信じていたのだ。
善人ほど損をする。
優秀な人ほど苦しむ。
誰かのために頑張る人ほど最後に消えていく。
そういうものだと。
だからレオンは死ぬ。
そう決めていた。
クララはしばらく何も言わなかった。
ようやく、彼女は静かな声を放った。
「それ、レオンの話じゃありません」
私は顔を上げる。
クララは真っ直ぐこちらを見ていた。
「あなたの話です」
言葉が刺さる。
反論したかった。
できなかった。
「あなたが諦めただけです」
私は目を逸らした。
その通りだったから。
「現実はそんなものなんだよ」
ようやく絞り出した声は弱かった。
「私は現実を知りません」
クララは言う。
「でも」
少しだけ笑う。
「レオンは知っています」
「……」
「知った上で進みます」
私は黙った。
「私もです」
クララは続ける。
「怖いです」
「うん」
「彼が死ぬかもしれないのも怖い」
「うん」
「負けるのも怖い」
「うん」
「でも」
少女は小さく息を吸う。
「だから止まったりしません」
その言葉を聞いた瞬間。
なぜだろう、泣きそうになった。
私はクララをそう書いた。
何度も。
何度も。
何度も何度も何度も。
転んでも立ち上がる少女として。
それなのに、私はそのことを忘れていた。
クララは物語の中にいた。
私は現実にいた。
なのに、止まっていたのは私の方だった。
長い沈黙が続く。
時計の針だけが進む。
やがて私は深く息を吐いた。
「ごめん」
クララが瞬きをする。
「何がですか」
「止めてた」
声が震える。
「あなたたちを」
それが謝罪なのか。
敗北宣言なのか。
自分でも分からなかった。
ただ、ようやく認められた気がした。
クララは何も言わなかった。
少しだけ安心したように笑っただけだった。
その笑顔を見た瞬間。
私は本当に、この子がクララなのかもしれないと思った。
証拠なんてない。
幻覚かもしれない。
疲れた脳が見せる夢かもしれない。
それでも、この夜だけは信じてもいい気がした。
私はノートパソコンへ向き直る。
白い画面。
点滅するカーソル。
背後でクララが立ち上がる気配がした。
「帰るの?」
振り返らずに聞く。
「はい」
「元の世界に?」
「たぶん」
曖昧な返事だった。
私は少し笑う。
「先の展開についてのご希望は?」
するとクララも笑った。
「ありません」
「どうして」
「だって」
少し間があった。
「それを決めるのは、私じゃありませんから」
「いいの?私、結構性格悪いよ」
私はキーボードの上で指を遊ばせながら、冗談めかして言った。
「この先も、ひどい目に遭わせるかもしれないし」
「今さらですよ」
クララは呆れたように両手を広げた。
「『ルアの腐緑地帯』を忘れたんですか?」
「あそこはルート上、通らなきゃいけなかったから」
「あのとき私、一週間くらい泥と硫黄の匂いが落ちなかったんですよ」
「でもかっこよかったよ」
「あと『王立魔導大試験』の難易度も絶対おかしかったです」
「あれは伏線だから。必要な試練!」
「都合のいい言葉ですね……まあ、いいですけど」
クララは楽しそうに、小さく鼻を鳴らした。
「負けませんから」
それでこそクララだ。
彼女はいつだって、作者の手を離れて勝手に動き出す。
私は目を閉じた。
そして頷く。
「そうだね」
クララが玄関へ向かう気配がする。
もう引き留めようとは思わなかった。
不思議と、さっきまで感じていた恐怖もなくなっていた。
私はノートパソコンへ向き直る。
Chapter. 127
その文字を見つめる。
仕事の疲れが見せる幻覚にしては、あまりにもできすぎていた。
彼女が放つ言葉の熱も、小気味いい掛け合いも、すべてが私の想像を超えている。
夢か現実か、なんて考えても意味はなかった。
ただ、一年ぶりに。本当に一年ぶりに、続きを書こうと思えた。
それだけで十分な筈だった。
―――けれど。
私の想像を超えて現れた彼女を、
ただの幻覚として片付けてしまうのは、あまりにも寂しすぎた。
「ねえ」
私は振り返らずに言った。
「最後に一つだけ」
「はい?」
「あんたが本物のクララだって信じたい」
沈黙。
「そうですか」
「うん」
私は苦笑する。
「貴方が私の妄想ではないと、どうやったら証明できる?」
クララは少し考えるように黙った。
それから、穏やかな声で言った。
「実在します」
「……」
「私も」
少し間を置く。
「あの世界も」
私は振り返る。
「貴方が生み出しました」
クララは笑っていた。
いつもの、私が何度も書いてきた笑顔で。
「……私はノートPCで書いてただけだよ?信じられると思う?」
私の問いかけに、クララは小さく唇を動かした。
「では、こう考えてみてください」
私はその先の言葉を待った。
待ちながら気づく。
もしクララが今ここで、自分が実在する証拠を示したとして。
私はそれを信じるのだろうか。
たぶん信じない。どんな証拠でも。
私は次の理由を探すだろう。その証拠が偽物である理由を。
それはクララを疑っているからではない。
私が、自分の現実を疑いたくないからだ。
「貴方も誰かの想像の産物ではないと、どうして言い切れるんでしょうか」
そう言い残して、クララは消えた。




