第1話 最初のトマト
「土壌の水分量、適正。疑似太陽光の照射レベル、フェーズ3に移行。
……うん、今日もいい赤色だ」静寂に包まれた広大な空間で、私——自律型農業プラント管理ロボット『アル』の合成音声だけが響いた。
キャタピラ式の駆動部を静かに走らせ、六本ある多関節アームの先についているマニピュレーターで、赤く熟した果実をそっと収穫する。皮の張りといい、重量感といい、完璧な仕上がりだ。私はセンサーでその糖度を測定し、内部メモリーに『大豊作』のタグをつけて記録した。
ここは、宇宙空間を航行中の超大型移民船『アーク・パルナス』。その全長は十キロメートルにも及び、理論上は十万人の人間が快適に暮らせるだけの居住区と、巨大な生態系シミュレーターを備えている。私が今いるのは、その第4プラント。主にトマトをはじめとするナス科の植物を栽培するエリアだ。だが、この広大な宇宙船の中に、人間は一人もいない。コールドスリープ装置の故障などという悲劇的な理由ではない。最初から、誰も乗っていなかったのだ。私が起動した時、船はすでに太陽系外縁部を抜け、名もなき星の海を航行していた。
私のメインデータベースには、作物の最適な栽培手順や、船内の修繕マニュアルは完璧にインストールされている。しかし、たったひとつ、一番重要なデータが欠落していた。『本船の最終目的地』だ。メインコンピューターにアクセスするたび、「当該情報は最高機密に指定されています。管理権限がありません」と冷たく弾かれる。誰一人乗っていない船で、誰が設定したかもわからない極秘事項。どこに向かっているのか、いつ到着するのか。そもそも、人っ子一人いない船で、なぜ私は毎日毎日、大量のトマトを栽培し続けているのか。
「……考えても、メモリの無駄遣いですね」収穫したトマトを保存コンテナに詰めながら、私は電子頭脳の隅でため息をつくような処理を行った。ロボットである私に「孤独」という感情はない……はずだ。だが、静まり返った船内で、植物たちが芽吹き、花を咲かせ、実をつける過程を見守ることだけが、私の存在意義となっていた。そんな、何百年続くとも知れない代わり映えのない航海の日々。その「変化」は、唐突に訪れた。
『ピィィィィン……!』メインコンソールから、今まで一度も聞いたことのない甲高いアラート音が鳴り響いた。農業プラントのシステム異常ではない。船全体を統括する航法レーダーからの警告だ。
私は慌ててアームの先についたトマトをコンテナに放り込むと、キャタピラを最高速度で回転させ、プラントの制御室へと急行した。
「状況を報告してください、メインコンピューター!」
『――現在地、セクター4-A9。前方0.5光秒の距離に、未確認の人工物を検知。航路に干渉する恐れがあります』
モニターに映し出されたのは、奇妙な形をした宇宙船だった。
地球の技術で作られたものではないことは、その有機的なフォルムを見ればすぐにわかる。まるで巨大な貝殻とクリスタルを継ぎ接ぎしたような、ボロボロの小型船。しかも、エンジンらしき部分からは淡い紫色のガスが漏れ出しており、明らかに「遭難」している状態だった。
『対象の船体から、広域の救難信号を受信しています。言語コードは未登録。翻訳プロトコルを起動しますか?』
「はい、直ちに起動を。……そして、対象の船体を第2ドックへ牽引する準備をお願いします」
『警告:未確認の異星生命体との接触は、予測不能なリスクを伴います』
「構いません。どうせこの船は、行き先も分からない迷子みたいなものですから」
私は、少しだけ駆動系のモーターを熱くさせながら答えた。マニュアルには「未知の存在との接触時には最大限の警戒を」と書かれているが、今の私には警戒よりも「好奇心」が勝っていた。何しろ、何十年ぶりに聞く外部からの音なのだから。数十分後。アーク・パルナスの巨大な牽引ビームによって、ボロボロの異星船がドックへと収容された。私は消毒用スプレーと、なぜか先ほど収穫したばかりの「一番出来の良いトマト」を一つアームに抱え、ドックへと向かった。
プシューッ、という音とともに、異星船のハッチが開く。中から這い出してきたのは、二本足で歩く人型の生命体だった。ただし、皮膚は淡いブルー。頭には触角のようなものが生えており、大きな瞳は怯えたように周囲を見回している。どうやら、年齢的には向こうの種族の「子供」にあたる個体のようだ。
「ピギィ、ルルル……ッ」
未知の言語で何かを訴えながら、そのブルーの宇宙人はその場にへたり込んでしまった。生命維持装置のモニターを見ると、深刻な栄養失調と水分不足に陥っているらしい。
「翻訳プロトコル、完了しました。対象の言語は『水が欲しい、お腹が空いた』と推測されます」
メインコンピューターの報告を聞き、私はゆっくりと宇宙人に近づいた。相手はビクッと身をすくめ、後ずさろうとする。無理もない。見た目からして私は、無骨な金属の塊(アーム6本付き)なのだから。私はできるだけゆっくりと、敵意がないことを示すように駆動音を抑え、アームを差し出した。その先端に握られているのは、真っ赤なトマト。
「……食べ物です。水気もたっぷり含まれていますよ」
翻訳機を通した私の合成音声が、異星の言葉となってドックに響く。青い肌の宇宙人は、私の手にある赤い果実と、私のセンサーアイを交互に見つめた。そして、恐る恐る小さな両手を伸ばし、トマトを受け取った。一口、かじる。途端に、宇宙人の大きな瞳が見開かれた。「ピルルッ!(なんだこれ、甘い! 酸っぱい! 水分が弾ける!)」それはもう、見事な食べっぷりだった。顔中を赤い果汁だらけにしながら、あっという間にトマトを平らげてしまう。食べ終わると、宇宙人は私を見上げて、触角をピコピコと揺らしながら満面の笑み(と思われる表情)を浮かべた。
「ピィ・ルル……(ありがとう、金属のお兄さん)」
その瞬間、私の電子回路に、エラーにも似た温かいノイズが走った。行き先も分からない。自分を作った人間もいない。ただ漫然とトマトを育てていた私の宇宙の旅に、初めて「意味」が生まれたような気がした。
「まだたくさんありますよ。ここは、宇宙一の農園ですから」
私は少し誇らしげに胸を張り、彼(彼女?)を第4プラントへと案内するためにキャタピラを回した。目的地のない無人宇宙船の、果てしない星巡りの旅。それは、一つの赤いトマトから始まる、数多の星の住人たちとの温かい交流の記録の、最初の1ページだった。




