パッヘルベルのカノン
クラッシック音楽における不朽の名作『パッヘルベルのカノン』。
世界的に有名な楽曲であるにも関わらず、この曲が誕生した経緯は謎に包まれている。
この作品は、その誕生秘話についてのフィクションである。
教会のオルガニストとして働きながら、作曲の仕事を続けて、何年になるだろうか。
日々、教会には、さまざまな人が集まってくる。
そして、敬虔な祈りを込めて、神に聖なる歌を捧げている。
そんな彼らの想いを、神に届けるための楽曲を作って奏でること。
それが私の仕事だ。
楽曲の評判は上々で、私はあらゆる人々からの賞賛を受けてきた。
音楽家として申し分ない地位を手に入れて、私の名前は世界へと轟いた。
希代の作曲家と呼ばれる私を、羨望の眼差しで見つめる者は、数知れないようだ。
しかし、作曲家の性であろうか。
そうした日々を送っているうちに、私の胸の内には、ある想いが募っていった。
作曲家として大成したからには、世界一の傑作と呼ばれる楽曲を作りあげたい。
そして、音楽の歴史に名を刻みたい。
それが私の望みになっていった。
その想いは、年を追うごとに強まっていき、ついには抑えきれないようになっていった。
そのために、私は研鑽という研鑽を惜しまなかった。
血を吐くような努力のなかで、音楽と向き合い、音楽を愛した。
しかし、私が求める楽曲ができることはなかった。
いくら譜面にペンを走らせても、その片鱗さえも現われない。
ついには延々と神に祈る日々が続いたが、すべては無駄なことであった。
そうして、私が憔悴しきっていた、ある日のこと。
いつも教会に足を運んでいる年老いた女性が、温かみのある声で、私に言った。
「いつも、ありがとうね。あなたの素敵な曲のおかげで、穏やかな日々を送れているわ」
そのとき、これまで私を縛り上げていた鎖が解かれていくような感覚があった。
私は何を血迷っていたのだろう。
人々と神とを繋ぐための音楽を作り、心の安寧を叶える手伝いをすること。
作曲家として、これ以上の幸せが、他にあるだろうか。
傑作を作る必要など、どこにもなかったのだ。
その翌日のことだった。
教会のミサで、いつものように私はオルガンを弾き終えると、人々とともに席に座り、牧師の説法を聞きながら、新しい楽曲の構想を練っていた。
すると一人の青年が、私の隣に座った。
温和な笑みに満ちた、ソバカスだらけの顔だった。
服はボロボロだが、不潔というわけでもない。
声をかけると、青年は初対面の私に対して、朗らかな態度で接してくれた。
「君の仕事は何かね?」
「靴を作ってるんだ。だから、靴職人ってことになるのかな?」
「でも、君の靴は、ずいぶん、くたびれてるね」
「みんなが履く靴の方が、大事だからね。僕のは、まだまだ履けるから大丈夫だよ」
それからというもの、私と彼はミサで毎日のように会うようになり、私たちの親睦が深まるのには、それほど時間はかからなかった。
気さくな青年だった。
貧乏ではあるものの、収入がないというわけではないらしい。
人づてに聞いた話では、彼は稼いだ給金のほとんどを、本当に貧しい人たちに、あげてしまっているのだそうだ。
いつものミサの席でのことだった。
その日の青年は、いつもの笑みとは違う朗らかな微笑みを浮かべていた。
見ると、彼の傍らには、娘が一人静かにたたずんでいた。
彼と同じくらいの歳で、彼と同じくボロボロの身なりをしている。
「おはよう。その娘さんは、誰かね?」
青年は鼻を鳴らして、揚々と答えた。
「聞いて驚かないでよ。僕のフィアンセさ! 僕たち、結婚するんだ! ぜひとも、あなたには紹介しておきたいと思って、連れてきたんだよ」
場にそぐわない大きさの声が響き渡って、しばしミサは静まりかえった。
牧師は説法をやめて、青年と娘に向き直ると、
「それは、おめでとう。神の祝福があらんことを」と言って微笑んだ。
割れんばかりの拍手が起こり、祝いの言葉が飛び交った。
青年は誇らしげに手を振って応えていたが、娘は青年の影に隠れるようにして、恥じらいの笑みとともに、うつむいてしまった。
青年の話によれば、娘は服の仕立の仕事をしているとのことだった。
服の破けたところを直してほしいと、青年が彼女に頼んだことがきっかけで、交際が始まったのだそうである。
「僕みたいな貧乏人と一緒になってくれるとは思わなかったけど、一か八かプロポーズしてみたら、オーケーだったからビックリしたよ」
「私だって貧乏だもの。そんなの気にしてなかったわよ」
失礼ながら、娘は、それほど美人というわけでもなかった。
青年と同じく、顔はソバカスだらけで、いかにも苦労人といった感じだ。
服の仕立人であるにも関わらず、彼女の衣服には、いたるところに小さな破れ目がある。
しかし、温和な人柄であるようで、その顔には朗らかな微笑みが浮かんでいた。
「今度、結婚式をするつもりなんだ。来てくれるかな?」
「もちろん、行かせてもらうよ」
私がそう答えると、青年は満面の笑みで、娘を抱きしめた。
娘のソバカスまみれの顔は、春の訪れを告げる花のような笑みに染まっていた。
ミサが終わった後、私は書斎の机の椅子に腰を下ろして、二人のことを思い出していた。
彼らは苦労の多い日々を送っているらしい。
青年は、自分が履く靴も直さずに、他人が履く靴を作り続けている。
娘は、自分が着る服も直さずに、他人が着る服を作り続けている。
給金も、それほど多くはないはずだ。
にも関わらず、彼は自分より貧しい人々に、施しを与えている。
おそらく、彼女も同じことをしているのだろう。
そんな彼らが、人生で最も輝かしいであろう瞬間を迎えるのだ。
私は彼らの幸せを願わずにはいられなかった。
そして、想いを巡らせた。
私が彼らにできることが、何かないだろうかと。
祝いの品として、高価な贈り物をしてはどうか。
いや、きっと彼らは喜ばないだろう。
悩んだ末に、一つのアイディアが浮かんだ。
そうだ。結婚式の披露宴で奏でる楽曲を作ろう。
そして、彼らの幸せに華を添えよう。
私は白紙の譜面を机に広げて、ペンを手に取った。
不思議な感覚だった。
その楽曲は、ごく自然に、そこに現われた。
まるで、私の手によって書き出されるのを、ずっと待っていたかのように。
何の作為もなく、ありのままに。
私が楽曲を作ったのではない。
私は、それが現れ出るための手助けをしただけだ。
何の滞りもなく、楽曲は完成した。
私は深いため息とともに、ペンを置いた。
新緑の季節の、爽やかな蒼い空の日。
式は街の広場で、ささやかに行われた。
牧師の導きによって、青年と娘は、誓いの口づけを交わした。
指輪もなく、集まった人もまばらで、振る舞われる料理も、豪華というわけではない。
それでも、彼らは幸せそうだった。
これ以上ないというほどに。
この日のために、私は仕事仲間のヴァイオリニストの三人と、チェロとチェンバロの奏者に、演奏の依頼を申し出ていた。
断られたら、どうしたものかと危惧していたが、誰もが快く承諾してくれたのには、とても嬉しいものがあった。
そして、いよいよ披露宴が始まり、その曲は奏でられた。
私の指揮棒の合図とともに、チェロとチェンバロが、低音のなだらかな旋律を響かせて、楽曲のベースを作っていく。
それに乗って、ヴァイオリニストが一人、また一人と、演奏に加わってくる。
青年は微笑みながら、娘に「踊ろう」と言った。
恥じらいながらも、娘は彼の手を取り、二人は踊り始めた。
それは奇跡のような時間だった。
爽やかな春の嵐のなかで、小鳥たちが歌を奏でている。
まるで、天使たちが二人に愛を届けているかのように。
朗らかな日の光と、ヴァイオリンの晴れやかな音色が、混ざり合っていく。
まるで、神が二人に祝福を浴びせているかのように。
雲の上でステップを踏むように、二人は踊り続けた。
その瞬間は、永遠の時とともに、二人を包み込んでいった。
式が終わり、静かな夜が来た。
私は書斎の席に腰を沈めて、しばらくの間、奇跡の余韻に浸っていた。
そして、ランプが灯る机の上に、披露宴の演奏で使った楽譜を置いた。
私は、その楽譜を眺めたまま、おぼろげな意識のなかで、このように思った。
この楽曲を公表すれば、世紀の傑作と呼ばれるに違いない。
私の名声は、さらに高まり、音楽史にその名が刻まれるだろう。
しかし、そんなことをするのは、気が引ける。
公表すれば、知ったような口をきく批評家たちの手によって、この曲は晒しものにもされるだろう。
それは、あの二人の若者に訪れた奇跡の時間を、冒涜することのようにさえ思える。
作曲家として、それ以上耐えがたいことなど、あり得るだろうか。
この楽曲は、あの二人の若者の想い出のなかで、永遠の輝きとともに奏でられているべきものなのだ。
誰に邪魔をされることもなく。
こうして、
『パッヘルベル:3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調』
(Pachelbel : Canon a 3Violinis con Basso c./Gigue)
の楽譜は、私の書斎の机の引き出しの奥深くへとしまわれて、安らかな眠りについたのである。




