第1話:そのツッコミは、因果律すらブチ壊す
舞台袖というのは、いつだって湿気と緊張、そして微かな埃の匂いがする場所だ。だが、今の轟木アキラが感じているのは、それらに加えて強烈な「死臭」だった。もちろん、物理的な死ではない。芸人としての、社会的な死だ。
「……でね、ウチのおかんが言うにはね、その動物は体が真っ白で、首が長くて、パカパカ走るらしいねん」
「……馬やないか。それ絶対馬やないか」
センターマイクの前で、アキラの相方、ボケ担当の田中が力なく喋り、アキラが精一杯のツッコミを入れる。
ウケない。
驚くほど、ウケない。
客席には、まばらに座った観客が十数人。ある者はスマホをいじり、ある者は虚空を見つめ、ある者はあからさまに欠伸をしている。最前列のお婆ちゃんに至っては、完全に熟睡しており、時折「すぴー」と可愛らしい寝息を立てていた。その寝息の方が、今の彼らの漫才よりもよほどリズム感が良いという皮肉。
(なんでやねん……! ここ、伏線回収の見せ場やぞ! なんで誰も笑わへんねん! 霊園かここは! 幽霊相手に漫才してるんか俺は!)
アキラの心の中で、魂のツッコミが炸裂する。しかし、口から出るのは、台本通りの、少し気の抜けた「馬やないか」だ。
轟木アキラ、26歳。芸歴5年目。ピン芸人としてデビューし、鳴かず飛ばずの末、去年田中とコンビ「ダイナマイト・ボム」を結成したが、導火線に火がつく気配は微塵もない。むしろ湿気って腐りかけている。
彼の武器は、かつて師匠に「鋭すぎて人を傷つける」とまで言われた、天性のツッコミ気質だった。
日常生活のあらゆる矛盾、不条理、ボケに対して、反射的に、かつ的確にツッコまずにはいられない。その精度は、友人が「ちょっとトイレ」と言って女子トイレに入ろうとした瞬間に「おい待て逆や、お前のアイデンティティ崩壊するぞ!」と0.5秒でツッコみ、全裸で廊下を走る変質者には「露出狂にも季節感ってあるやろ! 12月に全裸はただの自殺志願者や!」と叫ぶほど。
だが、その「鋭すぎるツッコミ」は、舞台の上ではなぜか空回りした。
彼のツッコミは、客が「ボケ」を認識し、笑いの準備をする前に、そのボケを完全に論破し、粉砕してしまうのだ。
例えるなら、客が「さあ、今から美味しいフレンチを食べるぞ」とナイフとフォークを持った瞬間に、アキラが厨房に乱入し、「この食材は新鮮じゃない! 泥がついている! シェフの帽子が斜めだ!」と叫んで料理をすべてゴミ箱に捨てるようなものだ。
客は笑うどころか、「えっ、あ、はい……そうですね」と引くしかない。
「……よし、もうええわ」
「ありがとうございましたー……」
田中が力なく締め、二人は深々と頭を下げた。客席からは、パラパラと、まるで憐れみを形にしたような、乾いた拍手が送られる。熟睡していたお婆ちゃんが、その拍手で目を覚まし、「あら、終わったの?」と呟いたのが、この日一番の「オチ」だった。
舞台袖に戻った瞬間、アキラは床に崩れ落ちた。
「……解散しよか」
田中が、パイプ椅子に座りながら、ポツリと言った。
「え……?」
「もう無理や、アキラ。俺ら、面白くないんや。お前のツッコミはすごい。早すぎる。でも、俺のボケが追いついてない。いや、客が追いついてない。……俺、実家の八百屋継ぐわ」
アキラは何も言えなかった。田中の言葉は、鋭い刃物のようにアキラの胸に突き刺さった。それは、アキラ自身が一番分かっていたことだったからだ。
自分のツッコミは、この世界には「早すぎた」のだ。
「……そうか。八百屋、頑張れよ。ナスビの形が悪いってツッコむなよ」
「ハハ……ツッコむかアホ。……じゃあな、アキラ。お前は……ピンで頑張れよ」
田中はそう言って、荷物をまとめて楽屋を出て行った。
一人残されたアキラは、パイプ椅子に座り、天井を見上げた。カビの生えた天井が、まるで自分の未来のように見えた。
(ピンで、って……俺、ツッコミ専門やぞ。誰がボケんねん。壁にツッコむんか? 『おいこの壁、直角すぎるやろ! 90度以外認めん主義か!』ってか? ……虚しいわ!)
アキラは自嘲気味に笑い、衣装の派手なジャケットを脱ぎ捨てた。
深夜の地下鉄。
アキラは、ガラガラの車両で一人、つり革に捕まっていた。
窓に映る自分の顔は、驚くほど疲れていた。芸人を夢見て上京した頃の、あのキラキラした目はどこへ行ったのか。今はただの、夢破れた26歳のフリーターの顔だ。
電車が駅に止まるたび、乗客が入れ替わる。
酔っ払ったサラリーマン、イチャつくカップル、スマホゲームに熱中する若者。
アキラの「ツッコミ体質」は、こんな時でも休まない。
(あのサラリーマン、ネクタイをハチマキみたいにしてるけど、それ『昭和の酔っ払い』のコスプレか? 令和やぞ今! 古すぎるわボケ! ……あのカップル、彼女が彼氏の鼻毛を抜いてるけど、ここ公共の場やぞ! イチャつくベクトルが間違っとるわ! 鼻毛抜くなら家でやれ! ……あの若者、スマホゲームで負けたんか知らんけど、画面を指で連打しすぎや! 画面割れるわ! お前の指は高橋名人か!)
心の中のツッコミは、誰にも届かない。ただアキラの心の中に、澱のように積もっていく。
(ああ……もう嫌や。なんで俺のツッコミは、舞台では役に立たんのに、日常生活ではこんなに溢れてくるねん。世界のすべてがボケて見える。世界のすべてにツッコみたい。……でも、誰も笑わへん。誰も、俺を見てへん)
アキラは、胸の奥から湧き上がるような、強烈な孤独感と虚無感に襲われた。
自分の存在意義。それは、誰かのボケにツッコミを入れ、笑いを生み出すことだったはずだ。それができない今、自分はただの「うるさい一般人」に過ぎない。
(……もし、俺のツッコミが、誰かに必要とされる場所があるなら。……もし、俺のツッコミが、もっと、物理的な何かを変える力を持っていたら……)
そんな、中二病じみた妄想が、頭をよぎる。
もし、ツッコミが、魔法のように世界を改変できたら?
「『なんでやねん!』って言ったら、嫌な上司が爆発するとか……『ボケが!』って言ったら、満員電車が空くとか……アホか。俺は」
アキラは、自分の馬鹿馬鹿しい妄想にツッコミを入れ、自嘲の笑みを浮かべた。
終電を降り、深夜の住宅街を歩く。
月明かりだけが頼りの、静かな夜だ。
アキラは、コンビニで買った発泡酒を飲みながら、千鳥足で歩いていた。
(……八百屋か。いいな、田中。安定してて。俺も、実家に帰ろうかな。親父の工場、継ぐかな。……ネジを作る工場。毎日毎日、同じネジを作る。……そこにボケはあるんか? ネジが突然、ハート型になるとかいうボケはあるんか? あったらツッコめるけど、そんなネジ、欠陥品やんけ! ……俺の人生、欠陥品やんけ……!)
発泡酒が、急に苦く感じられた。
アキラは、空き缶をゴミ箱に投げ捨てようとして……外した。
『プロ野球選手なら即二軍行きやぞ!』ってか?
……ああ、虚しい。自分へのツッコミが一番虚しい!
アキラは、地面に落ちた空き缶を拾い、情けなくて、涙が溢れてきた。
その時だった。
「ひ……っ!?」
アキラの前方に、突然、巨大な影が現れた。
住宅街の、狭い路地を埋め尽くすほどの、巨大な影。
それは……トラックだった。
深夜の住宅街。速度制限など無視した、暴走トラック。
しかも、そのトラックは……なぜか、ヘッドライトが「ピンク色」だった。
(……え? ピンク? なんでピンク? ラブホの送迎バスか? いや、トラックやんけ! トラックのヘッドライトをピンクにするって、どんなファッションセンスや! 『夜の魔術師』ってか? 派手すぎるわボケ!)
死の直前。人は走馬灯を見ると言うが、アキラが見たのは、「トラックのライトがピンクである」という、あまりにも強烈な「ボケ」だった。
彼の「ツッコミ体質」は、死への恐怖よりも、そのボケへの不快感が勝った。
トラックが、アキラに迫る。
ピンク色の光が、アキラを包む。
アキラは、反射的に、右手を突き出し、魂の底からのツッコミを叫んだ。
「おい待てこらぁぁぁ! トラックのライトをピンクにするな! 風紀が乱れるわ! 趣味悪すぎやろがぁぁぁ!!! なんでやねん!!!」
その瞬間。
アキラの全身から、凄まじい「波動」が放たれた。
それは、笑いでもなく、怒りでもなく、純粋な「ツッコミ」のエネルギーだった。
ズガァァァァァァァァン!!!
次の瞬間、アキラの目の前で、暴走トラックが……爆散した。
エンジンが、タイヤが、荷台が、そしてピンク色のヘッドライトが。
木っ端微塵に砕け散り、深夜の住宅街に、鉄の雨が降った。
「……え?」
アキラは、突き出した右手をそのままに、呆然と立ち尽くした。
爆発の衝撃波で、周囲の家の窓ガラスが割れ、犬が吠え、防犯ブザーが鳴り響く。
しかし、アキラ自身は……無傷だった。
(……え? 爆発した? 俺が、ツッコんだから? トラックの趣味の悪さにツッコんだから、トラックが爆発したんか? ……どんな因果律やねん! 俺のツッコミ、物理攻撃やったんか!? 今まで5年間、俺は物理攻撃を客にぶつけ続けてたんか!? 客が引くはずやわ!)
あまりの非現実的な状況に、アキラの心の中のツッコミが、メタ的な方向へ暴走する。
「……う、嘘やろ。俺、夢見てるんか? コンビニの発泡酒に、幻覚剤でも入ってたんか?」
アキラは、自分の顔をぶった。痛い。夢じゃない。
爆散したトラックの残骸からは、煙が立ち上り、周囲は騒然としている。
「……や、やばい。警察が来る。俺、トラックを爆破した容疑で捕まる……? 『容疑者は、トラックのヘッドライトがピンクであることに腹を立て、なんでやねんと叫んで爆破しました』って、どんなニュースや! 警察もツッコミどころ満載で困るわ!」
アキラは、慌ててその場から逃げ出そうとした。
だが、その時。
アキラの足元の地面が、突然、まばゆい「金色」に光り輝いた。
「……え? 今度は何? 地面が光る? 宝くじでも当たったんか? いや、俺、宝くじ買ってへんし! この光、デパートのセール会場の照明か?」
光は、アキラを中心に、複雑な模様を描き始めた。
それは、どう見ても……魔法陣だった。
「ま、魔法陣……? 魔法陣って、ファンタジー映画のあれか? なんで深夜の住宅街に魔法陣が? 道路工事の跡地か? 『ここから先、異世界』ってか? 雑すぎるわボケ!」
魔法陣から、強烈な重力が発生し、アキラの体を地面へと引きずり込もうとする。
アキラは、抵抗しようとしたが、その重力は人力でどうにかなるものではなかった。
「お、おい! 待て待て待て! 俺はまだ、警察に自首もしてへんし、田中への解散の挨拶も終わってへん! 実家の親父に『ネジ工場継ぐわ』とも言ってへん! なんでこのタイミングで異世界転移やねん! トラックに轢かれた後に転移するのが、テンプレやろが! 轢かれる前にトラック爆破して、その後に転移って、順序が逆や! 編集者が怒るわ!」
アキラは、沈みゆく体で、世界の理不尽にツッコみ続けた。
「……誰か! 誰か、この状況にツッコんでくれ! 俺一人じゃ、ツッコミが追いつかん! 世界がボケすぎや! 理不尽すぎるわぁぁぁ!!!」
アキラの叫びは、光の柱に飲み込まれた。
視界が、純白に染まる。
浮遊感。
そして……意識が、遠のいていく。
「……うう」
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
アキラは、硬い石の床の上で目を覚ました。
頭がガンガンする。コンビニの発泡酒の二日酔いか、それとも異世界転移の副作用か。
アキラは、ゆっくりと体を起こし、周囲を見回した。
「……ここ、どこや?」
そこは、薄暗い、広大な石造りのホールだった。
天井は高く、壁には松明が灯り、ファンタジー映画に出てくる「王城の謁見の間」のような雰囲気だ。
そして、アキラの目の前には……。
「……あら、可愛い子」
絶世の美女が、立っていた。
金髪碧眼、透き通るような白い肌、そして、体のラインがはっきりと分かる、際どいデザインの聖職者服を着た……エルフの女性だった。
アキラは、しばしその美しさに目を奪われた。
だが、次の瞬間。
アキラのツッコミ体質が、彼女の「致命的なボケ」を検知した。
彼女は、右手に神聖そうな杖を持っていたが、左手には……なぜか、「生きたタコ」を握りしめていた。しかも、そのタコは、彼女の腕に絡みつき、ニュルニュルと動いている。
(……え? 美女。金髪エルフ。聖女様? ……で、タコ? なんでタコ? ここ、王城やろ? なんで生きたタコを持ってるねん! 晩御飯の食材か? 『これからタコ焼きパーティーです』ってか? 聖女がタコ焼き焼くか! ギャップ萌えを狙いすぎや!)
アキラは、異世界に転移したことへの驚きよりも、彼女の「タコ」へのツッコミを我慢することの方が、遥かに困難だった。
「……あなたが、私の『運命の人』かしら?」
エルフの聖女は、アキラを見つめ、妖艶な微笑みを浮かべた。タコを握りしめたまま。
「……はぁ、運命の人、ですか」
アキラは、乾いた声を絞り出した。
「ええ。私、神託を受けたの。『今日、この場所に、世界を救う最強のツッコミが現れる』って。……あなたが、そのツッコミ?」
「……ええ、まあ、芸歴5年目、ツッコミ専門の轟木アキラですが……。最強かどうかは知りませんが、トラックは爆破しました」
「トラック? ……まあ、いいわ。とにかく、あなたが来てくれてよかった。私、ずっと待っていたの。私の、この……『不器用さ』を受け入れてくれる人を」
聖女は、そう言って、アキラに近づいてきた。
そして、彼に魔法をかけようと、杖を掲げた。
「……あなたに、祝福を授けるわ。……『回復魔法』!」
聖女が叫んだ瞬間。
杖から放たれたのは、緑色の癒しの光……ではなく。
真っ赤な、ドロドロとした液体だった。
その液体は、アキラの顔面に直撃した。
「……ぶふぉっ!?」
アキラは、顔面に奇妙な液体を浴び、パニックになった。
その液体は、驚くほど臭かった。腐ったトマトと、生魚を混ぜたような匂いだ。
「あ……ら? 間違えちゃった。これは『回復魔法』じゃなくて、『超強力・筋力増強剤』だったわ」
聖女は、てへぺろ、と可愛らしく舌を出した。タコを握りしめたまま。
「……おい待てぇぇぇ!!! 間違えたレベルじゃねぇぞ! 回復魔法と筋力増強剤、どうやったら間違えるねん! エフェクトが全然違うやろ! 赤いドロドロって、血かと思ったわ! しかもこれ、めっちゃ臭い! プロテインってレベルじゃねぇ! 毒薬やろが!」
アキラは、顔面の液体を拭いながら、魂のツッコミを炸裂させた。
その瞬間。
ズガァァァァァァァァン!!!
聖女の後ろにあった、巨大な王の像が……爆散した。
石造りの像が、木っ端微塵に砕け散り、王城のホールに、石の雨が降った。
「……え?」
聖女は、呆然と振り返り、砕け散った王の像を見つめた。
そして、アキラを振り返り、その目を輝かせた。
「……す、すごい! あなたのツッコミ、本当に物理攻撃なのね! 神託は本当だったんだわ!」
「……は?」
アキラは、自分の右手を、そして砕け散った像を、交互に見つめた。
(……やっぱり。やっぱり俺のツッコミ、物理攻撃やったんや。日本でトラック爆破したのも、夢じゃなかったんや。……しかも、この世界では、ツッコミの威力が、日本よりも遥かに増幅されてる……?)
アキラは、戦慄した。
自分のツッコミは、もはや「笑い」を生み出すものではない。
それは、世界を破壊する、「兵器」だった。
「……あなたが、私の『矛盾』を、物理的に砕いてくれた。……私、ずっと苦しかったの。自分のポンコツさに。でも、あなたなら……私のボケを、すべて受け止めて、爆破してくれる!」
聖女は、アキラの手に、タコを握りしめたままの左手を重ねた。
その目は、完全に「運命の人」を見る目だった。
「……おい待て。受け止めて爆破って、どんな愛情表現や。俺は、お前のボケを正したいだけや! 爆破したいわけじゃねぇ! ……あと、タコ! タコを俺の手に乗せるな! ニュルニュルする! 臭い! プロテインとタコの匂いで、俺のアイデンティティが崩壊する!」
アキラのツッコミが、再び炸裂する。
その余波で、王城の壁が、少し崩れた。
轟木アキラ、26歳。売れないピン芸人。
異世界に転移した瞬間、彼は「最強の物理ツッコミ芸人」として、新たな人生の幕を開けたのだった。
(……なんでやねん。俺の人生、なんでこんなにボケ倒しやねん。……でも、悪くない。……誰かが、俺のツッコミを必要としてくれるなら。……世界のすべてを、爆破してでも、ツッコんでやるわ!)
アキラの心の中に、新たな、芸人としてのプライドが、メラメラと燃え上がっていた。
異世界お笑い地獄。開演である。




