潮に巻かれて
三日目の朝、空の色がおかしかった。
東の水平線が赤黒く染まっている。日の出前の空にしては色が濃すぎた。海上に薄い雲が張っていて、光が乱反射しているのだろう。
トーマが海を見ていた。
「風が変わっています。南寄りです」
「問題がありますか」
「南風は高潮を呼ぶことがあります。潮位が予測より高くなるかもしれない」
ダリンが潮汐表を確認した。今日の干潮は昨日より三十分遅い。作業可能な時間帯が短くなる。
「最奥区画への調査は慎重に行きましょう。撤退判断は早めに」
「承知しました」
朝食を手早く済ませ、干潮のタイミングに合わせて岩場に降りた。
昨日の洞窟を抜け、収束点のある広間を通過する。今日の目的地はその更に奥——広間の壁面の亀裂から続く、まだ入っていない空間だ。
亀裂は狭かった。私は辛うじて通れたが、トーマは肩を横にしなければ入れなかった。大柄な体を器用に捩じって、先に通過する。
「安全です。ただし天井が低い」
亀裂を抜けると、目の前に広がっていたものに、息を呑んだ。
小さな部屋だった。幅四メートル、奥行き三メートルほど。だが壁面の回路密度が、これまで見たどの区画とも比較にならなかった。
四面の壁すべてが回路で覆われていた。
波形パターン。直線伝達系。そして——見たことのない記号。回路の結節点に、小さな幾何学模様が刻まれている。円と直線の組み合わせ。回路そのものではなく、回路に付された「注釈」のようなものだ。
「これは——」
私は膝をついて壁面に顔を近づけた。ルーペを当てる。手が震えた。
「環境モニタリングの中核部です。全部ここに集まっている。潮汐データ、魔素濃度の変動、それから——これは温度かもしれない。三種類のデータが、この部屋に集約されている」
手が勝手にスケッチブックを開いた。描かなければ。この構造は複雑すぎて、言葉では伝わらない。
「三種類のデータが集まって、ここで比較されている。閾値がある。この幾何学記号が——たぶんこれが閾値を示す制御記号です。潮汐の周期に対する魔素濃度の比率が、ある値を超えたら——何かが起こる。アラートが出る。あるいはネットワーク全体に通知が行く」
私は壁面を指で辿りながら、回路の流れを読んだ。
「この施設は単なる観測所じゃない。閾値監視の一環です。旧文明は海の変動を常時監視していて、異常を検知するシステムを持っていた。それがこの回路の目的だ」
描きながら、声が大きくなっていた。自覚はあるが止められなかった。
「見てください、この制御記号。回路の三箇所に同じ記号がある。各データ系統の閾値を個別に設定できる構造になっている。つまり旧文明は、どの変数がどの範囲に収まるべきかを知っていた。知った上で監視していた。何を警戒していたんだろう。海の何が危険だったんだ——」
「メイラさん」
トーマの声だった。
静かだが、いつもと違う調子だった。
「水が来ています」
私は振り返った。亀裂の向こう——広間の方から、水の流れる音が聞こえた。
まだ時間があるはずだった。干潮から二時間も経っていない。だがトーマの言葉に嘘はない。
「高潮です。予測より早い。撤退してください」
私はスケッチブックを閉じた。まだ描ききれていないページがある。制御記号の詳細。回路の接続構造。あと十分あれば——
「今すぐです」
トーマの声に迷いがなかった。私はスケッチブックを鞄に押し込み、立ち上がった。
亀裂を通って広間に出ると、足首まで水が来ていた。さっきまで乾いていた岩の床が、薄く海水に覆われている。水はゆっくりと、だが確実に上がっていた。
「走ります。足元に注意して」
トーマが先行した。広間から洞窟への通路は傾斜がある。水は低い方から溜まっていく。通路に入ったとき、水位はすねの半ばまで上がっていた。冷たい海水が靴の中に入り込む。
洞窟の中は暗い。携帯灯の光が水面に反射して、壁面と水面の境界が曖昧になった。足元が見えない。岩の凹凸を記憶で辿りながら、なるべく速く歩く。
「ダリンとペトラは?」
「先に撤退させました。広間の外で待機しているはずです」
洞窟を抜ける手前で、足元が変わった。
岩盤の表面に海藻がこびりついている区間だった。海水で滑りやすくなっている。携帯灯の光を足元に向けたが、水の反射で海藻の位置が見えなかった。
右足が滑った。
体が傾いた。左手で壁を掴もうとしたが、壁面も濡れていて指が滑った。バランスを崩し、膝が水面に落ちかける。スケッチブックの入った鞄が肩からずれ、水面に向かって落下する——
腕を掴まれた。
左の手首を、大きな手が掴んでいた。
引き上げられた。水面に膝がつく寸前で、体が持ち上がる。力は強かったが、乱暴ではなかった。私の体重を支えるのに必要な最小限の力で、確実に引き上げる。鞄は肩にかかったまま、水に触れていない。
足元が安定した。両足が岩の上にしっかり載っている。
心臓が速い。呼吸が乱れている。
トーマの手がまだ私の手首を握っていた。彼の手のひらは厚く、温かかった。海水の冷たさとの落差が大きくて、手首の感覚が鋭くなっていた。
私が安定したのを確認した瞬間、彼の手が離れた。
正確だった。支えが要らなくなった瞬間に、ちょうど離す。早すぎず、遅すぎず。
「大丈夫ですか」
「——はい。ありがとうございます」
声が少し震えていた。恐怖だ。滑ったとき、鞄の中のスケッチブックが水に浸かる映像が一瞬で脳裏を走った。三日分の記録が失われる。それは——
いや、それだけではなかった。膝を打ちそうになったとき、体が固まった。怪我をするかもしれないという、もっと原始的な恐怖。
「足元が見えません。私が先行します。左の壁を伝ってきてください」
トーマが前に出た。彼の大きな体が水を押し分けて進む。私は言われた通り、左の壁に手をつきながら続いた。壁面は濡れているが、彼が歩いた後の水の流れで足元の海藻が少し流され、歩きやすくなっていた。意図的かどうかはわからない。
洞窟を出た。外の光が眩しかった。
岩場にはもう波が打ち寄せていて、昨日歩いた場所の半分は水没していた。ダリンとペトラが高台で手を振っている。
「急ぎましょう」
岩場を渡る。水位は膝下まで上がっていた。波が来るたびに体が押される。
高台に上がったとき、全員が無事であることを確認した。荷馬も落ち着いている。
振り返ると、さっきまでいた岩壁はもう半分以上水没していた。あと十分遅ければ、洞窟の通路は完全に水の下だっただろう。
トーマの撤退判断は正確だった。あの瞬間、私が「あと十分」と粘っていたら、帰路はもっと危険になっていた。
鞄を開けてスケッチブックを確認した。無事だった。濡れていない。
右手で鞄を開けたとき、左の手首に、まだ温かさが残っている気がした。
心臓はまだ速かった。
恐怖のせいだ。滑りかけた瞬間の、あの体が固まる感覚。岩場の海水の冷たさ。それが心拍を上げている。
私は手首を右手で無意識に握った。彼の手があった場所を。
すぐに手を離した。何をしているんだろう。
午後、高台で記録の整理をした。
最奥区画で描ききれなかった部分を、記憶を頼りに補完する。制御記号の形状。回路の接続パターン。データの流れ。
描きながら、仮説が固まっていった。
沿岸遺跡は環境モニタリングの施設だった。潮汐データと魔素濃度の変動を測定し、閾値を設定して監視していた。そしてそのデータを地下に送っていた。
だが「閾値監視」ということは、旧文明は何かの変動に対して「危険な範囲」を知っていたということだ。何が危険だったのか。魔素濃度が上がりすぎると何が起こるのか。
答えは今日の調査範囲にはなかった。それを知るには、データの送り先——おそらく港区地下遺跡の方を調べる必要がある。
手を止めて、海を見た。潮が満ちて、岩壁は完全に見えなくなっていた。穏やかな海面の下に、千年前の監視システムが眠っている。
一部のサンプルは流されてしまった。退避時に鞄から落ちかけたとき、サンプルケースの蓋が緩んでいた。壁面から採取した接合材の破片が二つ、海水に浸かった。乾燥すれば使えるかもしれないが、塩分が回路の微細構造に影響する可能性がある。
だが、最も重要なもの——スケッチブックの記録は無事だった。
頭の中では、モニタリングシステムの全体像が少しずつ形を取り始めていた。沿岸遺跡で環境データを収集し、地下ネットワークを通じて処理拠点に送る。処理拠点が港区地下遺跡の「交換局」だとすれば、二つの遺跡はネットワークの一部だ。
そして、このネットワークは二つの遺跡だけで完結しているとは考えにくい。
「ネットワークの一部です」
私はスケッチブックに文字を書き込んだ。
沿岸遺跡も、港区地下遺跡も、もっと大きなネットワークの構成要素だ。環境モニタリング、情報伝達、情報処理。それぞれの機能を持つ施設が、回路で繋がれてネットワークを形成していた。
デルガの地下には、まだ見つかっていない構造がある。
夕方、最後の夜の焚き火を囲んだ。明日は朝一番で最終確認をしてからデルガに戻る。
ダリンとペトラが寝た後、焚き火のそばにはまた二人だけが残った。
今日はスケッチブックを広げなかった。記録の整理は終わっている。
波の音を聞きながら、焚き火を見ていた。炎の色と、海の向こうに沈んだ夕日の残照。空がゆっくりと暗くなっていく。
トーマも黙っていた。装備の手入れをするでもなく、ただ焚き火の傍に座っている。
沈黙が苦ではなかった。
いつからだろう。地下遺跡での沈黙は当然だった。作業中に喋る必要がないから黙っている。だがこの沈黙は違う。仕事とは関係のない時間に、二人で黙って火を見ている。それが自然だと感じている。
考えてみれば、長期契約になってから一ヶ月以上が経っている。毎日、地下に一緒に降りて、地上に一緒に戻る。仕事上のパートナーとしては、十分な時間だ。
だから沈黙が苦でないのは当然だろう。慣れただけだ。
「明日で戻りますね」
「はい」
「報告書をまとめたら、次の調査対象が決まると思います。今回の発見は大きいので、局の動きが速くなるかもしれません」
「では、しばらく忙しくなりますか」
「たぶん。報告書の作成と、ノルさんへの新しいデータの提供と、次の調査の計画と。机仕事が増えます」
「……了解です」
短い応答。いつもの調子だ。
焚き火が弱くなってきた。薪を足そうと手を伸ばしたが、トーマが先に新しい枝を火にくべた。炎が再び勢いを取り戻し、私の顔を照らす。
「今日は、ありがとうございました」
唐突に出た言葉だった。改めて礼を言うつもりだったわけではない。
「滑ったとき」
「仕事です」
短く、いつもの答え。
「そうですよね」
私は笑った。焚き火に目を戻す。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
テントに入った。寝袋に潜り込んで目を閉じる。
波の音。今日で三日目の、このリズム。明日にはデルガに戻って、この音を聞かなくなる。
手首に、まだ感覚が残っている気がした。
錯覚だろう。もう何時間も前のことだ。海水の冷たさと、掴まれた手の温度差が印象に残っているだけだ。
脳裏に、モニタリングシステムの全体図が浮かんだ。ネットワークの一部。二つの遺跡を繋ぐ回路。データの流れ。
明日、デルガに戻ったら報告書を書く。報告書に書くべきことは——事実だけだ。回路の構造、測量データ、仮説の根拠。
手首の温かさは、報告書には書かない。
書く理由がないからだ。




