再配属
ノルの鑑定工房は、港区の裏通りにあった。
ヴァルトの紹介状を懐に、私はトーマと二人で石畳の坂を下った。朝の港は漁船の荷揚げで賑わっていて、魚と潮の匂いが通りに満ちている。表通りから一本入ると、遺物商や修理工の小さな看板が並ぶ路地に出た。
工房の入口には何の看板もなかった。木の扉に小さな覗き窓がついているだけだ。ヴァルトから聞いた住所と照合して、ここで合っていることを確認する。
扉を叩いた。
しばらく待った。反応がない。もう一度叩いた。
扉が開いた。
中から出てきたのは、二十代半ばくらいの痩せた男だった。黒い髪がぼさぼさで、目の下に隈がある。作業着の袖をまくり上げていて、指先にはインクか何かの汚れがついていた。
私の顔を見て、明らかに面倒くさそうな表情をした。
「……何」
「遺跡調査局のメイラです。ヴァルト局長の紹介で——」
「ああ、聞いてる。来週って言ったのに」
「来週とは聞いていませんが——」
「俺が来週にしろって言ったんだよ。ヴァルトが無視したんだろ」
なるほど。ヴァルトが「面倒くさい男だ」と言った意味がわかった。
「お忙しいところ申し訳ありません。回路パターンのスケッチを見ていただきたいのですが」
ノルは溜息をついた。扉を大きく開け、顎で中を示した。入れ、ということらしい。
工房の中は狭かった。壁一面の棚に遺物が整然と並んでいる。金属片、回路の断片、石材のサンプル。作業台の上にはルーペと測定器具が散らばり、開きかけの帳簿が何冊か積まれていた。
トーマは入口の脇に立った。工房の中には入らず、扉の近くで待機する姿勢だ。護衛として、室内と外の両方に目が届く位置を選んでいた。
作業台の前に座ったノルが手を出した。
「スケッチ」
私はスケッチブックを渡した。
ノルはページをめくり始めた。最初の数ページ——主幹路の分岐構造——はほとんど流し読みだった。ぱらぱらと速いペースでめくっていく。
未分類のパターンが描かれたページに来たとき、手が止まった。
ノルの目つきが変わった。
面倒くさそうな顔が消え、ルーペに手を伸ばした。紙面に顔を近づけ、曲線の形状と分岐の角度を食い入るように見ている。
「これ、どこで見つけた」
声のトーンが違った。先ほどまでの気だるさが消えている。
「港区地下遺跡の主幹路です。結節点の手前、南西方向に——」
「結節点? 主幹路の?」
「はい。幅十八メートルの大空間があって、そこから三方向に主幹路が伸びて——」
「いや、そっちはいい。このパターンだ」
ノルはスケッチブックを作業台に広げ、棚から別の帳簿を引っ張り出した。ページをめくり、あるページを開いて、私のスケッチの隣に置いた。
帳簿には、遺物の回路パターンが精密に描かれていた。金属片に刻まれた紋様のスケッチ——鑑定士の記録だ。
「似てるだろ」
私は二つのスケッチを見比べた。
似ていた。曲線の形状。分岐の角度。完全に同じではないが、設計思想の共通性が明らかにある。同じ「言語」で書かれた回路だ。
「これは——どこの遺物ですか」
「半年前に持ち込まれた金属片だ。出所は……言えない。闇市場経由だからな」
「回路パターンは分類できましたか」
「できなかった」
ノルは椅子の背にもたれた。
「俺もこのパターンは初めて見た。既知の四類型には入らない。情報伝達系に近いが、処理系の特徴も混じっている。かといって両方の混合とも言い切れない。別の体系に属するパターンだと思った」
「別の体系」
「旧文明の回路構造は四類型で分類されてきたが、それは俺たちが見つけた範囲での話だ。まだ知られていない第五の類型がある可能性は、前から指摘されていた。ただ、実例がなかった」
ノルはスケッチブックに目を戻した。
「お前のスケッチが二例目だ。しかも、こっちは遺跡の壁面構造として存在している。金属片の断片と違って、周囲の回路との接続関係がわかる」
私の胸が高鳴った。金属片の断片では、そのパターンが全体の中でどういう位置づけなのかわからない。だが壁面構造として存在するなら、前後の回路との関係を辿ることができる。
「新区画の壁面では、このパターンが処理系回路と接続しています。循環型のフィードバック構造も見つかりました」
「循環型?」
ノルが身を乗り出した。
「フィードバック回路です。処理結果を入力に戻す循環構造で、既知の類型には報告例がありません」
「見せろ。どのページだ」
私はスケッチブックの該当ページを開いた。新区画の壁面で描いた三層構造。第三層の循環型パターン。
ノルはルーペを当て、長い時間をかけて観察した。時折、自分の帳簿と見比べている。
その間、私たちは専門用語で議論を始めた。回路パターンの接続角度、密度分布の法則性、層間の干渉構造。ノルは面倒くさがりに見えたが、専門的な議論になると口調が速くなり、的確な質問を次々と投げてきた。
「この第三層の線幅は?」
「目測で〇・三ミリメートル前後です。正確な計測はまだ——」
「第一層と第三層の密度比は?」
「概算で一対三・五くらいですが——」
「概算じゃ足りない。正確に測れ。この密度比が意味を持つ可能性がある」
ノルの指摘は鋭かった。私が気づいていなかった観察ポイントを、次々と指し示す。鑑定士の目は、調査官とは違う角度で回路構造を読む。同じものを見ていても、見えているものが違う。
「——で、この循環構造が何を処理してるかだが」
ノルが言いかけたとき、工房の奥から声がした。
「ノル、お客さん? 私も見たい!」
奥の部屋から、赤毛の若い女性が顔を出した。革の冒険者装備を身につけ、腰にはベルトポーチをいくつもぶら下げている。
「お前はいつからいた」
「さっきから。途中で面白くなってきたから聞いてた」
リタ、とノルが面倒くさそうに呼んだ。
「遺跡屋だ。面倒な客の一人」
「面倒じゃないよ! こんにちは、リタです。あなたが調査官さん?」
リタは私のところまで来て、手を差し出した。握手を求めている。初対面の相手との距離が近い人だった。
「メイラです。遺跡調査局の——」
「聞いてた聞いてた。すごいね、新しい回路パターン見つけたんでしょ? ノルがあんなに食いつくの珍しいよ」
ノルが舌打ちした。
「食いついてない。仕事だ」
「嘘。目がキラキラしてた」
「してない」
リタはくるりとトーマの方を向いた。
「あ、護衛さん? お疲れさまです。ずっと立ってて大変ですよね」
トーマは小さく頷いた。
「いえ」
リタはトーマを見て、それから私を見て、また何か言いかけたが、やめた。代わりに「へえ」と小さく言って、笑った。何がおかしかったのかわからなかった。
リタとノルのやり取りは軽快で、工房の空気が一気に柔らかくなった。ノルは面倒くさそうにしているが、リタを追い出す気配はない。信頼関係がある二人なのだろう。
結局、ノルとの議論は一時間以上続いた。リタは途中から飽きて奥の部屋に引っ込んだが、時折顔を出しては「まだやってるの?」と言った。
ノルは最後に、スケッチブックを閉じて言った。
「もっとサンプルが要る。できれば現物を。壁面の回路を拓本で取れるか?」
「拓本……技術的には可能ですが、壁面を傷つけないよう慎重にやる必要があります」
「急がなくていい。ただ、正確にやれ。この回路パターンの解読には、スケッチだけでは限界がある。拓本があれば、線幅と密度の正確な数値が出せる」
「わかりました。次の調査で試みます」
ノルは立ち上がり、棚から道具を取り出した。拓本用の薄紙と、専用の墨。
「これを使え。遺跡用だ。壁面を汚さない」
「ありがとうございます」
道具を受け取りながら、私は言った。
「ノルさん、今後もスケッチを見ていただけますか」
「……面倒だな」
ノルは溜息をついた。だが次の瞬間、
「まあ、持ってくるなら見る。来る前に連絡しろ。突然来るな」
「承知しました」
工房を出た。
局舎に戻ると、ヴァルトが待っていた。
「どうだった」
「未分類の回路パターンに類似した遺物が、半年前にノルさんの元にも持ち込まれていたそうです。二例目の確認ということになります」
「ほう」
「また、ノルさんから拓本採取の提案がありました。スケッチでは限界があるので、壁面回路の拓本を取りたい」
ヴァルトは頷いた。
「それはいい。やれ。——ところで、護衛の件だが」
「はい」
「トーマの短期契約が今週で切れる。調査の長期化に伴い、継続するか別の護衛を手配するか決めなければならない」
私は少し考えた。
「トーマさんの継続をお願いできますか」
「理由は」
「現場の状況を把握している護衛の方が効率的です。新区画の構造的な不安定さを理解してもらうのに、新しい護衛だとまた時間がかかります。トーマさんは新区画での安全確認が的確で、調査の進行を妨げません」
妨げない。それが私にとっては最も重要な評価だった。遺跡の中で口を挟まない。必要なことだけを言い、それ以外は黙っている。調査に集中できる。
「わかった。トーマに長期契約を打診する」
ヴァルトが護衛手配の書類を出した。契約期間の欄に「調査終了まで」と書かれていた。短期の繋ぎではない。本格的な長期護衛契約だ。
「本人に確認を取る。トーマ、入ってくれ」
ヴァルトが廊下に声をかけた。トーマが入ってきた。鑑定工房からの帰路、局舎の前で待機していたのだろう。
「港区地下遺跡の調査が長期化する。護衛契約を延長したい。調査終了までの長期契約になるが、受けるか」
トーマは一瞬、目を伏せた。ほんの一瞬だった。私が見ていなければ気づかなかっただろう。
「……承知しました」
間があった。短い間だったが、即答ではなかった。
きっと、契約条件を頭の中で計算していたのだ。冒険者にとって長期契約は安定収入だが、その間は他の依頼を受けられない。銀牌の冒険者なら、もっと高額な依頼もあるだろう。護衛という地味な仕事に長期間拘束されるのは、デメリットかもしれない。
「条件面で何かあれば、調査局として相談に応じます」
私が言うと、トーマは首を振った。
「問題ありません。現場の継続性を重視するのは合理的です」
合理的。そうだ。合理的な判断だ。私が継続を望んだのも、彼が受諾したのも、どちらも業務上の合理性に基づいている。
ヴァルトが書類にトーマの名前を書き入れた。契約成立。
「明日から正式に長期契約だ。トーマ、よろしく頼む」
「はい」
私も頭を下げた。
「改めて、よろしくお願いします」
トーマは短く頷いた。
その表情は、いつもと同じだった。寡黙で、感情を見せない、プロの護衛の顔。
局舎を出た。
トーマが門の前にいた。今日は工房への往復だけだったから、勤務終了はいつもより早い。まだ日が残っていた。夕暮れ前の港が、低い日差しの中で輪郭を保っている。
「明日は地下に入ります。拓本の採取をしたいので、新区画まで行きます」
「承知しました」
いつもなら、ここで「お疲れさまでした」と言って別れる。だが今日はまだ明るかった。それに、ノルの工房で見た金属片のことが頭から離れない。
「少し、歩きながらいいですか」
「はい」
宿は港区の外れにある。同じ方角だった——かどうかは知らない。トーマがどこに住んでいるのか、聞いたことがなかった。
坂を下りながら、私は考えていたことを口に出した。
「ノルさんの金属片に、壁面と同じ回路パターンがあった。半年前に持ち込まれた遺物だそうです。闇市場経由だから出所は不明ですが」
「二例目、ですか」
「はい。孤立した現象じゃない。旧文明のどこかに、この回路パターンを使うシステムが存在していた」
トーマは黙って聞いていた。坂の傾斜に合わせて歩幅を私に合わせている。大柄な人が小柄な人の歩幅に合わせて歩くとき、不自然な遅さになるものだが、彼の歩き方にはそれがなかった。
「ノルさんは、第五の類型かもしれないと言っていました。旧文明の回路構造は四つの類型で分類されてきたけど、それは私たちが見つけた範囲の話で——」
また早口になりかけて、止めた。
「……すみません。仕事の話ばかりで」
「構いません」
短い返答。いつもの調子だ。
港区の外れに差しかかると、路地の向こうから子どもの笑い声が聞こえた。夕暮れ前の最後の遊び時間だろう。
ふと見ると、トーマの横顔が少し緩んでいた。口元だけ——ほんの微かに。
子どもの声が遠ざかると、元の表情に戻った。私はそれを見ていたことに気づいて、慌てて前を向いた。何を見ていたんだろう。護衛の表情を観察する理由がない。
道が二手に分かれた。私の宿は左。
「ここで。明日もよろしくお願いします」
「……はい。おやすみなさい」
おやすみなさい。初めて聞いた言葉だった。いつもは「承知しました」で終わる。長期契約になったから、少し距離が変わったのだろうか。
いや、単に勤務時間外だからだ。業務の挨拶と、それ以外の挨拶は違う。それだけのことだ。
宿に戻り、灯りをつけた。ノルの帳簿に描かれていた金属片の回路パターンを、記憶から描き起こす。私のスケッチと並べて比較する。
未分類パターンの二例目。別の場所で出土した遺物に、同じ設計思想の回路が存在する。鑑定士が「第五の類型」と言った。もしそうなら、旧文明の回路技術に関する理解そのものが書き換わる可能性がある。
長い旅になりそうだった。
ペンを置いて、窓を開けた。夜の港から潮の匂いが入ってくる。
おやすみなさい、と彼は言った。
それが妙に耳に残っていたが、理由は考えなかった。




