8.夢とアリスと使用人
「——アリス、アリス。あなたは私を恨むかしら。もっと男の子らしい名前が良かったかしら。だとしたら、ごめんね」
若い女の声が聞こえる。
透き通るように澄んでいて、温かい声だ。
何故か、無性に泣きたくなるくらい、遠く、遠く懐かしい響き。
「——でもね、アリス。勝手だけど私は素敵な名前だと思っているの」
顔は、見えない。
その後ろの光が眩しすぎるからだ。
「それに、この素敵な名前と、この綺麗な髪が、あなたを悪いものから守ってくれるのよ。——そういう『おまじない』なの」
そっと差し伸べられた手が、髪を優しく撫でた。
その細くしなやかな指の温もりは知っている。知っていた筈だ。
「アリス。星降る夜に産まれた私たちの愛しい子。私はあなたを、あなたたちを愛しているわ——心から愛してる」
穏やかな声が、少しだけ陰りを見せた。
「——ああ、神様。名もなき女神様。私が死んだ後も、どうかアリスとセラフィナに、人としてのささやかな幸せを……」
声が、光が、遠ざかっていく。
——行ってしまう。
彼は手を伸ばした。しかし、その指はすでに何をもつかむことはできない。
「待って——!」
唐突に視界が広がった。
白い天井。
右手の窓から差し込む白い陽の光が、朝の訪れを告げていた。
「?」
アリスはふと、自分の左手が天井に向かって突き出されていることに気づく。
不思議に思いながらも、その手を下ろし、半ば無意識に顔に触れたところで、今度は自分の頬が濡れていることに気づいた。
(夢……でも見てたのかな……?)
いつもの夢ではなさそうだ。
今まで、何十も、何百回も繰り返されてきた、あの時の夢——いや、悪夢。
でもあの夢なら、いつも目が覚めても鮮明に覚えているものだ。それにもう、今更涙もでない。
たった今見ていた筈の夢は、すでにどんなものだったか全く思い出せない。
なんだかひどく懐かしく、それでいてとても切ない夢だったような、曖昧な感覚が残っているだけだ。無理に思い出そうとしても、却って記憶が遠ざかっていく気さえする。
(まあ、いいや……どうせ夢だし)
思い出すことを早々に諦め、乱れた亜麻色の長い髪を、邪魔そうにかき上げた。
だが寝起きのその髪はおかしな癖がついていて、手を離すとまた顔に覆いかぶさった。
(うー、うざったい……)
アリスはもう一度髪をかき上げて、今度は右手でその毛束を掴んだまま、広い部屋の隅にある大きな鏡に目をやった。
「これ、思い切ってバッサリ切ったら……父さんも母さんも悲しむよな、きっと……」
——でも、なんでだっけ。まあ、今となっては聞きようもないけど。
小さくため息をつき、ベッド脇のサイドテーブルから群青色の紐を左手で摘まみ上げた。
その紐は、よく見ると群青の下地に、キラキラと控えめに瞬く砂のように小さな粒が無数に散りばめられていた。さながら、夜空に煌めく星屑のようだ。
アリスは梳かしもせず、その紐で亜麻色の髪を後頭部で無造作に結わいた。
(……にしても、いい歳して夢を見て泣くなんて)
あいつに見られたら、絶対からかわれるな。
アリスはひとり、罰が悪そうに眉を顰めた。
その時だ。
——コン、コン。
ドアをノックする音。
「!」
ベッドの上で半身を起こしたまま、思わず弾かれるようにドアに目を向ける。
「——旦那様。起きていらっしゃいますか」
続く、落ち着いた男の声。
「グレンディーノか……うん、起きてるよ」
予想と違って、少しだけ安堵する。
というか、そう言えばあいつだったら、ノックもしないで勝手に入ってくるかもな。
「入ってもよろしいですか?旦那様」
「あ。うん。……ちょっと待って」
アリスは慌てて頬をパジャマの袖で拭ってから、「いいよ」と答えた。
「では、失礼を」という言葉とともに、扉が開く。
入ってきたのは、上品な年配の男だ。七十近い高齢のはずだが、長身な上に背筋もシャンとしている。この家の使用人の長、グレンディーノ。父亡き今、若い当主の秘書はもちろん、社交的・政治的な側面の代理もこなす、執事でもある。
「朝食の用意ができていますよ、旦那様。その前に何かお持ちしますか?」
「ありがとう、いや、大丈夫」
使用人にそう答えてから、「フィナは?」とアリスは尋ねた。
「お嬢様はつい今しがた、王宮へ向かわれましたよ。今日は上官の方から、何かお話があるのだとか。七時までに出頭なのだそうです」
「ふうん」
だから今日は起こしに来なかったのか。
「旦那様も、今日は団長様から呼ばれているのではなかったでしたかな?」
「うん、そう。また新しい任務があるんだって。今回も遠征任務っぽい。おれは八時半に団長室だけどね」
「昨夜任務からお戻りになったばかりだと言うのに、相変わらずお忙しいですね……」
グレンディーノが主人を気遣うように僅かに眉を顰めると、アリスは肩を竦めて苦笑した。
「……まあ、ウチの騎士団は万年人手不足だからね」




