1.魔女と魔族と星の魔剣
「——うわぁぁああああっ!」
男の悲鳴が辺りに木霊した。
逢魔が時。地平線の果てに陽が沈み、刻一刻と夜の帳が大地を覆い始めた頃。
闇の者たちが蠢き始める時間だ。
そしてここは人の住む街からそう遠くない、小さな森の入り口付近。
“森”と言っても木々はまばらな上、季節柄、葉はほとんどが枯れ落ちているので、中からでも茜色から群青色へと移り変わっていく空が良く見える。
しかし彼らには、その美しい景観に見惚れている余裕などはなかった。
森の中には七人の男たちがいる。
七人のうち四人は同じ形状の鱗片鎧を身に着け、残りの三人はそれぞれ形の異なる革鎧を身に纏っていた。手には剣やら槍やら斧やら、思い思いの武器。
この場所から数キロの地点にある街の兵士たちと、その兵団に雇われた冒険者たちだ。
そして彼らの前にいるのは、異形の怪物。
「聞いてねえぞ!黒妖犬じゃねえのかよ!?」
「つ、強すぎる!」
それは一見すると二足歩行の巨大な猿のような姿だった。
猫背だが、体高は二メートル近い。
赤い目に、乱杭歯が並ぶ大きく裂けた口。異様に長い腕は直立していても指先が地面に付くほどだ。
怪物はその図体にしては考えられないような俊敏さと、猿のような外見にも拘らず猿なら——と言うより通常の生物ならありえないような、骨も間接も内臓も無視した異様な動きで、七人の戦士たちを翻弄していた。
不気味な緩急を付けながら男たちの間を跳ね回る怪物を、七人がかりでも捉えられない。いや、それどころか、今にも誰かがその太い剛腕や鉤爪の餌食になりそうだ。
「キシェェェェアアアアッ!!!」
「ぐわぁあっ!?」
背を向けていた筈の怪物が、何の予備動作もなくひとりの兵士に飛びかかった。
背を向けたままだ。背を向けたまま、当たり前のように肩の間接を百八十度回して襲い来る怪物に、その男は反応しきれず手にした槍を取り落として尻餅をついた。
倒れた男の上に、容赦なく怪物が覆いかぶさる。
怪物はそのままの姿勢で、今度は頭だけがぐるんと回転し、首が完全に捻じれた状態のまま裂けた口を開いて、黄色く汚れた乱杭歯をのぞかせた。
「ひ、ひぃぃぃっ!!」
悪臭とともに、白濁色の涎が男の顔にべっとりと滴り落ちる。
「し、死ぬ……たすけて……誰か」
男は喉の奥から辛うじてかすれた声を絞り出した。
しかし、周囲の兵士たちも冒険者たちも、震えるその身を動かすことすらできない。
「だ、誰か……!」
突然、パキャ……と乾いた音がすると、怪物の顔が見る見るうちに膨張し始めた。
瞬く間に従来の三倍以上に膨れ上がったそれは、有り得ないほどの大口をゆっくりと開いた。巨大な頭部のおよそ八割の面積を汚れた乱杭歯の並ぶ”口”が占めている。
男の上半身を一飲みできそうなサイズだ。
悪臭を放つその汚い牙が半狂乱の男の顔に迫る。
「う、うわあああああああああっ!!」
断末魔の悲鳴とともに、男の身体が嚙み砕かれ——たかに見えたまさにその時だった。
ザンッ——!!
一条の閃光が迸った。
縦に閃いたその光の線は、怪物の膨張した頭部から入り、真っすぐ股間まで突き抜けた。
ブシュウウウウウウウッ
光の筋からどす黒い液体が噴き出す。
「……っ!!」
尻餅をついたまま震えて声も出せなくなった男の顔に、黒いしぶきが容赦なく吹き付ける。
怪物は汚れた液体をぶちまけながら、やがて光の線に沿ってズリュ……という小さな音を立てて、左右に分かれた。
そしてそれぞれが、ゆっくりと地面に頽れる。
「だ、大丈夫かっ!!」
止まっていた時が動き出したかのように、六人の男たちが、黒い液体に塗れた兵士に駆け寄った。
「悪魔?……魔族が、こんなところに……」
不意に、背後から若い女の声がした。
「!?」
男たちが一斉に振り返ると、そこにはひとりの女。
茶色の長い髪をサイドテールにした美少女だ。
白く輝く部分板金鎧を纏い、その上から蒼色のマントを羽織っている。
右手には細剣。不思議なことに、その刀身は何故か強い光を放っていた。
「ま、まさか、あんたがやったのか……?」
革鎧の男が、両断された猿のような何かの肉塊を指し、恐る恐る少女に尋ねた。
「こんな時間に、闇の大地……それも森の中に足を踏み入れるなんて」
質問には答えず、少女は男たちを一瞥した。
無表情だが、その橄欖石のような美しい瞳から注がれる視線は心なしか冷たい。
「た、助かった……」
黒い液体に塗れた兵士が、やっとのことで呻くように言う。
彼はまだしばらくは動けないようだ。
だが、少女は表情を変えずに首を振った。
「いいえ。まだよ」
その言葉に反応したのだろうか。
唐突に、半分に分かれた肉塊が立ち上がった。
両断されたそれぞれの断面から、うぞうぞと何十本もの触手のようなものが伸び、お互いを繋ごうとしている。
「う、うわぁ…ぁぁ……」
地面に座り込んだままの兵士がガタガタと震え出した。
「最下種とは言え、さすがは魔族……丈夫ね」
その悍ましい光景に、しかし少女は眉一つ動かさない。
「……キシェェェェェエエアアアアッ!!!」
怪物は完全に体が接合する前に、奇声を発しながら少女に躍りかかった。
「せっかちね」
少女は動じた様子もなく、輝く細剣を無造作に振り抜いた。
一撃。
少なくとも男たちにはそう見えた。
「ギェエエエエエエエッ!!」
しかし悲鳴とともに、怪物はいつの間にか六つに分断されていた。
——それでも、少女は止まらない。右手のレイピアを鮮やかに振るう。
「……闇に還りなさい」
さらに閃光が奔る。——奔る、奔る。
光に切り刻まれ、瞬く間に怪物は細切れとなった。
「う、噓だろ……?何者だよ、あの嬢ちゃん……!」
戦闘訓練を積んだ大の男が、七人がかりで手も足も出なかった人外の怪物。
それが瞬く間に細断されていく一部始終を目の当たりにし、冒険者の一人が呆然とした表情で呟いた。
「怪我は……」
少女はやはり表情を変えぬまま、今度こそ完全に動かなくなった肉塊を一瞥してから、男たちを振り返り——
「!」
突然、不穏な気配を察したように身構えた。
昏い空の下で、ユラリ、と視界の端に映る不吉な影。猫背の巨大な猿のようなシルエットが、二つ。
「まだいたのね」
少女の手にした細剣の刀身が、再び不思議な光を纏い始める。
——だが。
「!!」
ユラリ。ユラリ……ユラリ。
黒い靄のようなものが、次々に生まれる。ひとつ、ふたつ、みっつ——
「か、勘弁してくれ……」
冒険者のひとりが、泣きそうな声で呻いた。
少女と七人の男たちの周囲に新たに出現した黒い靄。それは次第に猿のような形を形成していく。その数、四。先に現れた二体と合わせて——都合、六。
「終わった……」
全てを諦めたような声が、ひとりの兵士の口から漏れた。
だが、それですら終わりではなかった。
さらに追い打ちをかけるように、もう一つ。
猿よりもさらに巨大な体躯。上半身が異様に大きい筋骨隆々の人型。ただし首がない。代わりに腕が、三本。左胸のあたりから三本目の巨腕が生えている。
「——今度は魔神?しかもコイツ、最下種じゃない……!」
それまで無表情だった少女が微かに眉を顰めた。
少女と男たちの周りに出現した怪物たちが、またユラリと動く。
まるで獲物をいたぶるかのように、異様にゆっくりと。
包囲網が、徐々に縮んでいく。
「……もういやだぁぁぁぁああああっ!!」
座り込んだままの兵士が、耐え切れず悲鳴を上げた。
だが、次の瞬間——
ザンッ!ザザン——ザシュッ!!!
幾重もの閃光が閃いた。
「!?」
一瞬だった。
彼らを取り囲んでいた六体の猿型の怪物が、その全てが、一瞬で無数の肉塊と化した。
ボトボト、ビチャビチャと、嫌な音を立てて地面を汚していく。
「こ、今度は何だ……!?」
「た、助かった……のか?」
「お、おお……」
「ひ、ひぃぃぃぃ……」
「お、女……?」
男たちの戸惑う声が入り乱れる。
彼らの視線の先、宵の闇に包まれた森に新たに現れたのは、ふたりの若い女。
「——ひとりで先走り過ぎるな、アイリス」
片方の女が言った。背の高い女だ。長い黒髪に白色の金属光沢を放つ鎧。そして蒼いマント。
「アイリスー、大丈夫だった―?」
場違いにのんびりとした声で少女に呼び掛けたのは、見事なブロンドの髪の女。同じく白い鎧に蒼色のマントで身を包んでいる。
すでに黄昏の余韻も消え失せた闇の中で、男たちからは新たに現れた女たちの顔までは伺い知ることができない。だが、視界の端に蠢く黒い影が、音もなく女たちの背後に迫っているのは見えた。
首のない巨大な怪物。左胸から三本目の腕が生えた筋骨隆々の異形。
「じょ、嬢ちゃんたち、危ねえ!後ろだ!まだ一匹、でけえのがいるぞ!!」
冒険者の一人が叫んだ。
「心配ない」
だが、黒髪の長身の女は振り返りもせず、落ち着いた声で答えた。
「な、何を言って——」
女の言う通りだった。
女たちに忍び寄る首のない怪物は、しかし彼女たちに指一本触れること叶わず、やはり閃光の餌食となった。
唯一他の猿型と違ったのは、末路が『細切れ』ではなかったことだ。
真っ二つになった巨躯は、地面に倒れると同時に再生が始まっていた。
その再生速度は、猿型より圧倒的に速い。
だがほんの一瞬の後、その二つに分かれたそれぞれの半身に、突如として閃光が奔った。
それは昏い空を縦に割く二条の雷光だった。遅れて響く轟音は、まごうこと無き雷鳴。
落雷に撃たれた二つの肉片は、瞬く間に激しく燃え上がる。
「ギィヤァァァァアアアアアアアアアアアアア!!!!!」
灼熱の火炎の中で、二つに分かれたそれぞれの口から恐ろしい悲鳴を上げながら、怪物がのたうち回る。
しかし、それも僅かな時間だった。
やがて断末魔も途絶え、怪物の身体は炎の中でゆっくりと崩れ落ち……そしてついに動かなくなった。
赤々と燃え盛る業火の前に佇むのは、ひとりの小柄な女。
炎に照らされて判別しがたいが、長いその髪はどうやら銀色のようだ。
そして恐らくは他の女たちと同じ、白色の鎧に蒼いマント。
夜闇のヴェールに包まれた女の顔はやはり男たちには見えない。
——しかし、その二つの紅玉のような赤い瞳だけが、強い輝きを放っていた。
「ま、魔女……」
兵士の一人が呟いた。
「……隊長」
黒髪の女と金髪の女のもとへ、少女が向かう。
炎の中で黒炭と化した怪物の残骸を背に、赤い眼の女も彼女たちのところへ合流した。
「……最後の魔神種は最下種ではありませんでした。いくらこの辺りが奈落に近いとは言え、あのクラスの魔族が自然発生するなんて……」
少女が僅かに眉を顰めて言う。
「……闇が」
赤い眼の女が口を開いた。
——もっとも、いつの間にかその瞳はすでに赤くもなければ、強い輝きも鳴りを潜めていた。
今は宵の空のような、紫水晶のような、どこまでも深く澄んだ紫紺。
「闇が満ちようとしているわ」
「ああ」
黒髪の女が頷いた。
「ここ数年、闇は深まるばかりだ。瘴気も年々濃くなってきている」
「……そんなことよりー」
金髪の女が、また場違いにゆったりとした喋り方で少女に話しかけた。
「アイリス。怪我はなーい?」
「大丈夫です」
少女は表情を変えずに答えると、金髪の女は満面の笑みを浮かべた。
「そう、良かったー!それにしてもアイリス、今日も頑張ったわねー、偉いわー!」
「……いえ、結局私は最下種の獣魔を一体しか倒してないですから」
「そんなことないわよー、魔族は手ごわいのよー」
「……ありがとうございます」
「今月入隊したばかりなのに、アイリスは凄いわー!本当に優秀なのねーあなたも……それからあの子もねー」
そこでふと、少女の表情に変化があった。
少しだけ、ほんの少しだけ不機嫌そうに見えた。
「……あんな女々しいやつの、十倍は活躍して見ませますから」
それだけ言うと、少女は踵を返してその場を去っていく。
「あ、あらー?……私、余計なこと言ったかしら」
金髪の女が苦笑いを浮かべた。
「……お、俺ぁ、夢でも見てるのか……?」
女たちを遠巻きに見ながら、冒険者のひとりが呆けた顔で、呻くように呟いた。
「何なんだ、あの嬢ちゃんたちは……?どっちがバケモノか分かんねえじゃねえか……」
しかし、隣にいた兵士には心当たりがあるようだった。
「分からないのか?あの“光る剣”……」
ゴクリと喉を鳴らし、そして男は言葉を続けた。
月明かりの下に佇む女たちを、畏敬の念と、多少の畏怖を込めて見つめながら。
「あれが、星の騎士……この国の……いや、この大陸最強の怪物たち——〈星芒騎士団〉だ……」




