邂逅 〜陰キャ勇者ラクレス〜
あの石の如きパンの欠片を胃に収めてから、どれほどの時が経ったか。
もはや、クーネルにできることは大樹の根元に身を寄せ、ゆっくりと死を待つことだけだった。
空腹は満たされず、体力は回復せず、ただ絶望だけが深々と降り積もっていく。
(……ここまで、か。あぁ、しんどい)
クーネルは死の恐怖が薄かった。元より死のサイクルの外側にいたため、痛み以上苦痛を想像できないのである。
思考は妙にクリアになってきた。
追放の屈辱、初めての飢えと寒さ、そして泥パンの味。
走馬灯のように駆け巡る記憶はどれもこれも腹立たしいものばかりだ。
ガサガサッ。
その時、聞き覚えのある不快な音が、近くの茂みから聞こえた。
のそり、と現れたのは数日前に彼女を追い回した、あのゴブリンたちだった。
その手には粗末な棍棒が握られており、濁った目はもはや動くことすらできないクーネルを、完全に仕留め損なった獲物として捉えている。
「ギギ……見つけたぞ、ニンゲンのメス……」
「今度こそ、喰ってやる……ギヒヒ……」
(ここで一度死ぬか。いや、人間の体で死ぬとどうなるのじゃろうか?)
もはや、恐怖はなかった。
あるのは底なしの侮蔑と、諦観だけだ。
クーネルはうっすらと目を開け、ゆっくりと近づいてくるゴブリンたちを、ただぼんやりと見つめていた。
どうせなら、一思いにやれ。
そう、唇が動く前に――
ザシュッ!
「「「ギッ!?」」」
まるで空気を切り裂くような、鋭い音。
次の瞬間、先頭を歩いていたゴブリンの首が、綺麗に宙を舞った。
鮮血を噴き出しながら崩れ落ちる体を、残りの二匹が呆然と見つめる。
そのゴブリンたちの背後に、いつの間にか一人の男が立っていた。
年の頃は二十歳前後か。
少し癖のある、艶のない黒髪。
前髪が長すぎて、その表情はよく見えない。
服装は冒険者らしい黒を基調とした地味なもので、その背には一本の剣を背負っている。
全体的に、陰気で、どこか頼りない雰囲気を漂わせた青年だった。
「……なんだ、この暗い小僧は。冒険者か?」
クーネルが訝しんでいると、青年は何も言わず、残りのゴブリンたちへと歩み寄る。
ゴブリンたちは仲間を殺された怒りで我に返り、棍棒を振り上げて青年へと襲いかかった。
「ギシャアアア!」
しかし、青年は驚くほど冷静だった。
最小限の動きでゴブリンの棍棒をひらりとかわし、すれ違いざまに剣を一閃。
また一体、ゴブリンが血の海に沈む。
残るは一体。
最後のゴブリンは恐怖に顔を引きつらせ、背を向けて逃げ出そうとした。
だが、青年はそれを見逃さない。
無言のまま、流れるような動作で距離を詰め、その背中をあっさりと斬り伏せた。
ものの数秒の出来事だった。
三匹いたゴブリンは言葉を発することもなく、ただの肉塊へと変わっていた。
(……ほう。腕はまあまあ立つようじゃな)
クーネルはその手際を少しだけ見直した。
青年はゴブリンの死体に目もくれず、こちらへと歩いてくる。
(ふむ。どうせ妾から金品を奪うつもりじゃろう。あるいはこの体か? 人などに生まれ変わろうとて、このプリティーさだけは変わらなかった事が口惜しい。まあ、どちらにせよ、もはやどうにもならぬが……)
警戒する気力もなく、クーネルはされるがままに、その男が目の前に立つのを待った。
男はクーネルの数歩手前で足を止めると、ようやくその顔を上げた。
感情の読めない、静かで色の薄い瞳。目の下には不健康そうな薄いクマがある。
間違いなく、陰キャである。クーネルの鑑定眼がそう告げていた。
彼はクーネルと目が合うと、気まずそうにすぐに視線を逸らした。
そして、ボソボソと、蚊の鳴くような声で呟いた。
「……あ……その……大丈夫、か……?」
(……は? なんじゃ、この小僧は。第一声がそれか?)
あまりに予想外の言葉に、クーネルは思わず眉をひそめた。
もっとこう、「持っているものを全て出せ」とか、「見逃してほしければ……」とか、そういう分かりやすい脅し文句を想像していたというのに。
青年はクーネルが返事をしないのを、怪我が酷いせいだとでも思ったのだろう。
おどおどと数歩近づくと、自分の背負っていた荷物から、古びた毛布を取り出して、クーネルの肩にそっとかけた。
(…………)
温かい。
いや、毛布自体はゴワゴワで、決して上等なものではない。
だが、冷え切った体にはその僅かな温もりが、まるで極上の羽毛布団のように感じられた。
「……け、怪我……してるのか。血の匂いが……いや、これは……魔物の返り血か……」
青年はなおも独り言のようにぶつぶつと呟きながら、手早く近くで野営の準備を始める。
乾いた枝を集めて火をおこし、小ぶりな鍋に水を汲んで火にかける。
その一連の動作には先程の戦闘とは打って変わって、奇妙な手際の良さがあった。
(一体、何がしたいのじゃ、この小僧は)
クーネルは警戒心と、ほんの少しの好奇心がないまぜになった気持ちで、その様子を黙って見つめていた。
もしかして、回復させてから嬲り殺しにする手の込んだサディストか? それとも人助けという酔狂な趣味の持ち主か?
ぐうううううう。
腹の音が鳴る。
アドレナリンが去り、空腹の記憶がよみがえる。
「もう、なにも…、食うてないのじゃ…」
「…(こくこく)」
青年は激しく首を縦に振ると、懐から干し肉の塊と、乾燥したキノコのようなものを数種類取り出し、鍋へと放り込んだ。
最後に革袋から白い岩塩を少し削り入れると、あとは木のさじで静かに鍋をかき混ぜるだけ。
やがて鍋からふわりと湯気が立ち上り始めた。
それと同時に信じられないほど滋味深く、温かい香りがクーネルの鼻腔をくすぐった。
「……!」
ごくり、と。
意思とは無関係に、喉が鳴る。
腹の虫が、程の地鳴りのような音とは違う、期待に満ちた静かな音を立てた。
その香りは魔王城で食したどんな豪華な料理よりもクーネルの魂を根元から揺さぶるような、抗いがたい魅力を持っていた。
やがて青年は火から鍋を下ろすと、木製の器にそのスープを注ぎ、ふーふー、と息を吹きかけて少し冷ましてから、おずおずとクーネルの前に差し出した。
「……あの……食うか……? たいした……ものじゃないけど……」
目の前に差し出された、湯気の立つスープ。
琥珀色に澄んだ汁の中に、柔らかく煮込まれた干し肉と、ふっくらと戻ったキノコが浮かんでいる。
(……毒)
真っ先に、その単語が頭をよぎった。
見ず知らずの男から施しを受けるなど、ましてやその手料理を口にするなどありえない。
この青年がクーネルを毒殺しようとしている可能性は十分にある。
だが。
だが、しかし。
この香りはなんだ。
この、腹の底から湧き上がってくる、抗いがたい欲求は。
プライド? 警戒心?
そんなものはこの悪魔的なまでの芳香の前では風の前の塵に同じだった。
クーネルは意を決した。
毒なら毒でよい。どうせこのままでは死ぬのだ。ならば、この極上の香りの正体を確かめてからでも遅くはない。
震える手で器を受け取る。
その縁に口をつけ、ほんの一口、スープをすすった。
その瞬間。
「―――――っ!」
衝撃が全身を駆け巡った。
(な……なんじゃ……これは……!?)
ただの塩味の汁ではない。
干し肉から染み出た濃厚な旨味、数種類のキノコの持つ複雑で奥深い香り、そしてそれら全てを完璧にまとめ上げる、絶妙な塩加減。
その一口が、冷え切った心と体を、内側からじんわりと溶かしていく。
美味い。
美味い。
美味いのう……!
それは魔王城のどんな豪華な料理よりもクーネルの魂に深く、深く染み渡る味だった。
彼女は我を忘れた。
無我夢中で、器に口をつけ、スープを飲み干す。
一滴残らず飲み干し、はぁ、と息をつくと、空になった器をじっと見つめた。
すると、青年は何も言わずにその器を受け取り、再び鍋からスープを注いでくれた。
二杯目もあっという間に飲み干した。
三杯目。四杯目。
まるで、何百年も飲まず食わずだったかのように、クーネルは貪るようにスープを胃袋へと流し込み続けた。
鍋が空になる頃には彼女は言葉を失っていた。
何百年ぶりかに、他者から与えられた、純粋な(と彼女が感じた)温情に。
この名も知らぬ陰気な青年が作った、一杯のスープに。
クーネルは生まれて初めて、食い物で泣いた。