尊厳、地に堕ちる
ドッゴオオオオオオン!!!
背後で凄まじい破壊音と共に木々がなぎ倒される。
地響きが足元を揺らし、クーネルの貧弱な体はバランスを崩してよろめいた。
「ひいいいいいっ! 来るな! あっちへ行け、この豚猪がァ!」
情けない悲鳴を上げながら、泥だらけのドレスを引きずって森の中を駆ける。
彼女を追いかけているのは岩のような硬い皮膚を持つ巨大な猪の魔物――ロックボアだ。
空腹と寒さで弱り切っていた彼女の前に、運悪く現れたのである。
もちろん、今のクーネルにこいつをどうこうする力などあろうはずもなく、選択肢は「逃げる」の一択のみ!
(なぜじゃ! なぜ妾がこんな下等な魔物に追い回されねばならんのじゃ! 本来なら、一睨みでひれ伏させ、部位ごとに一番美味い調理法を吟味してやるというのに!)
しかし、現実とは非情なものである。
数日にわたる逃亡生活で、クーネルの体力はとっくに限界を超えていた。
空腹で目がくらみ、意識が朦朧とする。
雨に打たれ、ドレスはもはや元の色も形も分からないただの汚れた布切れだ。
「はぁ…、はぁ…、こっち来るでない…!」
もつれた足が何かにつまずき、彼女はぬかるんだ地面に顔から突っ込んだ。
茂みに隠れ、身をひそめる。
もう指一本動かす気力もない。
(こんなところで猪の餌食になるとは……なんという屈辱……)
諦めが、じわじわと心を支配していく。
ころん。
泥だらけの視界の端に、何かが転がっているのが見えた。
それは誰かが落としたのであろう、泥に汚れた硬そうなパンの欠片だった。
(…………)
じっと、それを見つめる。
道端に落ちた、虫ケラが食うような、汚れたパン。
内心の女王としてのプライドが、けたたましく叫び声を上げた。
(馬鹿な! この妾が、地の底の虫ケラが食うようなものを……! ありえん! 断じてありえん! 金輪際ありえんのじゃ!)
そうだ、その通りだ。
たとえ飢え死にしようともこのような屈辱を受けるわけにはいかない。
それが女王たるクーネルの、最後の矜持。
ぐぅぅぅぅぅぅぅぅ~~~~~~……。
「…………ッ」
しかし、腹の虫はそんなプライドなどお構いなしに、正直すぎる自己主張を奏でる。
それはまるで女王のプライドを裏切るかのような、盛大なファンファーレだった。
(……腹が……減った……)
内心の、本能の声がぽつりと呟く。
その瞬間、女王のプライドという名のダムに決定的な亀裂が入った。
ぐうううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう!!!
もはやそれは腹の虫の音ではなかった。
地鳴りだ。
己の体から発せられたとは思えぬ、天変地異の如き轟音。
「~~~~~~~~~~~~~~~~ッ!!」
カァァァッ、と。
顔から火が出る、とはまさにこのことか。
クーネルは生まれて初めて「赤面する」という生理現象を体験した。
周囲を見渡す。
誰もいない。
ロックボアもどこかへ行ったらしい。
誰も見ていない。誰も聞いていない。
……よし。
クーネルは意を決した。
震える手を、ゆっくりと、その泥まみれのパンへと伸ばす。
指先が触れたパンは石のように硬く、そして氷のように冷たい。
それを、拾い上げる。
そして、涙をぼろぼろと流しながら、獣のように、そのパンにかじりついた。
ガリッ!
「……っ!?」
歯が折れるかと思った。
口の中に、泥の味と、なんの風味もない小麦の残骸が広がる。
「……まずい……!」
まずい。
まずすぎる。
こんなもの、魔王城の厨房の排水溝に流れているヘドロの方がまだマシかもしれん!
かつての豪華なものを食って寝るだけの日々とは程遠い。
「まずいのう……! じゃが……!」
なのに、なぜか、咀嚼が止まらない。
顎が砕けんばかりに、必死に硬いパンを噛み砕く。
涙と鼻水と泥でぐちゃぐちゃになりながら、ただひたすらに、それを胃袋へと流し込む。
「うっ……くっ……! おのれガロウ……ゼノン……メディア……! この屈辱……利子を付けて返してくれるわ……!」
それは元四天王『黄金のクーネル』の、生まれて初めての完全な敗北の味だった。