紫雲女子大学消費者センターとは?
「お手柄でしたね。楠瀬センセー!」
7階の狭霧法務戦略事務所に報告に戻ったとき、まどかが笑顔で迎えてくれた。
一直線に駆け寄ってきたので、一瞬、まどかにハグされるのかと思った。だが、まどかは楠瀬の前で黄色い声を挙げてピョンピョン跳ねるだけ。
「あの村正先生をコテンパンにやっつけちゃいましたもんね」
「コテンパンってほどではないけど……」
「詠先生、楠瀬先生の今回の交渉、点数は何点ですか?」
まどかの問いかけに詠が自席から憮然とした顔を向けてきた。
「100点満点中10点だ!」
「えーっ。厳しいですね」
まどかが残念そうな顔で自席に戻る。
「まるで八百長だ! あんな交渉をクライアントに見せたらクレームが入るぞ!」
詠のきつい一言とともに詠の机から白い影が猛然と飛び出る。
「うわっ!」
ダイフクだ。ダイフクが楠瀬の顔面に犬パンチを食らわせるべく飛びかかってきたのだ!
楠瀬は咄嗟に飛び退いた。
攻撃をかわされたダイフクはそれでも諦めずに後ろ足を繰り出した。
ペシッ! と足を蹴けられた。
痛くはないけど、後ろ足で砂をかけるような動作をしてもとの場所に戻るダイフクに拒絶されたようで、心が痛い。
「や、八百長って……。弁護士同士の話し合いだから、冷静に話し合っただけなんですが……」
「完膚なきまでに叩き潰せと言ったはずだ!」
「戦争でもあるまいし、そこまで追い詰めなくてもよいのでは?」
「無修正AVの話だって、まともな弁護士なら、撮影された経緯について徹底的に追及してきたはずだ。AVに仕事として出演したなら、そもそも、不貞行為ではない。荒河未唯だって知っていたのではないかという話になっていた」
「しかし、狭霧先生のシナリオにはそのような展開は書かれていませんでしたが……」
楠瀬は手元のタブレットに目を落とす。
タブレットには、ドラマの脚本のような文章が表示されていた。相手の弁護士のセリフとそれに対して、楠瀬が発言すべきセリフが書かれていたのだ。
先程の村正とのやり取りは、すべてこの脚本どおりに展開した。
詠がこういう流れになるだろうとあらかじめ予測していたのはすごいことだと思う。
「ああ、そうだ。あの村正とかいうヘタレ弁護士が出てくると知っていたからな。あの男の性格からしてあの程度でも引き下がると予測できた」
「む、村正の性格を知っていたんですか?」
村正の性格まで予測してシナリオを考えるとか、一体、どうやってそんなことを知ったのだろうか? もしかして、詠は村正の知り合いなのだろうか?
すると詠が立ち上がって、楠瀬の前に近づいてきた。
「孫子の兵法にこうある。凡そ軍の撃たんと欲する所、城の攻めんと欲する所、人の殺さんと欲する所は、必ず先ず其の守将・左右・謁者・門者・舎人の姓名を知り、吾が間をして必ず索めてこれを知らしむ。とな。敵のことはスパイを使って事前に調査しておくのが常識だ」
腕を組み、楠瀬を見上げながらそう言う様は、まるで女子中学生が本で得たばかりの知識をドヤ顔で披露しているかのようだ。
「村正のことも調べたんですか? スパイを使って?」
「スパイは、私でーす」
まどかが元気よく手を上げた。
「えっ? 成海さんがスパイ?」
楠瀬が目を丸くすると、まどかが楽しそうに言葉を続ける。
「村正先生は、私の大学の顧問弁護士さんなんですよ」
まどかはやっぱり、現役女子大生だったのか。この事務所にはアルバイトとしてきているということだろう。いや、それより──。
「村正が成海さんの大学の顧問弁護士? どこの大学ですか?」
大学の顧問弁護士なんて、あの村正に務まるのか? そっちの方が驚きだった。
「紫雲女子大学って知っていますよね」
紫雲女子大学──。約100年前に創設された名門女子大だ。創設当時は華族や名家のお嬢様たちが通っていたことから、いわゆるお嬢様大学のイメージが残っている。現在でも、華やかな業界への就職実績も多くあり、入学試験の倍率もかなり高い。一流の女子大学だし、女子大としては珍しい法学部があることでも知られている。
言われてみれば、ポニーテールに束ねたブラウン色のウェーブヘアを揺らしながら微笑むまどかは、なんとなくお嬢様という雰囲気がある。
「あの名門大学の顧問弁護士ですか……」
ますます理解不能だ。
「紫雲女子大学には消費者センターがあるんです。自治体の消費生活センターとは違いますよ。あくまでも学生のサークルなんですけど、学生さんとかが消費者トラブルに巻き込まれたときとかに、その消費者センターの学生が相談に乗ってあげているんです。その活動の顧問弁護士さんを務めているのが、あの村正先生なんです」
「学生サークルである消費者センターの顧問弁護士ですか──」
それなら、村正でも務まりそうだが、女子大生の顧問があの村正というのはちょっと大丈夫だろうか……と楠瀬は心配してしまうのだった。
「去年までは、和泉陽花先生という、うちの大学のOGのものすごく頼りになる女性弁護士だったんですけど、村正先生は評判が良くないみたいですよ。センターの部屋を覗くといつも寝ていますしね。センターの活動に参加している私の友達も『皆様お困りですの──』って言っていましたもん」
「寝ているんですか……」
村正らしいなと楠瀬は思わず苦笑する。司法修習の時も村正は、法廷で居眠りしていて教官に頭を小突かれていたものだ。
「そういう情報をもとに村正の性格を分析し、発言内容を予測した。私のシナリオ通りになるのは当然だ」
詠が自慢げな顔で胸を張る。その胸は、見た目同様に薄いようだ。
「……よく分かりました」
「言っておくがな。お前のことも、村正と同程度に調べ上げているんだからな」
「えっ? 俺のことも成海さんがスパイしているんですか?」
「私じゃないでーす」
まどかがまたも元気よく答える。
「私に情報を提供するスパイは、まどかだけじゃない。私の人脈を甘く見るなよ」
楠瀬を見上げる詠の目に怪しい光が宿っている。
……知らぬ間に俺の情報を詠に提供している人物がどこかにいるということか。
楠瀬は思わず身を震わせた。