弁護士村正悠也の主張
101号室は会議室として使われている部屋らしい。
会議用のテーブルとプレゼンテーション用の大型モニターが一つ置かれていた。
その大きすぎるテーブルの隅っこで楠瀬は村正と対峙した。
「弁護士同士の話し合いだし、さっさと済ませちゃいますか。先輩?」
村正は軽い調子でそう言うとタブレットを取り出した。
だが、楠瀬は真剣さを保ったまま村正を見やる。
後輩相手だからといって甘い顔はできない。
それどころか、これから、この後輩を打ち負かさなければならないのだ。
「まず、事案の確認と争点の整理だ」
「ういーす。俺の依頼人は、荒河達明、27歳、タツミプロと言う名前のモデル事務所の社長っす。その奥さんが先輩側の依頼人の荒河未唯、27歳ですよね」
「そうだ。二人は学生時代から付き合っていて結婚したらしいな」
「たーくん、みーちゃんと呼び合うほど、ラブラブだったそうっすね」
荒河達明と未唯夫妻は、大学時代に知り合ったという。
当時の未唯は、モデルをやっていたがそれほど有名ではなかった。伸び悩んでいたところを達明が「俺ならみーちゃんをもっと有名にしてやれる」と専属マネージャーとなることを買って出た。
その言葉通り、達明は学生ながら、類まれなマネジメント能力を発揮して、未唯をかなり有名なモデルに押し上げたという。
二人は公私ともに支え合う関係になり、大学を卒業した直後に結婚。さらに、モデル事務所タツミプロを法人化して、現在に至る。
「ところが、今になって、荒河未唯から突然、離婚を迫られたと言うんですよ。しかも、モデル事務所の取締役社長も解任されたってことらしいっす」
タツミプロは株式会社で、取締役は荒河達明の1人である。ただし、株主は荒河未唯1人という組織になっている。
株主が1人ということは、会社の重要事項、特に取締役の選任解任は、その株主の独断で自由に行える。中小企業ではよくある体制だ。
「ひどい女っすよね。モデルとして自分を売り出してくれた功労者を捨てたってことじゃないっすか」
「どうだろうな……」
村正の言い分だけだと、自分が有名になったところで用済みになった夫兼マネージャーを捨てたひどい女という捉え方もできる。
その後は、お金持ちの男か、有名芸能人をゲットして玉の輿を狙うというところだろうか。
だが──、楠瀬のタブレットには、別の裏事情が記載されていた。
これをいつ出すかだ。
「それで、荒河達明は何を求めているんだ? 離婚を拒否しているのか?」
「離婚は受け入れると言っているっす。ただ、条件としてタツミプロの株式を要求しているんっす。他の財産はいらないから株式だけはよこせということっすね」
離婚する際は、夫婦の共同財産を財産分与することになっている。財産分与の割合は原則として半分ずつだ。
ところで、荒河夫妻は財産の大半を会社名義にしており、他にめぼしい財産はない。
そのため、財産分与となると株式を分割するしかないということだ。
タツミプロの登記情報によると荒河未唯が有する株式は100株だ。
「荒河達明が要求している株式数は?」
「100株全部っす。そもそも、みーちゃんを有名にしたのは俺だし、稼げているのは俺のおかげだと主張しているっす。それなのに取締役を解任とか、株主の権利の濫用っすよね」
「そうは言っても、財産分与は半分が原則だぞ。株式を分けるにしても50株が基本だな」
「先輩。それはまずいっすよ。株式を半分に分けたら、会社の経営ができなくなるっす」
村正の言う通りだ。
会社法309条1項により、「株主総会の決議は、定款に別段の定めがある場合を除き、議決権を行使することができる株主の議決権の過半数を有する株主が出席し、出席した当該株主の議決権の過半数をもって行う。」のが原則とされている。
株式を半分に分けた場合、議決権も半分になってしまうから、過半数の要件を満たすには、荒河夫妻双方が出席し、しかも賛成しなければならない。
離婚した荒河夫妻が、株式を半分ずつ持ったとして、今後、株主総会の決議で一致協力するとは考えにくい。
事あるごとに双方が足を引っ張り合う事態が予想され、会社経営が成り立たなくなるだろう。
「すると、株式は荒河夫妻のどちらか一方が全部持つべきだということになるな。仮に、荒河未唯が荒河達明に株式を全部譲渡するとしたら、金銭的な補償が必要になる。荒河達明はそれだけの個人的な資産を持っているというのか?」
楠瀬の問いかけに、村正は、待ってましたとばかりにニヤリとする。
弁護士が決め手となる一言を放つ瞬間だ。
「荒河達明は荒河未唯から突然離婚を切り出されたことにより、精神的苦痛を被ったんっす。しかも、取締役も正当な理由なく解任されたわけだから、会社法の規定により損害賠償を求めるっす。つまり、荒河達明は荒河未唯に対して、慰謝料と損害賠償金の支払いを求めているんっす」
会社法の規定とは、会社法339条の規定のことだ。
取締役などの役員は、いつでも、株主総会の決議によって解任することができる。株主が1人なら、株主の一存で自由に解任できるわけだ。ただ、解任について正当な理由がある場合を除き、解任された役員は株式会社に対し、解任によって生じた損害の賠償を請求することができるとされているのだ。
村正の主張は筋が通っていると言える。
「……それで?」
「荒河達明の慰謝料請求権、損害賠償請求権と荒河未唯の株式と引換えの金銭的補償を求める債権を相殺すればいいってことっす。荒河達明はそれで納得すると言っているんっす」
つまり、荒河未唯が株式を渡してくれれば、慰謝料は支払わなくてよいということだ。
「なるほどな──」
予想通りの展開だ。楠瀬は手元のタブレットに目を落とす。
楠瀬の、と言うより、詠の描いたシナリオ通りに展開しているという意味である。
詠に手渡された資料には、相手方弁護士がこのような主張をしてくるだろうという予測が細かく書かれており、事実、その予測通りに村正が喋っているのだ。
──次はお前が反撃する番だ。完膚なきまでに叩き潰せ。
イヤホンから響く詠の声に、楠瀬は軽くため息を漏らした。