楠瀬の同期 予備試験組の俊才? 村正悠也弁護士
1階のエレベーターホールに出ると、楠瀬よりわずかに背が低い若い男が案内板を見つめていた。一応、紺のスーツ姿であるが、よれが目立つ上、様になっていない。整えれば爽やかに見えるはずの黒髪には寝癖がついており、寝坊して慌てて出社してきた成績ゼロの営業社員という感じだ。
少し、いやらしい感じのする目をしているがなかなかの整った顔立ち──。
「……あれ……? お前もしかして……?」
楠瀬が声をかけるとその男が振り返った。
男のスーツの左襟には、やたらと金色に輝くバッジがある。そう、俺と同じ弁護士バッジだ。
男は案内板を見上げて少し驚いていたようだ。
驚くのも無理はない。こんなに立派なビルなのにテナントは、7階のSAGIRI LEGAL STRATEGY ROOM(狭霧法務戦略事務所)しかないのだ。
「先輩! こんなかっこいいビルに事務所を構えたんですか! すごいっすね!」
「えっ?」
この男は何を言っているのかと、楠瀬も案内板に目を向ける。もしや……と思ったら、予想通りだった。
いつの間にか、6階の601号室に楠瀬法律事務所のプレートが既に埋め込まれていた。
いや──、そんなことよりもこの男──。
「村正じゃないか──」
「ひさしぶりっす──」
村正悠也24歳、弁護士。俺と同じ京葉大学法学部法律学科の出身。ただし、村正は大学4年次に予備試験に合格し、大学を卒業した年に司法試験に合格した。いわゆる予備試験組の俊才だ。
村正と時を同じくして、俺も5審ギリギリセーフで合格した。京葉大学の法科大学院を修了した後で4回も司法試験に落ちたのだ。
だから、俺は村正の先輩でありながら、司法試験合格の年度と司法修習が同期なのだ。
そして、村正は、俺が法律事務所への就職を諦める動機になった男でもある──。
「村正、このビルに何か用事があるのか?」
もしかして、村正のやつ、入所したばかりの法律事務所がクビになって、再就職活動をしているのかと思った。この男なら十分有り得る話なのだ。
「仕事っす。俺のクライアントから離婚の相談を受けたんっすよ。奥さんから離婚を迫られていて、困ってるんで助けてくれって言われたんですよね。それで、奥さん側の代理人になっているのが狭霧法務戦略事務所という行政書士の事務所だと言うんですよ」
村正が案内板の7階のプレートを指差す。
「えっ? そうなのか?」
「そもそも、離婚の交渉に行政書士が出てくるって非弁行為じゃないっすか。だから、かるーく叩き潰してやろうと思ってるんっすよ──。なんか、うちの女ボスから相手は只者じゃないから気をつけろ──とか言われたけど、そんなわけないっすよね」
──楠瀬。
と、その時、楠瀬が装着したイヤホンから詠の声が聞こえてきた。
──そいつが、お前の後輩であることは知っている。だが、情けをかけるな。徹底的に叩き潰せ。601号室をタダで使わせてやっていることを忘れるなよ。お前の動き次第では10万円以上の賃料が発生するからな。
「……り、了解」
俺は賃料を餌に詠の意のままに動く操り人形に仕立てられたということか……。
深い溜息を漏らすと、楠瀬は村正に真剣な目を向ける。
「む、村正──」
「怖い顔してどうしたんっすか? 先輩?」
「お前の言う案件だが──、狭霧法務戦略事務所から俺が引き継いだ。お前の交渉の相手は俺だ──」
「へっ? そうなんっすか?」
「だから、非弁行為で茶化すことはできない。これは対等な交渉だ──」
──対等ではない。戦う前から、こっちが勝っている。理解しているのか?
詠の声に、楠瀬は軽く了解と答えた。