弁護士事務所の要件
601号室に戻った楠瀬はまたしても驚愕した。
「えっ? なにこれ……」
AI詠の面接を受けた時は、601号室には、椅子と大型モニターしかなかった。
ところが、今、601号室に入るとがらりと様変わりしていたのだ。
執務用の机と椅子のセット、応接用のセットそれに本棚がおかれていた。机にはパソコンが置かれていたし、本棚に目を向けると最低限の法律書や六法が並べられていたのだ。
そう──。弁護士一人の小さな法律事務所という感じだった。
「ヤバい……! 部屋を間違えたかな?」
勝手に他人の法律事務所に入るのは、不法侵入になる。しかも弁護士の事務所なら、あらゆる理由を持ち出されて、示談金を請求されないとも限らない。
楠瀬は慌てて、廊下に戻るとエレベーターホールに目を向けて階を確認する。
「6階……。合ってる」
改めて部屋番号を確認すると、601号室。間違いない。
「は?」
部屋番号の隣に、なんと、看板も取り付けられていた。
──楠瀬法律事務所。
「お、俺の事務所?」
楠瀬が7階に行った隙に、誰かが601号室にこれだけのオフィス用品を運び込んでレイアウトを整えていたということなのか?
そもそも、ここリトルフォートビルに入った時から、人の気配がまるでないのだ。こんなことを一瞬でやるには、たくさんの人手が必要なはずだが、そんな人がいる様子がない。
楠瀬が唖然としていると、またどこかから詠の声が聞こえてきた。
「何うろちょろしているんだ! 相手の弁護士が来るのは10分後だ。さっさと準備しろ!」
「す、すいません、狭霧先生。質問よろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「この事務所、私が使っていいんですか?」
「さっき言っただろ。601号室にお前の事務所をタダで置くことを特別に許してやるとな。弁護士会への事務所移転の届出は私が出しておいたから安心しろ」
「い、いつの間に……?」
「先の先を見据えて先手を打つのが私のやり方だ。覚えとけ」
先の先を見据えて先手を打つにしても、先走りすぎだろ……。事務所移転の届出まで勝手に出されているとか……。
しかし──、本当にこんな立派な事務所をただで使わせてもらえるのなら、これほどありがたいことはない。
何しろ、楠瀬が今まで弁護士事務所をおいていた場所は、実質的に個室のないコワーキングスペースだった。
即独弁護士の大半は、個人事業主やフリーランスと同じだから、事務所は最低限の備えがあればよい。
ただ、弁護士は、弁護士法20条により、所属弁護士会の地域内に事務所を設けることが義務付けられている。だから、バーチャルオフィスは認められていない。
さらに、弁護士法23条で守秘義務が課せられているから、相談者と相談する際に、第三者に相談内容が漏れないスペースが求められている。
つまり、個室が必要と解されているのだ。
コワーキングスペースは、ワークスペースを共有するのが一般的で、個室はないことがほとんどだ。
そのため、コワーキングスペースに弁護士事務所を置くことはできないという解釈が一般的で、最低でも個室が用意されるレンタルオフィスでなければならないと解されている。
楠瀬が今まで事務所をおいていた場所は、コワーキングスペースでも、格安のオプションで個室が持てるプランがあったので、ぎりぎりで事務所として認められていたのだ。
それとて、弁護士会のお偉い方が厳密にチェックすれば、
「事務所の要件を満たしていない!」
と指摘されてしまう恐れがあり、楠瀬はいつも冷や冷やしていたのだ。
この事務所を使わせてもらうには、行政書士狭霧詠の命令通りに動かなければならないということか……。
でもちょっと待て……。すると、詠がここ、リトルフォートビルのオーナーということなのか?
あの女子中学生にしか見えない詠が?
1階に降りるべくエレベーターに乗ったところで、楠瀬はそのことに思い至った。