弁護士 楠瀬涼の空白が多すぎる履歴書
ダイフクという名前らしい秋田犬が部屋の外に出ていくので、楠瀬はその後に付いていくことにした。
ダイフクがエレベーターの前に来ると扉が自動で開いた。
ダイフクが中に入ったので、楠瀬も慌てて後に続く。
扉が自動で閉まるとダイフクがお座りして楠瀬を見上げてくる。
「ダイフク、君はどういう子なのかな?」
楠瀬が身を屈めてダイフクの頭に触れようとしたときだ。例の若い女性の声が響く。
「ダイフクに触るな! お前の上司だぞ!」
「じ、上司……?」
その刹那、ダイフクが跳躍した。ダイフクの前足が楠瀬の顎にゴツンと炸裂!
「い、痛っ!」
「仕事をサボったら、ダイフクのパンチ、もしくはキックが炸裂する。覚えとけ」
仕事をサボったらって……、俺は採用されたということなのか? それにしても犬が上司とは一体どんな事務所なのか……。
楠瀬が顔をしかめて顎をさするのを、ダイフクは尻尾を振りながら楽しそうな顔で見上げてくる。
苦笑いするしかなかった。
エレベーターは7階で止まった。
ドアが開くと視界が開けた。このフロアは廊下と部屋の仕切りがないらしい。
ワンフロアすべてを「SAGIRI LEGAL STRATEGY ROOM(狭霧法務戦略事務所)」が使っているということか。
中央に通路があり、その左右には、書棚が横一列にずらりと並んでいる。まるで、図書館か書店のようだ。
ダイフクが中央の通路をまっすぐに進んだので、その後に続いた。
左右を見渡すとどの書棚にも法律書や判例集、先例集がびっしりと詰まっている。
楠瀬はその重厚さに圧倒された。
狭霧法務戦略事務所は、狭霧詠という名の業務歴10年になるベテランの行政書士が経営しているらしいが、大型法律事務所でもこれだけの蔵書を有している事務所はそうないだろう。
書棚が途切れると、空間が広がった。
「ほ、法廷?」
と楠瀬は思わず口にしていた。
机が左側と右側に一つずつあり、奥は裁判官席のように一段高くなっている。
楠瀬が今立っているのは、法廷で言えば、証言台に相当する位置だ。
ダイフクは裁判官席の方に一目散に駆けていき、机の裏側に姿を消した。
女の子がその席に座っていた。
先程、モニターで見たAI詠を実写化したら、こうなるだろうという感じの中学生らしい女の子だ。女の子は楠瀬には目もくれず、机においた何かを見つめている。
「ごきげんよう!」
不意に、左側の席、刑事裁判なら検察が座る位置から声がかかった。
ハッとして目を向けると、そこにもかなり若い女性がいる。
明るめのブラウン色でセミロングのウェーブヘア。その髪をポニーテールに束ねて大人っぽさを出そうとしているらしいが、そこはかとない幼さは隠しきれていない。
輪郭はややシャープであるが、子供らしさの残る大きく愛らしい目にほんのりピンクの唇からして、現役のアイドルという感じもする。
すくっと立ち上がったその女性はパステルカラーのブラウスにプリーツスカートにピンクのニットカーディガン姿。身長は158センチほどで平均的だった。
「お待ちしていました。弁護士の楠瀬先生ですね。私、狭霧法務戦略事務所の補助者を務めています、成海まどかと申します。よろしくお願いします」
「初めまして。弁護士の楠瀬涼と申します」
そう。俺は、弁護士なのだ──。
とは言え、現状では、弁護士をやっていると胸を張って言える状況ではない。
昨年の冬に司法修習を終える間際になっても、所属する事務所が決まらなかった。司法試験に5回目でギリギリ合格したというどん底の成績からして、大手の法律事務所に入れるとは思っていない。最初から小さな事務所を狙って、採用面接に挑んだものの、どこの事務所も募集しているのは1名程度。そこに複数の応募者が集まるわけだから、成績が下位だと必然的に落とされる。
今度こそ、絶対に決めてやると覚悟を決めて、万全の体制で臨んだはずの天羽法律事務所の採用面接でも落とされてから、心を折られて、既存の法律事務所に就職することを諦めた。
残された道は、司法修習終了後に即独立する弁護士──即独。
弁護士になる前に、行政書士や司法書士をやっていた者であれば、即独でも成功する確率がかなり高いが、楠瀬は30歳になるまで、法律事務所はおろか、行政書士や司法書士の事務所で働いた経験もなかった。
それどころか、履歴書に書くことができる職歴はない。大学を出て、更に法科大学院を出てから、5年にわたり、司法浪人として過ごした。
そんな経歴で、即独するなどというのは、銃弾が飛び交う戦場に素人が訓練も受けずに飛び込むようなもの。
しかも弁護士は登録しているだけで、年間60万円から100万円といった固定費がかかる。弁護士会への入会時に登録料や入会金等で約10万円支払い、月々の会費が約6万円かかるのだ。仕事にありつけないと、銀行預金が凄まじい勢いで削られていく。
まともな仕事にありつけず、にっちもさっちも行かなくなった時に、ネットで見つけたのが、狭霧法務戦略事務所という名の行政書士事務所が弁護士を募集しているという求人だった。
「そうそう。履歴書をお預かりしていませんでしたね」
「あっ、履歴書ですね……」
今日、持参した履歴書も職歴欄はほぼ空欄。
これを女子大生アルバイトもしくは新卒と思われるまどかに渡さなければならないのかと思うと恥ずかしい。どうか、ジロジロ見ないでほしい……。でも、渡さなければ始まらない。
「……よろしくお願いします」
楠瀬は意を決して、スカスカの履歴書をまどかに渡した。