離婚問題の後始末
「私が想定したシナリオのうち、一番可能性の低いシナリオだった」
詠はそう言いながら舌打ちした。
「あの展開も予想していたんですか?」
達明と未唯が仲直りして帰った後で、楠瀬は狭霧法務戦略事務所に戻り、詠に形だけの報告をしたのだ。
タブレットに書かれていたシナリオとは違う形で話が収まってしまったので、詠が気を悪くしているのではないかと思ったが、意外にも冷静だった。
「当然だろ。私はあらゆる展開を想定して準備している。あの場で二人が仲直りするパターンも想定していたから、最後に流したあのアニメーションを用意していた」
「……そうだったんですね。えっ。すると、未唯さんが妊娠していたことも知っていたんですか?」
「当たり前だ。仕事を受ける時は、クライアントのあらゆる情報を収集する。クライアントの会社の業績だけではない。キーパーソンとなる人物の情報も集める。経済状況、健康状態、家族構成、社会関係も含めてだ。そのうえで、総合的に判断し、最善の策を提案するのが私のやり方だ」
詠が自席から、自慢げな顔を向けてくる。
「そ……、それはすごいですね……」
しかし、そこまでやるか?
「だからこそ、私の描いた戦略通りに動けば、裁判というコスパ、タイパ最悪の状態にはならない」
「裁判がコスパ、タイパ最悪……ですか」
それは何となく分かる。裁判になれば、訴訟の準備のために費用と時間を取られてしまうし、数カ月、事案によっては数年単位で裁判を続けなければならないこともある。
裁判になる前に丸く収めてしまえば、そのための費用も時間も必要ない。コスパ、タイパともに最良なのだ。
裁判を回避するための法務を『予防法務』と言うが、さしずめ、詠は予防法務の天才というところだろうか──。
「そして、裁判にならないから、弁護士が必要ない──ということだ」
「はあ……」
弁護士が必要ないとか言いながら、俺のことをこき使ってるのはどうなるんですか……。
「あの展開になった以上、最後までやらないといけない。さもないと、この案件はハッピーエンドにならない。次の仕事だ」
詠がそう言いながら、楠瀬に新しいタブレットを渡してきた。
新しい仕事は単純明快だ。
「……これ、弁護士の仕事ではないですよね?」
「そうだ。だが、お前のスキルならやれるよな。前にも言ったが、私はお前のことを調べ尽くしている」
「つまり、俺のもう一つのスキルを使えと……」
「あの展開になったのはお前の責任でもあるからな。最後までやり遂げろ」
正直、気が進まない仕事だ。
しかし、仕上げにこれをやっておかないとあの二人が幸せになれないことも分かる。
仕方がない。
「……承知しました」
※
かなり古い5階建てビルだ。見た目だけでなく、ビルの内部も古い。エレベーターはなく、階段だけ。階段のタイルも所々剥落している。
おまけに夕暮れ時だし、天井の薄汚れた蛍光灯がチカチカしているので、古いビルが一層、陰気な感じに見えてしまう。
目的の事務所の扉は鋼鉄製でのぞき穴がついている。防弾を意識したかのような外観から、暴力団事務所が入っていそうな感じもする。
その扉の前に立った楠瀬はマスクをつけて、伊達メガネを掛けていた。
そして、恐る恐る、グローブを嵌めた手で扉をノックする。ゴン、ゴンとまるで鐘を鳴らしたような音が廊下に響いた。
すぐに応答があった。
「誰だ?」
「荒河達明の代理人です。例のお金をお持ちしました」
「荒河達明本人は?」
「本人は怯えておりまして……。どうしても行けないというので、私が代わりに参りました」
軽い舌打ちの声が聞こえた。
しばらくして、開錠されて、扉が開いた。
如何にも裏社会の人間という感じの黒尽くめのゴツい巨漢が顔を出した。巨漢は、周りを見渡した後で、咄嗟に楠瀬のネクタイを掴む。
「うっ……。何をなさるので……」
「入れ!」
首輪を掴まれた犬のように楠瀬は無理やり室内に引きずり込まれた。
ガチャッ! と扉に鍵がかけられる音が響いた。
室内は灰色一色だった。
コンクリートが剥き出しのスケルトンの状態で、事務用の机はない。
いや。一応、古ぼけたソファとローテーブルがあり、巨漢の他に、男女が座っていた。
女の方は、あのAV動画で見た香野聖良だ。
デニムパンツに空色のシャツという爽やかな格好だ。黒尽くめの巨漢とは対照的で、この陰気な部屋には似つかわしくない。一見すると監禁されているようにも見えた。
楠瀬は巨漢にネクタイを掴まれたまま、体をコンクリの壁に押しやられた。
「おめえ、警察か?」
「ち、違います……!」
「普通の人がこんなところに金を持ってのこのこやってくるはずがねえ! 正直に言わねえとどうなるか分かってるだろうな?」
巨漢が片手に握ったものを楠瀬の鼻先に突きつけてくる。
大型ナイフだ!
「か、勘弁してください! 私は弁護士です。荒河達明から今回の交渉を一任されています」
「弁護士だと? こんな交渉を引き受けるとか……、さては、食えてねえ即独の弁護士だな?」
「お、おっしゃるとおりです……」
「そんな荒っぽくするのやめてあげなよぉ。金太郎」
聖良が甘ったるい声を投げかけてきた。
聖良の言葉に応じて、金太郎と呼ばれた巨漢が楠瀬のネクタイを握る手を緩めた。
「そこに正座しろ!」
金太郎に指示されたのは、ローテーブルの前だ。
絨毯も何もなく、剥き出しのコンクリの床に直接正座させられてしまう。
「荒河達明の代理人弁護士さぁん。来てくれてありがとう。うれしいなぁ」
聖良はこんなことには慣れているという余裕たっぷりの顔を楠瀬に向けてきた。
「ど、とうも……」
聖良はローテーブルにおいたノートパソコンをいじりながら、片手を差し出してきた。
「まず、お金を見せてくれるぅ?」
この様子だと、この美人局詐欺グループのトップは聖良だろうか。
「お、お金なら、カバンに入っています。500万円持ってきました」
聖良は、隣りに座るもう一人の男にカバンを奪い取れとでも言うように顎で指示する。
男は楠瀬の手から素早くカバンを剥ぎ取った。
カバンから帯封付きの札束が5セット取り出される。
「そ、その前に、例の動画を全部消していただかないと! さもないと、私も報酬をもらえなくなるんです! お願いします!」
聖良は、ニッコリとする。
「弁護士さぁん、心配しなくて大丈夫だよぉ。ちなみに今回のお仕事の報酬はいくらなのぉ?」
「ご、50万円です……」
「えー。少なすぎ。こんな怖い目に遭って50万円って割に合わないでしょ? 弁護士さんも500万円請求しなよ。だって、あの人、トータルで1000万円までなら出せるんだよぉ?」
「ご、50万円でも、私にとっては大金なんです……!」
「ふーん。即独の弁護士さんって大変なんだねぇ。ねえ、桃太郎、札束は本物?」
桃太郎と呼ばれたもう一人の男はスラリとした長身で引き締まった体格だ。やはり、黒尽くめで危ない感じがする。
桃太郎は長い指先を器用に動かしながら、札束を検査していた。全て調べ終えたらしく、「本物だ」と頷く。
「よかったぁ。私たちへの慰謝料は受け取ったよぉ。でもぉ、ごめんねぇ。私、パソコンの操作が苦手だからぁ、間違って、公開するボタンをクリックしちゃったの……。あの人にはまだ、公開していないと言ったけどぉ、実はとっくに公開済みなんだぁ……。もうアクセスされているしね……」
頬杖をついた聖良がマウスを動かしながら、甘ったるい笑みを楠瀬に向けてくる。
「だからぁ、公開済み動画の消去料金としてぇ、追加で500万円必要になるの。弁護士さぁん、もう一度、あの人から500万円取ってきてくれるぅ?」