荒河夫妻の離婚協議書と離婚届
「何、ジロジロ見ているんだ! 気持ち悪い!」
「べ……別にジロジロとは見てませんよ……」
翌日のことである。楠瀬が自分の事務所に出勤したら、部屋の何処かから、詠の声が響いた。「今日の案件を取りに来い」と言われたので、7階の狭霧法務戦略事務所に赴いた。
そして、詠からタブレットを渡される時に、まじまじと詠の顔に見入ったのだ。
本当にこの人は27歳以上なのか……? と。
挑戦的な目を向けてくる詠は、やっぱり、反抗期の中学生にしか見えない。
「昨日の案件の続きだ。荒河夫妻の離婚を成立させろ」
今日は、昨日の離婚交渉の結果に基づいて、荒河夫妻の離婚協議書を作成しろというものだった。
荒河夫妻が直接、リトルフォートビルにやってくるので、詠が作成した離婚協議書にサインさせて、ついでに離婚届にもサインさせろというものだ。
交渉の結果、夫婦が離婚条件で一致済みなら、その内容を離婚協議書の形にまとめることは行政書士でもできる。事実、離婚協議書の原案は詠が作成済みのようだ。
それなのに、わざわざ弁護士である俺に仕事を回すとは、何か意図があるのだろうかと楠瀬は首を傾げた。
いや、それ以前に、司法試験に受かっているのに、なぜ、詠は弁護士登録せず、行政書士をやっているのか──?
「いいか。今日もここに書かれているとおりに行動しろ。荒河達明は不規則発言をするだろうが、ここに書いてある通りに対処しろ。返事は?」
「か、かしこまりました」
「分かったら事務所に戻って準備しろ」
「……はい」
楠瀬がエレベーターに向かおうとすると、まどかが自席から立ち上がった。
今日のまどかは、パステルカラーのパーカーにデニムスカートの格好だ。肩には、いろいろな本が入っていて膨らんだキャンバストートを掛けている。
「じゃあ、私も大学に行ってきまーす」
「気をつけるんだぞ」
詠がまるで姉のような言葉をまどかに投げかける。
「はーい」
まどかは素直に返事した。妹と姉が入れ替わったとしか思えないやり取りだ。
まどかがいたずらっぽい笑みを浮かべて、楠瀬に肩を寄せてきた。
「楠瀬先生。今日は私、夕方まで戻りませんからね。詠先生と二人っきりの時間を楽しんでくださいね」
「えっ……?」
「昨日も話したように、詠先生とくっつくのはOKですからね」
「……」
「聞こえてるぞ! くだらないおしゃべりしているんじゃないよ!」
詠の罵声にも、まどかはくすくす笑うばかりだった。
今回の話は意外にあっさりとまとまるのではないかと、楠瀬は思った。
会合場所である101号会議室に真っ先に現れたのは、荒河未唯。
爽やかなショートカットの髪にスラッとした目鼻立ちの長身の美女だ。ダボダボのベージュのニットにゆるめの黒いパンツ姿で、スタイルの良さを隠そうとしているらしいが、モデルのオーラは隠しきれていなかった。
楠瀬は早速、未唯に、達明の財産分与請求権と未唯の慰謝料請求権を相殺する形で、離婚の条件をまとめる。つまり、未唯は達明にタツミプロの株式を1株も渡す必要はないと説明する。
未唯は、淡々とした様子で「それでいいわ」と、離婚協議書に署名し、離婚届にも記入した。
「それにしても、株式を未唯さんが全部持っていてよかったですね」
楠瀬が水を向けると、未唯は軽く息を漏らしながら、
「狭霧先生のおかげです。私たちは、会社を設立するとき、株式を平等に持とうとしたんです。そしたら、詠先生が絶対にそれはやめたほうがいいと止めてくれたです」
株式を平等にしたら株主同士で対立が生じたとき、株主総会が開催できなくなるし、何も決められなくなることもあるからだ。
「私とたーくんは一心同体だし、対立することなんてありえないって、その時は、詠先生に反発さえしました。詠先生は、株式を平等にするならバーチャルオフィスを使わせないと言うので、仕方なく、詠先生の考えた通り、私が株式を全部持って、たーくんを取締役に任命する形にしたんです。今思えば、こうなることを詠先生は見通していたんですよね」
──そのとおりだ。バカップルは熱しやすく冷めやすいからな。一目でこいつらは、5年以内に離婚すると見通せたから、離婚しやすいように仕組んだんだ。そう伝えとけ。
楠瀬のイヤホンに詠の得意げな声が響く。
「そこまで考えていたかは分かりませんがね。でも、株式は一人が持ったほうがよいのは確かですね」
──おい! 言われた通りに話せ!
クライアントに向かって、『バカップル』とか『こいつら』なんて口が裂けても言えるわけがない。
「おかげ様で、助かりました」
──ついでに言えば、あの男が不貞行為をすることも予測できた。だから、あの男の行動も密かに探っていた。そして、不貞行為の証拠を掴んで、未唯に情報提供し、今回の離婚につながったわけだ。お前が離婚の仕事にありつけるのも私のおかげだからな。お前も私に感謝しろよ。
まるで詠の手のひらで転がされているみたいじゃないか。と楠瀬は思わずため息を漏らしてしまう。
達明はしばらくして遅れて部屋に入ってきた。
無修正AVで見た通り、ナンバーワンのホストという感じで、未唯と並べばお似合いの美男美女カップルだろう。
しかし、今日の達明は、顔に焦燥感が浮かんでいるし、スーツも何処かで転んだのか薄汚れている。
達明は部屋に入るや否や未唯に駆け寄った。
楠瀬は咄嗟に間に割って入った。
「お待ち下さい。達明さんはそちらへお座りいただけますか」
当事者が対立関係にある時は、暴行事件や傷害事件に発展しないように机などを挟んで距離を取るのが基本だ。
当事者同士が殴り合いになりそうな時は、弁護士が身を張って制しなければならないこともある。
そう──。弁護士も意外と命がけの職業なのだ。
──お前は下がって二人に取っ組み合いをさせてやれ。私が警察を呼んで達明を現行犯逮捕させてやる。これも私のシナリオのうちだからな。
……いやいや、そんなわけにはいかないでしょ……!
達明が未唯に手出ししようものなら、押さえつけるつもりだった。