10年前の狭霧詠
「女ボスにたっぷり絞られた後、大学でも蹴られて散々っすよ。今日は……」
村正はそう言いながら尻をさする。
ちなみに女ボスとは、和泉陽花のことである。天羽法律事務所の所長は天羽隆盛であるが、村正が採用された後、ほぼ隠居同然の身になり、和泉が所長代理の立場で事務所を切り盛りしているそうだ。
「大学で……蹴られた?」
「あっ、先輩には言っていなかったっすね。実は俺、今、紫雲女子大学の消費者センターの顧問をやっているんですよ」
村正がそう言いながら、スーツの内ポケットから名刺を取り出した。
──天羽法律事務所 弁護士 村正悠也
その隣に、
──紫雲女子大学消費者センター 顧問
の肩書も書かれている。
昼間に、まどかから聞かされた話だ。名刺も持っているということは、やっぱり本当らしい。
「消費者センターということは、消費者トラブルの相談とかが来るんだろ? 大丈夫なのか?」
「平気平気、そんなの放っとけばいいっす。部長とか名乗って仕切ってる奴がいるんで、そいつに任しとけば、俺がやることは実質、何もないんっすよ」
「……そうなの?」
「だから、センターにいる時は、俺にとって昼寝タイムなんっすよ。今日も気持ちよく寝てたら、ゴリラみたいな女に尻を蹴られて叩き起こされたんっすよ……。まだ痛てえし……」
状況がちょっと理解し難いが、楠瀬は、
「……それは災難だな」
と形ばかりの同情をしてみせる。
「でも、ちょっとだけいいことがあったんっすよ。今日、相談に来た子、七緒実乃里ちゃんっていう名前らしいんっすけど、スゴイ可愛い子だったな……。写真撮っとけばよかったな……」
「おいおい、村正、何言ってるんだ」
名門女子大の顧問がこんな下心を抱いているやつで大丈夫なのかと本気で心配になった。
「そうそう。先輩知ってるっすか?」
えびカツバーガーを食べ終えた村正がコーラを飲みながら話題を変えた。
「うん?」
「狭霧詠って、行政書士なんすよね。俺、どっかで、狭霧詠って名前を聞いたことがあるような気がして、ずっと気になっていたんすよ」
「そうなの?」
「それで、うちの女ボスが思い出させてくれたんっすよ。狭霧詠って、10年くらい前に司法試験に受かっているらしいっす」
「……んっ……ちょっと待て? 司法……試験?」
頭が追いつかない。まず、10年くらい前の詠は幼稚園児としか思えないし、そんな詠が司法試験と結びつきようがなかった。
「マジっすよ。うちの女ボスが『あの子は弁護士になろうと思えばいつでもなれるのよ。司法試験に受かってるんだから』って言うんっすよね。それで思い出したんっすよ」
村正がそう言いながら、スマホを見せてくれた。
司法試験の予備校の合格者インタビュー記事である。タイトルには、『現役女子高生の狭霧詠さん(17)司法試験最年少合格!』とあった。
続いて、高校の制服を着た女子がぎこちない笑顔でピースしている写真が載っている。
その顔は、現役女子高生というより、現役女子中学生──。
まさに──あの詠だ。
「えっ、これ、最近の記事?」
「違うっす。10年くらい前っすよ。日付あるじゃないっすか。俺、司法試験の勉強を始める時に、姉貴から『高校生でも合格できるのよ。だからあんたも合格できる』ってこの記事を見せられたんっすよ」
「はあぁぁぁ?」
楠瀬は、思わず立ち上がっていた。
詠は実は司法試験に受かっている──。
それも驚きだが、それ以上に驚いたのは、詠が今、少なくとも27歳以上である──という事実だった。