でんでらりゅうと共に消えた何か
初出:カクヨム
https://kakuyomu.jp/works/16816700426809476053/episodes/822139838098853857
前回、虹と蛇とを同類と見ていた古人の話に触れ、虹からさらに導かれて“Gone The Rainbow”について言及した。Peter, Paul and Maryが1963年頃にリリースしたアルバムの収録曲である。日本では1966年頃シングルカットされヒットしたらしい。
この曲の邦題は、『虹と共に消えた恋』という。
僕の感覚では、この邦題は何というか誠に気恥ずかしく感じられる。そもそも原題にはどこにも「恋」なる語が出て来ない。ただ、1960年代の日本人の感性には、赤面し羞恥を覚えるような言回しが好まれたのかも知れぬ。何とも、人の感じ方や価値観などというものは時代や環境などによって、大いに変われば変わるものである。
この曲は、アイルランド民謡“Siúil a Rún”のゲール語を英語話者が耳だけで聞取った体裁のピジン的な詞句に、当該民謡をもとにアメリカで作られた英語の楽曲 “Johnny Has Gone for a Soldier”を足し合わせて、さらに意味もない言葉遊びのような語句を付け加え、擬似ゲール語と英語と言葉遊びの語句とが混在しながら進行するような、出自も歌詞も奇妙で複雑な作品だったと思うが、本件についてここではこれ以上触れないので、興味のある方はご自身でお調べいただきたい。
この歌のことを初めて知ったのは、小学生の頃、同級生の友人からだった。
この曲はれっきとした洋楽なのだが、彼から僕にはそのようには伝えられなかったように思う。
彼は、僕に初めて『でんでらりゅう』を教えてくれた人でもあった。
でんでらりゅうは でてくるばってん
でんでられんけん でーてこんけん
こんけられんけん こられられんけん
こーんこん
これがそのとき教わって僕がいまだに記憶している『でんでらりゅう』である。
何だか意味が解るようで判然とは解らない不思議な歌だと思った。
これは、もともと長崎の童歌で丸山女郎の悲哀を歌ったものとも言われる。今世紀に入ってNHKの『にほんごであそぼ』などでも取上げられ、知名度は全国区となってきたようだが、僕が子供の頃は、同じ九州であっても広く知れ渡った歌ではなく、友人から聞かされるまで僕もこの歌の存在を全く知らなかった。ちなみに、家人も九州人なのだが、この歌のことは僕から聞かされて初めて知ったという。
歌詞の冒頭は「でんでらりゅうば(出て行けるならば)」が正しいようだが、僕が記憶したのは「でんでらりゅうは」であった。「でんでらりゅう」とは龍のことだと友人に聞いた気がする。その龍が穴だか淵だか知らぬが、そこから外に出て来ようとするけど出て来られないという意味であるように何となく思っていた。僕の印象としては、捉えどころのない奇譚的な歌という感じであった。
末尾の「こーんこん」については、何やら狐の鳴き声のように思っていた。狐は人を化かしたりもする、薄気味悪く怖ろし気な存在でもあり、そのイメージがこの歌を一層妖しく神妙なものに思わせていた。
そして、この『でんでらりゅう』とともに教わった別の歌が『しゅーしゅーしゅらり』であったと記憶する。『でんでらりゅう』と同系統の不思議な歌として僕の脳裡に焼付けられたのだが、何のことはない。“Gone The Rainbow”だったのである。僕が耳で覚えた歌詞はこうである。
しゅーしゅーしゅーらーり
しゅーらーばくしゃく しゅらばばく
おーまいそーまい さりばらりゅうか
りむりむりんしゃい ろーり
僕の耳には何とも摩訶不思議な呪文にも聞こえるこれら二つの歌だったが、その不可思議さゆえに強く惹かれた。
これらの歌はどういうものなのか? 呪文のような歌詞は何を意味するのか? 次々と湧き上がる疑問点について、しつこいほど再三友人に訊ねたものだったが、彼から返ってくる答えはいつも一向に要領を得なかった。
もっとも、『でんでらりゅう』の方は長崎言葉であり、僕の母語も同系統(肥筑方言)であったため、先に述べたとおり何となくの大意は取れていた。「でんでらりゅう」が龍の名前だと友人ともども誤解していたことや末尾の「こーんこん」を狐の鳴き声だと勝手に誤認したような齟齬はあるせよ、出ようにも出て来られないもどかしさを歌ったものだという認識は合致していた。
しかし『しゅーしゅーしゅらり』の方はさっぱり解らなかった。
解らない筈である。ゲール語由来のピジンと英語と意味もない言葉遊びのミックスなのだから。
たとえ、英語やゲール語を理解する人にとっても意味不明なのである。ましてや、子供の頃の僕などが手に負えるものではない。
そんなこととはつゆ知らず、僕はこの歌のことを『でんでらりゅう』とワンセットになる歌だとばかり思い込んでいた。したがって、「さりばらりゅうか」の部分は「でんでらりゅう」と同じく、やっぱり龍のことだろうかと漠然と思ってもいた。友人に訊ねたところ、彼の答えは「さりばらりゅうか」はどうやら砂漠のことらしいとのことであった。
彼としたら、僕からの執拗な追及に困じて口から出まかせを言ったのかも知れない。
しかし、その言を耳にした僕は、なるほど、「さばく」と「さりばら」は音が慥かに似ていると妙に納得したものであった。
本来の歌詞の当該部分は、龍も砂漠も全く没交渉の“Sally Babby Beal,come…”なのだが――
当時僕ら二人は、しょっちゅうこれらを口ずさんでいたように思う。
今から思えば、その友人には年の離れた姉があったので、姉なる人がレコードで聞いていたか、愛唱していた“Gone The Rainbow”を友人も普段から何度となく耳にしたのではなかろうか。そうして、耳に届いたままに、意味も解らず聞取り覚えたものを、僕に教えてくれたのだろうと思う。
門前の小僧たる友人の口伝によって僕が覚えた歌は、原曲と比べかなり歌詞が異なるのは当然だとしても、テンポにしても早口言葉のように随分と速い上に、中盤以降は音程も大分ずれている。
『しゅーしゅーしゅらり』が洋楽であることに僕が初めて気付いたのは、それから大分時がたった高校生ぐらいの頃だったかも知れない。テレビで南こうせつが女性の歌手と一緒に“Gone The Rainbow”を歌っているのを視聴したのがきっかけだったようにも思う。今となってはその女性歌手が誰だったのか思い出せないが、白鳥英美子だったか、イルカだったかのような気もする。南こうせつにとっても、“Gone The Rainbow”は思い入れが深い一曲らしい。
件の友人とは、高校も別で、成人式のとき以来、ほとんど顔を合わせていないので、これら懐かしい歌についてもはや語り合うこともないが、あの頃は、訳も解らず、でたらめじみた歌を面白がって愉快にしつこく歌ったものだとつくづく思う。
そうした他愛もないあの頃の愉快な気分と執着は、今となっては『でんでらりゅう』や『しゅーしゅーしゅらり』と共に、僕の記憶の向う側に消えてしまったようにも思われる。
なお、今回は蛇に直接関係する内容でなかったことに忸怩たる思いがある。
古代に蛇の同類と見なされた虹から敷衍して、題に虹が含まれている歌やでんでらりゅうを龍と誤解したことなど、蛇の外縁、傍側の事柄に、指先だけをちょんと幽かに触れることでお茶を濁した恰好だが、諸賢のご寛宥を賜ることができれば幸いである。
<続>




