草薙長虫ナーガラージャ 前篇
初出:カクヨム
https://kakuyomu.jp/works/16816700426809476053/episodes/822139837574594480
蛇の異称に「長虫」がある。
近代より前の日本や中国などにおける「虫」の概念には、昆虫やナメクジやミミズなどとともに、カエルやトカゲやヘビが含まれ、「虫」の字は虺が鎌首を持上げた姿を擬しているという件には以前『めうがとまへび』でも触れた。
その「虫」の中でも殊更に細長い姿形をしているので長虫なのだと一般的には解釈される。
一方、「ながむし」の「なが」という音に着目し、インドのサンスクリット語でコブラや蛇神を示す「ナーガ(नाग, Nāga)」を引合いに、その音韻的連関をあれこれ推察する説もある。
僕が「ナーガ」という語に初めて触れたのは、かつて漫画雑誌『なかよし』に連載された高階良子の作品『はるかなるレムリアより』である。この漫画は超古代文明をテーマにした壮大なファンタジーで、普段は仮の姿である美青年に身を窶したナーガラージャ(龍神)、サンダーバード(鳥神)、スカラベ(甲虫神)といったキャラクターが登場する。
小学生の頃に妹だか従姉だか誰だかの雑誌を借りて読んだように思うが、非常に印象深く、その絵柄も含めて記憶に残っている。ただ、この作品の中身について話し始めると、僕の念頭にあるテーマとは離れてしまうので、これ以上は踏込まない。興味がある方はWebで検索するなり、AIに訊ねるなりしていただきたい。
この漫画のキャラクターの一、ナーガラージャは、実際にインド神話における蛇神の王たる神であり、「ナーガ(蛇神/नाग, Nāga)」と「ラージャ(王/राज, Rāja)」との複合語としての“नागराज, Nāgarāja”である。仏教にも取り入れられ、日本では八大龍王などとして知られる。
ちなみに「ラージャ(王/राज, Rāja)」の前に「マハー(偉大なる/महा, Mahā)」を置くと「マハーラージャ(大王/महाराज、Mahārāja)」すなわち、マハラジャとなる。
「マハー(偉大なる/महा, Mahā)」と「アートマン(我/आत्मन् Ātman)」が合体したものが「マハートマー(偉大なる魂/महात्मा, Mahātmā)」すなわち、マハトマ。
「アートマン(我/आत्मन् Ātman)」と「ブラフマン(梵=宇宙の原理/ब्रह्मन्、brahman)」とが同一であると説くのが「梵我一如」であり、「ブラフマン」から派生したのがカースト最上位の「ブラーフマナ(ब्राह्मण brāhmaṇa)」、すなわち、バラモン(婆羅門)……
いけない。いけない。蛇神の神通力に致されてしまったのか、ながながと果てしなく脱線して行ってしまう。
閑話休題。
「長虫」の「なが」に戻ろう。
南西諸島の方言には、蛇のことを示す語に「なが」「なぎ」などがあるらしい。地方の言葉には古語が残りやすいので、古い日本語でも蛇のことを「なが」などと言ったかと思われるが判然としない。
三省堂の『時代別国語大辞典 上代編』を調べても、見出し語に「長虫」を始め、蛇に関連する語としての「なが」「なぎ」に音韻が似た語の所載は無い。小学館の『古語大辞典』、岩波や角川の古語辞典などにも見当たらない。大野晋が編んだ『古典基礎語辞典』でも同様である。旺文社の古語辞典には「長虫」が見出し語に採られているが、用例が載っておらず、季語の一としての扱いに見える。『広辞苑』などを見ても、長虫がいつの時代から使われているのか、用例なども記されていない。
なお、一般に古語辞典などでは確実に文献に残っている語が採られているので、文献で確認できない語は当然ながら見出し語の対象にはならない。したがって、文献に残っていないながらも、「なが」「なぎ」に類する語が太古から存在し、用いられていた可能性を否定することはできないように思う。
太古の日本の神話で蛇と言えば、八岐大蛇が思い当たるが、この蛇神と密接な関わりがあり、「なが」「なぎ」に音韻が近いものとして草薙剣がある。天叢雲剣が正称とも言われ、須佐之男命がこの大蛇を退治したときに、その尾を裂いたところ出てきた大刀であり、三種の神器の一でもある。草薙の称は、倭建命が野原に火を放たれ焼き殺されようとしたときにこの剣で周辺の草を薙いで難を逃れた故事に由来するとされるが、別の説として「くさなぎ」は「臭蛇」の謂であるというものもある。
慥かに、アオダイショウなど、蛇には身の危険を感じると総排出腔——人間など哺乳類で言えば、肛門と尿道と生殖腔が一緒になったもの――を開いて臭気を放つものが少なくないとされる。青臭い臭味で、刺激臭というより悪臭とされるが、幸いに僕はその臭いをまだ嗅いだことがない。一体どんな臭いか、想像するだに小鼻や眉根が収斂する感がある。八岐大蛇も今際の際に強烈なる悪臭を放って最期の抵抗を示したのだろうか。記紀にそのような記述は無いが、仮にそうだったと想像してみると何とも哀れを催すようで複雑な感慨がある。
<続>




