能ある〝蛇〟は
初出:カクヨム
https://kakuyomu.jp/works/16816700426809476053/episodes/822139837265865388
農道の脇に側溝が穿たれていた。井手川である。
その井手川は潤すべきすべての田を行過ぎると、そのまま大きな川へと流れ込んでいて、末端近くの数十メートルは暗渠となり地中の土管を水が通っていたように思う。
ただ、暗渠となっている経路の一ヶ所だけ、数メートル切り取られたように開渠となっている場所があった。その開放部のすぐ下流側は、この井手川に沿いつつ緩やかに下ってきた農道を横ざまに別の道が貫く、十字の辻となっていて、その辻の所で井手川は交叉する道の下の地中に再びもぐり込み、それから先は暗渠のままに一級河川に注いでいた――そんなふうに記憶するのだが、何十年も前のことであり定かではない。
その開放部、上流からの土管の口が開いているところは、数十センチの段差があって、土管から流れ出る水は垂水となって落ちていた。
その土管の口のすぐ内側である。
蛇がとぐろを巻いて死んでいた。かなり大きな蛇に見えた。
その井手川は農閑期などには涸れたようになり水がほとんど流れていないこともあった。蛇の死骸が水に漬かっていたようには記憶しておらず、何でも乾いていたように思われるので、要するに井手川の水が涸れていた時期なのであろう。
土管の出口に蛇がいるのを見つけて僕を呼んだのは祖父であった。
「あれは山楝蛇だ」
そう教えられて、僕は初めてこの名詞を記憶した。あれは、もう小学校に上がっていた頃だろうか。
赤と黒の斑がある美しい蛇であった。
その古雅なる姿と「やまかがし」という音の趣ある古韻に魅了され、爾来、該種は僕にとって特別の地位を得ることになった。と言っても、その後の僕の歴程に山楝蛇との特筆すべき紐帶があったと云う訣では無い。寧ろ、僕がその實物を直に見たのは、少時以外には殆ど記憶に無い。
しかし、「やまかがし」という言葉を聞けば、曩時、土管の口に蟠っていたあの何とも立派で美しい樣子が眼裡に髣髴する。「あれは山楝蛇だ」という祖父の聲が耳に響む。
ところで、固有種であるこの蛇の美しい体色は、地域的な差異が大きいらしい。九州型、関西型、関東型など六種類ほどが従来知られていたが、実際には百種類を超えるそうである。これに関する調査が、研究者と多くの一般の市民との協力により全国各地で実施され、その結果についての論文が、今年(二〇二五年)五月に国際的な学術誌〝Zoological Journal of Linnean Society〟に掲載されたという話題が耳に新しい。何とも日本らしい「酔狂」にも感じられて微笑ましく思われるが、この件について本稿ではこれ以上立入らない。
「この蛇には毒は無い」
土管を指さしながら、祖父はこうも口にし、それは知識として幼い僕の脳裏に刻まれた。
しかしながら、諸賢もご案内の通り、この時の祖父の言は事実に異なっている。ヤマカガシは歴とした有毒の蛇である。
ただ、「この蛇には毒は無い」と述べた、この時の祖父の認識が誤りだったかと言えば、そうとはならない。何となれば、この当時、多くの人の認識としては、ヤマカガシは無毒で危険性の少ない蛇だったからである。
ヤマカガシの毒性について一般への認知が広がったのは、一九八四年以降と言われる。この蛇による咬害死亡事故が大きく報道されたことがきっかけとされる。研究においてはその十年以上前の一九七二年に、ヤマカガシの毒が学術報告されているというが、広く知れ渡ったのはこの事故の後らしい。
この報道については、僕も鮮烈に記憶している。
ショックだった。あの山楝蛇が毒蛇だったとは――
それまで、沖縄奄美以外の日本で、毒があるのはマムシのみというのが僕らの常識だった。その永代続くかに思われていた常識が覆されたのである。
ナミヘビ科のヤマカガシの毒はクサリヘビ科のマムシと同様に出血系らしい。ただ、その分子構造はマムシのものとは異なり、より強力とさえ言われる。しかし、これほどの毒が、日本列島に人類が到達して以来数万年もの間、認知されることが無かったというのも不思議である。その理由として、この蛇による人への咬害の事例が非常に少なかったことが言われている。
ヤマカガシは元来おとなしい性質とされ、人と遭遇しても専ら逃げるのみで攻撃してくることは極めてまれだという。また、前歯に毒があるマムシやハブ(前牙類)と違って、口の奥の牙に毒腺が繋がる後牙類であるため、口いっぱいに深く咬込まれなければ、毒が人体に注入されないという構造上の特性もある。いずれにせよ、ヤマカガシによる人への実害があまり生起しなかったことで、数万年もの間、毒を持つ危険な蛇とはまったく見なされてこなかったというのだが、何とも感慨深い。
なお、日本に生息する毒蛇で、最も強い毒を有するのは、エラブウミヘビと言われる。コブラ科のこの蛇は珊瑚礁など温暖な海域に生息し、インドコブラやキングコブラをも凌ぐ最強クラスの神経毒を有するとされる。ただ、このエラブウミヘビも性質はおとなしく、口も小さいために人への実害例はハブなどに比べ随分少ないらしい。
また一方、日本に広く分布し、野山などで見掛けることも多いシマヘビは、無毒ではあるが非常に気性が荒く、動作も俊敏であるため、人に咬付くことも少なくないとされる。
エラブウミヘビにせよ、ヤマカガシにせよ、真に能ある蛇は温厚なる品性という結論だが、中々に考えさせられることで、できれば僕もかくありたいと冀うものである――かくありたいと願うのは、現状がそうではないからという証左でもあるのだが……
<続>




