めうがとまへび
初出:カクヨム
https://kakuyomu.jp/works/16816700426809476053/episodes/16818792438824284869
「干支の縁起物」でも言及したように、蛇と言えば一般に人に忌み嫌われ、怖れられる傾向があるが、毒蛇であれば尚更と言えよう。
日本の毒蛇として万人の脳裏に浮かぶのは、マムシが筆頭であろうか。
怖ろしさからすると、ハブの方が上に感ずるが、この蛇の生息は沖縄や奄美といった南西諸島の地域限定であり、北海道から九州に至るまで津々浦々あまねく潜んでいるマムシの方が、より多くの人々にとって身近な脅威には違いない。
マムシは漢字で書くと「蝮」。この字の旁は「フク」の音を表すとともに、腹が膨れている形態を示すとも言われる。なるほど、マムシの姿形として、頭が三角形という特徴のほかに、他の蛇と比べてずんぐりしているということもよく知られている。
別字として、「虺」という漢字もある。「キ」或いは「エ」という音を持ち、蛇の曲がった姿の象形とされる。
どちらかというと、蝮よりも虺の字の方があの毒蛇の禍々しいイメージに似つかわしい気がする。
したがって、以後、ここではこの字を用いたい。
一体、僕の郷里では虺のことを「まへび」と呼ぶ。
どういう字を当てるのか、また、どのような語源なのかは知らないが、もしかしたら、蛇の中の蛇という謂で「眞蛇」なのかも知れない。もとより、「まむし」の語源も虫の中の虫ということで「眞蟲」とする説がある。近代より前は、昆虫や陸生の節足動物以外に、軟体動物、環形動物を始め、脊椎動物である爬虫類や両生類までも「むし」の範疇に含まれることが一般であった。漢字でもこれらは多く虫偏の文字で表される。
そもそも「虫」の字自体が、蛇、特にマムシが鎌首を持ち上げている様子を象っているとされる。
調べたところ「まへび」の語が用いられる地域は、九州の一部のほか、中国から近畿など、西日本一帯に点在するらしい。中部以東については情報がないが、諸賢の中に「まへび」の語をご存じの方があれば、ゆかりの地域も含めてお知らせいただければ幸いである。
いずれにしても、僕の耳には「まむし」の音よりも、「まへび」の音の方が怖ろしげに響く。
僕の郷里で言い慣わされていることとして「茗荷の生えとる所には、虺がおる」といった趣旨の俚諺がある。
父が健在だったころ、実家の山林の脇には畑や梅林などもあり、そこの一角には茗荷が植わっていた。茗荷は僕の好物である。夏茗荷と秋茗荷とがあって、夏茗荷は小ぶりで香りが高く薬味として珍重され、やや大振りで優しい味わいの秋茗荷は天婦羅や煮物など加熱調理に向いているとも言われる。
父が没したあとも何度か、山の脇の畑で茗荷採りを行ったことがあるが、家族の誰言うとなく、虺に気を付けんといかんねと警告し合いながら、それこそ恐る恐る採取したものである。もっとも、幸いなことに、実際に遭遇するという次第になった例は一度もない。
茗荷が生えるのは明るい日向ではなく、しばしば日陰になるようないささかじめじめした陰気な場所である。茗荷の可食部は花蕾であり、茎が林立する間にあって、その根元の薄暗くて湿っぽい地面から直に顔を出す。
このような、日光が直接及ばない草叢の物陰は、虺の生息環境としても打って付らしい。そうしたところから、茗荷の生える場所には虺がいるということが言われるようになったものであろう。
ただ、調べたところ、虺と茗荷との相関について、科学的に論ずる資料は見当たらなかった。また、このことに関する確たる諺と言うべきものも見つからなかった。これは、幾つかのAIを用いた調査でも同断であった。
しかし、調査の範囲をブログやSNSなどにも広げてみると、僕の郷里以外でも、茗荷を採る際には虺を警戒するという向きは少なくないようである。
なお、茗荷の可食部である花蕾をそのままにしておくと、クリーム色を混ぜたような白い色合いの、やわらかな花を咲かせる。
一般に、花が咲くとその下の茗荷は固くなり、食味が落ちると言われるが、僕の周りでそのような繊細なことを口にする者は一人もいなかった。
葉や茎に覆われ光を遮られた薄暗い土の上で、花蕾から伸びる生白くなよなよとした花には、何だか幽霊じみた印象がある。さながら、地面から突き出た亡者の手、或いは、エクトプラズムとでも言おうか。
そうした空怖ろしいような雰囲気も相俟って、茗荷の取合せとして虺を配合させる便となっている気が僕にはする。
ただ、僕が家族と茗荷採りをしたのは、もう何年も前のことになる。今や実家の山のそばの畑も梅林も、誰も手入れする者がいないため、草茫茫たる有様であり、梅の木など枯れてしまっているものが少なくない。茗荷の植わっているあたりも、鬱蒼たる様相を呈しており、いよいよもって本当に虺が潜んでいそうな体裁となってしまった。こうなっては、最早そこに足を踏み入れて茗荷採りという気分には到底ならない。
かくしてここ数年、僕は吾が土地に生育するこの自家製の芳味をとんと口にしていない。食べたいときには近所のスーパーあたりで金を払って買うしかない。あそこには只でたくさん生えているというのに、遠方から指を咥えて想像するより方が無い。
非常に残念な話ではあるが、僕にはそこまでの胆力も、遠方の実家の山をきちんと手入れする甲斐性も持合せていないのである。
<続>