第3話 迷いの家③
いち早くそれに気付いたのは、煙草を吸っていた兵士だった。
「なんだ……?」
何かが浮いている──、彼はそう思ったのだろう。
ただ、一見してそんなものを正常に認識できるだろうか。
彼は実際、少し離れた位置から、その様子をただ漠然と観察していた。
煙草を人差し指と中指の間に収めたまま、ポカーンと間抜け面で、だ。
まさかその破損した短剣が、この後どうなるかなど予想できるはずもない。
──短剣は今、アカリの手の中にあった。
両刃の短剣で、所謂『ダガー』と呼ばれるものだ。
少々華美だが、美しい意匠に狼の紋章を宿している。
恐らくは、貴族階級の持ち物で、特別な意味を持った代物だろう。
ただし、その美しい短剣は先端から折れている。
元より短い刀身が、さらに短くなっているのだ。
だが、それは今はさしたる問題ではない。
大事なのは、それに触れられるかどうか。
アカリはそれをグッと強く握り込むと──
躊躇なく突き上げた。──ひとりの兵士の顎の下へ。
脳天に向かって突き立てられ、顎下からグリップだけがぶら下がる。
兵士は苦しむ様子もなく、そのままの表情で倒れていった。
──その時、アカリはその兵士の身体に押されて弾かれる。
「うわっ!」
慌てて体勢を立て直す。
足元には、血を流して死んでいる兵士が倒れていた。
「どうして、身体がぶつかった……? 触れられないはずなのに──。いや、触れられる。触れられるぞ。どうして死体だけ──」
他の兵士も、あまりの意味不明な状況に取り乱した。
倒れた兵士に駆け寄って、その身体を揺さぶる。
「オイ、どうした! ──ひっ⁉︎ 血が⁉︎ なんで? 死んでいる⁉︎」
アカリは、すぐさま死体から短剣を抜く。
その返す刃で、傍にいた兵士の喉を真一文字に切り裂いた。
「ぐふっ⁉︎ ゴホッ! おごっ⁉︎ おばっ!」
兵士は、首を必死に押さえて抗う。
口と指の間から、泡立つ血流がゴボゴボと音を立てる。
そして、数秒と待たずに踠くように暴れて絶命した。
兵士のひとりが叫んだ。
「うわあああああ‼︎」
その声が合図になったかのように、兵士二人は一斉に後退る。
彼らは怯え、そこに見えない何かがいることを察知した。
アカリは認識する。
──ようやく、彼らが自身を認識したことを。
*
ダークグレーのスーツの少年が突如現れた──
少なくとも、兵士らにはそう見えた。
少年は、瞬きをする一瞬の間に視界の中に出現したのだ。
──アカリは手の中の短剣を眺めた。
ボタボタと滴る血の隙間から、狼の紋章が浮かんでいる。
だが、それは破損した短剣ではない。
失われたはずの切先を取り戻していた。
「なるほど、そういうことか──」
兵士は二人とも困惑していたが、その中の一方だけはまだ冷静だった。
煙草を咥えたまま、俊敏な動作でアカリの傍に立つ。
「なんだ、お前さん。誰だ? どっから現れた? ──一体何をした?」
腰から抜いた拳銃を頭に突きつけ、ガチャリと撃鉄を引き鳴らした。
「返答は慎重にな。俺はこう見えて気が短い。早く答えろ。さっきまで屋敷内にはいなかったよな?」
「へぇ、俺が見えているんだな。それは良かった。──いたよ。最初からここに。アンタらが気付かなかっただけだろ?」
その瞬間、兵士は引き金を引いた。
大きな破裂音が鳴り、アカリは壊れた人形のように膝を落とし倒れた。
兵士は、吸い終わった煙草を放った。
「クズが。俺は気が短いと言っただろうが。──オイ。邪魔だからそれは端の方にでも寄せておけ」
だが、彼は視線を外してからようやく気付く。
──もうひとりの兵士が、自身の背後を見ていることに。
咄嗟に振り向くと、そこにはアカリが立っていたのだ。
アカリが自身の側頭部に触れると、手には大量の血液が付着した。
それは、明らかに致死量の流血であった。
「どうかしているぜ、アンタ。いきなり頭を撃つなんて。どういう教育を受けてきたんだ?」
「──なっ⁉︎ なんで生きている⁉︎」
「気に食わないとすぐに癇癪を起こす。まるで小さな子供だな。──そうだ、アンタ。腰から下げるのは、哺乳瓶にした方が良いんじゃないか?」
「だから──、なんで生きていると聞いているんだっ‼︎」
兵士は、拳銃をすぐさま撃った。
弾丸はアカリの心臓に着弾し、血を吹き出して倒れた。
「な、何だったんだ──、コイツは──」
だが、ほんの少しの間の後、再びアカリは何事もなく立ち上がった。
「あのさ、痛いからいい加減止めてくんない? アンタ、しつこいよ」
「オマエは一体──」
「正直、俺はアンタらに興味もないよ。けど、見方を変えれば、アンタらも災難だったのかもな。こんなところに来なければ、まだ生きていられていただろうに」
兵士の目に、明らかにそれは何か違うものに映った。
「だから、オマエは何だと聞いているっ⁉︎ ──ま、待て! 寄るなっ‼︎」
それの口角が上がった。
「この屋敷に入らなければ──、私に食べられることはなかったでしょうに」
*
少女は応接室のソファに座り、辺りを恐る恐る見回した。
目の前には、淹れたてのお茶が出されている。
「──どうかした? お茶嫌いだったかな?」
「あ、いえ、その──」
向かいのソファでは、少年が座ってお茶を口にしている。
少女は大いに困惑していた──
応接室には、すでに何の形跡もなかった。
到底、ここが血みどろの殺し合いがあった場所とは思えない。
少年にしても、恐らくただのヒトではない。
だが、友好的だ。それに、妙に高揚しているように見える。
先刻まで穴だらけだった衣装には、見る限りシミのひとつもない。
そんな彼が、今は満足そうにお茶を啜っている。
「はぁー、美味いじゃん! あ、そうだ。飯とかは出ねぇのかな?」
そもそも兵士らはどこへ消えたのか。
部屋は瞬きをする間に、何事もなくすべて元に戻っていた。
すべて消滅した。──血痕も、銃も、兵士の死体も。
少女の衣装は破かれていたために、すでに着替えていた。
──それも全く同じ衣装に。
あれは、特別に作らせたもので二つとないものだった。
ところが、少年は無造作に全く同じものを取り出してきた。
着替えはしたものの、戸惑いは隠せない。
金の意匠から、寸法から何から何まで。
驚くことに寸分違わず、全く同じものであったのだ。
「どう? その服。前と同じでしょ?」
「え? あ、ええ、まぁ──」
「ああ、そうだ。勿論、帰る時は、何か別途選んでいいからね。それはサービスしておくよ」
「──はぁ」
「あと、これも返しておくよ。鞘もサービスだ」
「え?」
少年がテーブルの上に置いたのは短剣。
それは、フランツの形見とも言える品だった。
狼の紋章を模ったもので、先代がフランツへ下賜した。
これも特別に作らせたもので、二つと存在しない。
だが、それが目の前に存在している。
鞘から抜くと、破損した先端は元通り修復されていた。
しかも、あれ程血に塗れていたのに新品のような輝きだ。
少年はニコニコと笑っている。
だが、少女の方はだんだん気味が悪くなってきていた。
「あ、あの──、私はもうそろそろお暇させて頂こうかと──」
少女は短剣を持って逃げるように、応接室の入り口へ急ぐ。
──だが、腕を掴まれる。
いつの間にそこにいたのか、少年は音もなく背後に立っていた。
「待ってよ、もっとゆっくりしていけばいい。疲れているだろう?」
「いえ、私は行かなくてはいけないのです」
「行く? どこへ?」
少女は返答に窮する。
少年が知る由もないが、彼女にはもう何もなかった。
「どこって──、あ、その、家です。自分の家。そこまで迎えに来ているのです」
「迎えって、おかしいな。キミはもう一人きりのはずだろ?」
「どうして──、どうして貴方がそんなことを知っているのです──」
「その短剣の持ち主、フランツって言ったか。彼だけだったのだろう、キミが頼れるのは。けど、彼ももうこの世にはいない」
少女は、奥底から込み上げる何かをグッと堪えた。
「そんなこと、貴方に関係ないではありませんか。──助けて頂いたことには感謝の言葉もありません。ですが、私は家に戻らなくてはいけないのです。今は何のお礼もできませんが、いずれ必ずこの恩はお返し致しますので」
「だから、どこに? どこへ行くつもりなの? 今のキミには味方もいなければ、行くところもないよね? だって家はもう無いのだから」
「どうして──」
「キミの父親の領地──、それをキミが継いだんだよね? けど、それもすでに奪われた。彼らがその尖兵だった。いや、秘密裏に裏工作する人員ってところかな。キミを誘拐して、晒し者にするつもりだったみたいだし」
「だから、どうしてそんなことを貴方が知っているのです!」
「え──、あれ? そう言われてみれば、何でだろう……?」
少女の目に映っているのは、たしかに少年の姿だ。
だが、ヒトとは違う何かにしか思えなかった──