第2話 迷いの家②
その少女は10歳前後というところだろうか。
そんな幼い子が、いきなりエントランスホールに飛び込んできた。
そして、中に入るなり、力尽きるかのように床へ倒れ込んでしまう。
肩で息をしているせいか、すぐには起き上がってこない。
彼女は年齢に不釣り合いな格好だった。
たとえば、男装の麗人のような──
貴族のような上質な装いで、全体が黒地で金の装飾が施されている。
煌びやかな肩章も金でありながら、トータルでは落ち着いた印象だ。
だが、それも今は泥に塗れており、壮絶な何かがあったことを物語っていた。
しきりに後ろを気にしていることから、追われているのかもしれない。
──そんな少女の様子を、アカリはただ漠然と眺めていた。
エントランスホールの端にある椅子で。
コンソールテーブルに肩肘を付いて。
ああ、またか。──などとも思わない。
所詮、それはありふれた迷家の光景だった。
まずは、いつものようにノートに来訪者の記録を残す。
十歳程度の貴族の少女──、と。
妙な格好だとは思ったが、あまり興味も湧かなかった。
そして、いつものように肩肘をつけたまま、気怠そうに口上を唱える。
それは儀式のようなもの。──彼はとにかく暇だったのだ。
「ようこそ、迷家『千影館』へ。私の名は『アカリ』、当館の管理をしておる者です。貴方のお名前は?」
──勿論、少女から応答はない。
そもそも姿すら見えていない。
口上だって聞こえるはずもない。
所詮観客のいない、ただの独り言だ。
今では随分と流暢に話せるようになっていた。
この無意味な暇つぶしのおかげで。
少女はようやく立ち上がると、半ば這うように奥へと消えていく。
アカリは椅子から動かずに、その後ろ姿だけを横目に見ていた。
──だが、不意にバンという大きな音がした。
さすがのアカリも少しだけ身を縮こませる。
エントランスホールの玄関扉が激しく開け放たれたのだ。
すぐに四人の男たちが、雪崩れ込むように屋敷へ入ってきた。
彼らは兵士のようで、皆一様に濃紺の軍服を身につけている。
肩に下げているのは小銃だろうか。恐らく五発程度は装填できる代物だ。
他には帯刀している者、腰にナイフや回転式拳銃を下げている者も。
彼らは他人の家という感覚がないのか、我が物顔で物色を始めた。
「──探せ。ここに入ったのは確かだ。お前らはそっち。俺たちはこっちだ」
アカリは、その様子を椅子に座ったままで眺めていた。
「なるほど、あの子は彼らに追われているのか。──それにしても、騒がしいな。こんなに大勢が一度に来たのは初めてかもしれない」
それでも興味は湧かなかった。
だが、アカリはまたすぐに身を縮こませることになる。
──奥の応接室の方から、ガシャンと大きな音がしたのだ。
*
アカリが応接室に赴くと、先程の少女と二人の兵士の姿があった。
少女は、ひとりの兵士によって床に押さえ付けられている。
いざこざがあったのだろう。壁際の飾りは床に落ちて破損していた。
「離して……、ぐぅ⁉︎」
兵士は、組み伏せた少女の細腕を軋ませた。
だが、彼女の悲痛な呻きすら、兵士らを喜ばせる材料にしかならない。
「オイ、動くなって。──まぁ、適度に抵抗してくれた方が楽しめるけどな。ほら、どうだ。痛いか? なぁ、痛いか?」
そこへ、他のニ人の兵士たちも合流してくる。
「オイ、他に誰かいたか?」
「いや、この屋敷は誰もいねぇようだな」
「だが、これはどういうことだ?」
テーブルには、淹れたてのティーカップが五杯置いてあった。
迷家の用意した、四人の兵士たちと少女の分だろう。
「何なんだこれは。気持ちが悪い」
兵士がテーブルを足蹴にしてひっくり返す。
「オイ、勿体ねぇな」
「こんなもの飲もうとすんじゃねぇ。毒でも入っていたらどうする」
「毒ねぇ。これが罠だってのか? それにしても、奇妙な屋敷だな。ヒトの気配も全く無いくせに、つい今まで誰かがいたような──」
ひとりの兵士が少女の前に立つ。
少女は髪を掴まれ、無理やりに上半身だけ起こされた。
「さて、シャルロッテ様。我々も手荒なことがしたいわけじゃないのですがね。散々警告を無視したツケですよ。どうです、そろそろ観念して頂けましたかね? もう仕置きは免れませんが、まだ多少は交渉の余地があるかもしれませんよ?」
兵士が少女の頬に触れた時、少女は顔を逸らして抵抗する。
「取引はしません。貴方たちの言いなりになるくらいなら、死んだ方がマシです」
兵士は感情に任せて殴りつけた。
──少女の唇は血で滲むが、彼女に屈服する気配はない。
「私を力でどうこうできると思わないことです。フランツさえ来れば──」
「フランツというのは、これの持ち主のことですかね」
そう言って、その兵士は何かを少女の前に放った。
それは紋章入りの破損した短剣で、黒くべっとりと汚れていた。
鞘も破損しており、辛うじて収まっていたのだろう。
放られた勢いで、容易に短剣は抜けてしまった。
──その乾いた血液の意味は明白だった。
「なかなか強い御仁でしたよ。けど、貴方が人質になっている件を伝えたら、急に大人しくなりましてね。ただ彼はそこからも強かった。爪を剥ぎ、目を潰し、両手両足を潰しても。その口から出るのは、常に貴方を案じる言葉だけでしたよ」
少女は衝動的に叫んだ。
「ああ、なんてことを……、卑劣な──」
「ああ、あと、彼のことはもうご心配なく。今頃は、獣の餌にでもなっていることでしょうから」
「どうして──」
「どうして? 理由は明白でしょう。彼が無能だったからです。そして貴方も。あんな無能に頼るから。なにせ、貴方の居場所を割り出せたのも、誘導尋問に引っかかった彼のおかげなのですよ。実に有益な情報でしたよ。──と、まぁ、話はもう十分でしょう。ここからはお待ちかねのお仕置きの時間です」
「な、何をするつもり……?」
兵士は少女の胸ぐらを掴み、それを引きちぎった。
少女の上着は千切れ、白いブラウスが顕になる。
「クソガキが。女子供如きが調子に乗ってんじゃねぇぞ? ガキをどうこうする趣味は俺にはないが──。まぁ、幸い、ここにはその手の趣味の奴もいましてね。たっぷりと可愛がってもらって下さいな」
「え……」
少女たちに兵士達が群がる。
仰向けに押さえつけられ、今度はブラウスを引きちぎられる。
「こんなこと──、やっ! くぅ、やめっ、やだっ! やめて、やだぁ!」
少女は、複数人の兵士達に押さえつけられて更に脱がされていく。
「オイ、テメェ! 暴れんじゃねぇ‼︎」
上に乗しかかった兵士が、少女の顔を殴った。
だが、それを、ひとりの兵士が煙草を取り出しながら止めた。
「オイ、それ以上顔はやめておけ。誰か分からなくなったら使え道がなくなる。俺が二本吸い終わるまでに終わらせろよ」
「そりゃねぇよ、短過ぎるぜ」
「そう思うなら、さっさと済ませろ」
兵士が傍で煙草を吸い始めた。
「全く趣味の悪い。俺は娘がいるから理解できんよ。一応言っておくが、お前ら好きにするのは構わんが、くれぐれも殺すなよ」
「首締めはありッスか? 今回は加減するんで──」
「あれはダメだ。この前もそんなことを言って、結局殺しちまったろうが。どうせ最中は、加減なんて忘れちまうんだろ?」
下卑た不快な笑いが部屋に響く。
そして、上にのしかかった兵士が、自身の下半身を顕にする。
「ずっと思ってたんだよ。生意気なクソガキが偉そうに──」
「やっ、やめてっ!」
──そんな様子を、アカリは隣で椅子に座って見ていた。
腑が煮えくり返るほどの不快。
胸糞の悪くなる少女の不幸な結末。
それでも、自分にはどうにも出来ない。
なにせ、現実の事象に介入できる手段を持っていないのだ。
もう見ていたくないと思った。
だから、立ち上がって部屋を去ろうとした。
──その時、少女と目が合った。
見えているはずがない。
──にもかかわらず、彼女は涙ながらに訴えた。
「お願い、助けて──」
その瞬間、アカリの頭の中で何かが弾けた。
そして、衝動的に手を伸ばしていた。
だが、兵士の身体を掴むことすらできない。
その手は、虚空を彷徨うように空を切った。
その勢いで、アカリは床に投げ出されてしまった。
「クソッ! ──なんで俺は何もできないんだっ!」
その時、ふと何かが指に当たった。
──それは、破損した紋章入りの短剣だった。