第1話 迷いの家①
『迷家』とは──────
古い伝承にある幻の家。訪れた者に富や名声をもたらすという。
そこから何でも持ち出せるが、辿り着けるのは道に迷う者のみ。
──ただし、誰もがその恩恵に与るとは限らない。
*
ある男がいた。
28歳の男性で、名を『蓮宮燈』という。
安アパートの一室に住み、現在は高熱で寝込んでいた。
「事故物件なんてやめておけばよかった。財布は盗まれ、派遣も切られて。犬にも噛まれた。次の仕事を探さないといけないのに、熱出して寝込むし──」
極端に狭くて殺風景なこの空間は、まさにウサギ小屋だ。
所詮は寝に帰るだけだからと普段は気にも留めなかった。
だが、今日は妙に重々しく息苦しいように感じてしまう。
汗を含んだ万年床も、ずっしりと重くのしかかってくるようだ。
「それもこれも、この事故物件のせいだ。引っ越してから碌なことがない。ここには絶対何かいる。取り憑くなら金持ってる奴にしてくれよ……」
木造二階建てのアパート『千影館』──
築50年・全12戸・畳の四畳半・共用トイレ・風呂なし。
近所にコインランドリーはあるが、銭湯は一軒もない。
引き違い窓から見えるのは隣の壁。日当たりは間違いなく最悪だ。
部屋は所謂事故物件で、家賃が月1万円という掘り出し物。
お金のない彼にとっては、まさに渡りに船と言えた。
──だが、引っ越してからは、まるで計られたように不幸続きだった。
「クソォ、引越し中に、犬のフンを踏んだところで気付くべきだった。まさか、近所で『幽霊屋敷』とか呼ばれているなんて知らないし──」
じわりと視界が滲む。
「小さい時は良かったなぁ。中学ぐらいまではよく女の子に間違われて、嫌で嫌で仕方がなかったけど。今にして思えば、あの頃が一番モテてた気がする。というか、それ以降、モテた記憶もないけど。ああ、あの頃に戻りたい。タイムリープしてやり直したい──」
目の端から溢れていくのを、もう止めることはできなかった。
「俺はここで死んじゃうんだ……。嫌だぁ……、俺だって本当は誰かに──。ゴホッ! ブホッ! な、なんだ? なんか煙い──」
扉の隙間から、次々と黒い煙が入り込んできている。
「え? 火事? 嘘でしょ⁉︎ 本当に⁉︎ 火事⁉︎ もうこれ、完全に呪われ──。ゴホッ! ゲホッ! 嫌だっ、こんな死に方──っ‼︎」
記憶はそこで途切れた──
*
──見知らぬ部屋だった。
ベッドで目を覚ました時、奇妙な感覚の中にあった。
安心感と違和感の混在したような──
真っ白い壁。焦茶色の腰壁。アンティークの家具。
統一された色合いは、自然に荘厳な趣を意識させた。
少々古風な建築様式だが、さぞ高級な洋館なのだろう。
外に目をやると、階下に緑豊かな森林が広がっている。
だが、古びた上げ下げ窓は固く、少しも動かなかった。
「ここはどこだ? たしか、熱で寝込んでいたような──」
──だが、結局、この洋館へと至る記憶は存在しない。
それどころか、最後の記憶はそのまま死亡したとすら思える内容だ。
「つまり、ここは天国とか極楽とか。そういうアレってこと……?」
机の上には、古びた革装丁の洋書らしきものが一冊のみ。
不可思議な文字が刻まれており、タイトルすらも判読できない。
パラパラと捲ると、どの頁にも絵本のような大きな絵が描かれていた。
内容は判然としないが、どうやら不思議な家の物語のようだ。
アンティークのクローゼットには、いくつかの洋服がかかっている。
引き出しには、綺麗に畳まれた下着や靴下、ハンカチなどがあった。
どれも落ち着いた色合いの物ばかりで、クラシカルな西洋を思わせる。
ざっと室内を物色してみても、ひとつとして覚えがない。
結局、何の手掛かりもなかった。
──ふと、とある物が目に入った。
壁にかけられた大きな姿見。
そこに自身の全身が映っていた。
「なんで? これはどういう──」
鏡の中にいたのは自分。
ただし、女の子と間違われていた頃の、だ。
およそ12〜14歳で、襟足の長い髪はしっとりサラサラ。前髪はパッツン。
記憶にある髪型だが、ここまで中性的だったのは一体誰の趣味か。
服装も、ダークグレーのスラックスにベストというフォーマルな装い。
まるでピアノの発表会にでも行ってきたようだ。
目の前の状況は、あまりにも現実離れし過ぎていた。
「なんだこれ、意味が分からない……」
肉体が若返ったのか、タイムリープしたのか。それともやはり夢か天国か。
ただ鏡を呆然と見ていても、答えが出るわけもない。
まずは状況確認の為、屋敷の探索を始めるとする──
*
廊下へと出る。
部屋の外もアンティークな西洋様式だった。
だが、すぐさまその異様さに気付く。
「なんだこれ……」
廊下は左右のどちらにも続いている。──遥か先まで端が見えないほどに。
果てしなく続く廊下、果てしなく続いていく無数の扉。
まるで鏡仕掛けのトリックアートでも見ている気分だ。
──その瞬間、ハッと気付く。
目の前の光景は、何の変哲もない廊下に変わっていた。
それこそ一瞬の瞬きの間に、無限の廊下は消えてしまった。
「幻覚……? 何が何だか分からない。ここは一体どこなんだ?」
廊下を抜けると、吹き抜けのエントランスホールに出る。
だが、玄関扉はぴくりとも動かない。
他の部屋の窓なども確認してみたが、なぜだか同様に開けられなかった。
「固い──。いや、そもそも開かないように出来ている、そんな感じだ」
──その時、エントランスホールで音がする。
「誰か来た。まさか家主じゃ……。まずいぞ。こんなところ見つかったら洒落にならない。どうしよう、どこかに隠れるところは──」
二階の廊下から、吹き抜けのエントランスホールをこっそり覗く。
そこにいたのは、随分と薄汚れた格好の男性であった。
服装は古風な西洋様式で、随分と時代錯誤な格好に思えた。
辺りをキョロキョロと見渡している。──確実に家主ではない。
勇気を出して話しかけることにする。
「あの! すみません!」
だが、聞こえていないのか何の応答もない。
そうしている間に、彼は屋敷の奥に部屋へと進んでいってしまう。
「あの! 貴方もここに迷い込ん──、って聞こえていない……?」
だが、彼は意味不明な言葉を叫び、慌てて屋敷の外まで逃げていった。
「なんだ? どうして──、あ!」
そこは応接室だった。
テーブルには、湯気の立ったティーカップが置いてある。
「誰かいるのか? いや、屋敷内は全部見たけど誰も──」
不思議なことに、それはいつの間にか消えていた。
結局、屋敷から出られないまま、時間は過ぎていく。
その代わり、考える時間だけはあった。──膨大に、もしくは無限に。
「腹が減らない。眠くもならない。一体何なんだここは──」
そうして呆然とする間も、屋敷には様々なヒトが訪れた。
だが、それはいつも違うヒトで、しかも皆同じように逃げていった。
「あの! もしもし! すみません! ──あ、待って!」
中には、満身創痍でそのまま動かなくなってしまうヒトもいた。
恐ろしくなって遠巻きに見ていたが、いつの間にか居なくなっていた。
その間、訪れるヒトに何度も呼び掛けた。
時には目の前で話しかけてもみた。
そして、思い切って触れようともした。
──だが、誰ひとり応えてはくれなかった。
「ははは。そうか、そういうことか──。見えていないんだ。誰も俺のことが見えていない、きっと最初からずっと。触れることもできないんじゃ──、こんなのまるで幽霊じゃないか」
*
目覚めた部屋に置いてあった例の洋書。
ずっと気になっていた。
難解な言語であったが、なぜだかこれが重要なものに思えた。
しかも、不思議なことにいつの間にか読めるようになっていた。
本のタイトルは『迷いの家』──
物語は、全焼した幽霊屋敷が異なる世界へ旅立つというものだ。
幽霊屋敷には想いがあり、その為に『迷いの家』へと生まれ変わる。
訪れた者は、何でも持ち帰ることができる。
それにより、富や名声といった恩恵に与れるという。
「やっぱりこれ『迷家』のことだな。たしか東北あたりの伝承で──。そうか、この本は──。要は、これはこの屋敷のことだ。この屋敷こそが迷家で、あの幽霊屋敷の生まれ変わりなんだ」
ただ読むことはできるものの、すべてが理解できるわけではなかった。
「『夢幻の座より流れるのを、無限の器に収め──』。うーん、よく分からん。たしか迷家の伝承では、穀物が無限湧きするお椀か何かで、裕福になった話があったはずだけど──。そのお椀がこの無限の器ってことかな」
また、そこには明らかにおかしなことも書かれていた。
「それにしても、冒頭の『炎に包まれた時、幸い屋敷は無人だった』って、これはどういう意味なんだ? ──俺は焼死したんじゃないのか?」
だが、それ以上の手掛かりは得られなかった。
この場所で、ただ無意に時間を過ごす。──それ以外にやりようもない。
大抵の時間は読書をして過ごす。幸い、本だけはたくさんあった。
見知らぬ世界の物語は、暇つぶしにも現実逃避にも丁度良かった。
来訪者が来ると、見えないのを良いことに傍でじっと観察する。
いつの間にか、彼らの言葉も理解できるようになっていた。
だが、どうでもいい独り言か、叫び声ばかりで大した暇つぶしにもならない。
無様に逃げ出す来訪者を見て、手を叩いて大袈裟に笑ってみたりした。
次の来訪者が男か女か、逃げるか逃げないか。──そんな暇つぶしをした。
だが、それも割とすぐに飽きた。
自分はここにいるのに、現実のながれには何ら影響を与えない。
いてもいなくてもいい。所詮、どうでもいい存在。
あまりにも暇過ぎて、どんな来訪者が来たかをひたすら記録した──
約30代の貧困男性。何も取らずにすぐ逃亡。
約20代の裕福男性。何も取らずにすぐ逃亡。
約10代の貧困少年。食料品を取るが、食堂で倒れて消失。
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約30代の貧困女性。何も取らず、応接室で倒れて消失。
約30代の貧困男性。燭台を盗んですぐ逃亡。
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約20代の兵士男性。何も取らず、少し休んで逃亡。
約20代の兵士男性。何も取らずに、玄関ですぐ倒れて消失。
約40代の貧困男性。何も取らずにすぐ逃亡──。
そんな風に何冊ものノートを埋め尽くしていく。
それにどんな意味があるのか分からない。
けれど、他にやることもなかった。
いつしか思考は薄暗い沼に蝕まれていく。
記録は続けても、ヒトというもの自体の興味は失せていた。
目を覚ましたのは、一体何日前のことであったか。
それとも何週間前か──
いや、何ヶ月──
それとも何年──
何十年──
何百年──
長い長い年月が過ぎていった。
──そんなある日、とある少女が迷家を訪れる。