免許証
ふと外を眺めると、新幹線の窓に水滴がぽつぽつとまとわりついていた。三年ぶりに眺める富士山はどんよりとした梅雨曇りの雲の中、どこか不機嫌そうに姿を隠している。どうやら少し雨が降り始めたようだ。線路沿いには工場と住宅街が入り混じった街並みが広がり、眺めているとなぜか全く知らない場所に来たような気がした。
ひさしぶりの静岡駅は何も変わっていないように見えた。学校終わりの時間に重なったのか、行き交う高校生たちの東京より幾分控えめな喧騒に包まれながら駅の北口へ向かい、駅前の繁華街を歩きながら三年の間に街の変わったところを確かめていく。駅前にあった大型書店は貸会議室になって、マルイは閉店して空きビルになり、部活帰りによく寄っていた家系のラーメンは相変わらず行列していた。変わっていく街と変わらない街が混じり合う中を縫うように歩く。久しぶりの故郷は自分の知っている街とは違って見えた。
少しずつ欠けていくこの街が、私の知っている形でいられるのはいつまでだろうか。自分の中からこの街の形が消えていくことは悲しいことなのだろうか、それとも嬉しいことなのだろうか。六月の生ぬるく湿った風が頬を撫でていく。
「あれ? ユウキだよね、久しぶり! 元気にしてた?」
聞いたことある声が後ろから聞こえ、振り返るとそこにはイツキがいた。イツキとは高校を卒業するまでは付き合っていて、卒業のタイミングで遠距離になってしまうこともあって別れた。別れた後も関係は悪くなかったが、メッセージでのやり取りぐらいで高校を卒業してからは会う機会も無かった。偶然の再会に驚きと喜びを感じた。せっかくなので二人並んでお互いの近況について語り合いながら街中を歩く。街を歩きながら、あちこちに目移りして寄り道をするイツキは高校時代とあまり変わっていないように思えた。三年前から変わらない彼女を見て初めて地元に帰って来たのだという実感がわいてきた。
「ユウキはいつごろまで静岡にいるの?」
「明後日には東京に帰っちゃうよ、免許の更新に来ただけだからね」
「もうちょっとゆっくりしていけばいいのに、せっかく地元に帰ってきたのにもったいなくない?」
「金曜に授業があるからしょうがないよ、本当はもうちょっといたかったけどね」
「そっかー残念だなー」
「そっちは最近どうなの?」
「うーん、まあ、可もなく不可もなくって感じかなー」
「なんだよそれ、意味わかんねーよ」
「まあ、大学生活は充実しているけど、いろいろ悩みもあるわけですよ。就活とか、就活とか、就活とか」
「全部就活じゃん! 確かにそろそろやばいよなぁ……」
「そうなんだよねぇ…… もう四年かと思うと気が滅入っちゃうよ。ユウキは東京と静岡どっちで就職するの?」
「今のところは東京でしようと思ってる。やっぱり東京のほうがやりたい仕事が多いし。イツキはどうするの?」
「うーん、今のところは静岡でしようかなって思ってる。大学も静岡だし、それにやっぱりこの街が好きなんだよね。この街に育ててもらったみたいな所があるし。だからこの街のためになる仕事をして、恩返しをしたいの」
イツキは私の目を見てそう言った。そんなイツキがとてもまぶしく感じ、その後も会話を交わしたが頭の中ではイツキの言葉がリフレインしていた。私の心の中のやましさに彼女は気づいているだろうか。そうやって故郷が好きだと言って、地元で働こうとしているイツキと故郷に帰る気のない自分を見比べ、どこか自分が裏切り者のように感じて、彼女の目をまっすぐ見ることが出来なかった。自分は故郷を愛していても、一方で故郷を捨てた人間でもあるのだから。
次の日の朝、親の車を借りて免許センターへ向かった。初回の更新は二時間の講習を受けなければいけない。基本的に聞いているだけなので退屈なものだが、これのためだけにわざわざ静岡まで来たのだ。
改めて考えればなんて無駄なことをしているのだろうか。警察署に行って住所を変更しておけば東京で済んだはずなのに。でもそれは嫌だった。理由があったわけではない、なんとなく嫌だった。どうしてなのか自分でもわからなかった。
八時半になって受付が始まった。並んでいる人たちがカウンターに一人ずつ呼ばれていく。順番を待っている間昨日のイツキとの会話が頭の中を往復していた。手元の住所と顔写真の入った免許証をなんとなく眺め昨日の会話を思い出していると、自分がなぜ免許証の住所を変えたくなかったのかふと理解できた気がした。
この免許証は鎖なのかもしれない。故郷と私をつなぐ鎖、それがこの免許証だった。この免許証の住所が変わらない限り私は故郷を捨てていないと信じたかったのだろうか。くだらない理由だと感じた。
順番が回ってきてカウンターに呼ばれる。更新はがきと免許証を提出し、住所変更はないかを聞かれ、無いと答えた。
二時間の講習が終わった後、新たな免許証が配られた。新しい免許証はこれまでのものと何ら変わりのないものだった。私はまた三年後に静岡に帰ってきているのだろうか。
帰りの新幹線がゆっくりとホームを滑り出た。今度静岡に帰るのはいつになるのだろうか。静岡駅を出発したころには降っていた雨が新富士を通り過ぎるころには止んでいた。行きに見えなかった富士山が頂上まできれいに見渡せる。家を出る前に早めの梅雨明けのニュースが流れていたことを思い出した。夕焼けに染まる富士山を眺めていると、トンネルに入ってしまい富士山は見えなくなった。新幹線は東京駅に滑り込み、また日常が始まった。いつか帰ると考えながら。