初恋の彼は、優しくて不器用な魔法使いでした。あなたの嘘に守られて、わたしは今日も幸せに生きています。
きっと君を迎えに来るよ。
孤児院を出ていく彼とわたしが指切りを交わしたのは、春雨けぶるある夜のこと。幼い約束はすなわち優しい嘘。守られるはずなどないことくらい、わたしにだって初めからわかっていた。
お貴族さまの血を引く彼と、院長の補佐として働くしか能のないみなしごのわたし。しかも彼は、貴族の中でも一握りしか発現できない魔法が使えるのだという。とうてい、釣り合うはずがない。
彼は、父親の家柄と彼自身の才能にふさわしいひとを娶るだろう。あかぎれだらけの手を持つやせっぽちではなく、白パンのように柔らかく甘い匂いのする女を愛おしむのだ。
さよならとともに頬に落とされた口づけは、わたしの中で一番美しい思い出だった。これさえあればどんな辛いことがあったとしても、一生笑顔で暮らしていける、そう思っていたのに。
彼は本当にわたしを迎えに来た。真っ赤な薔薇の花束を握りしめ、深緑の瞳を凍りつかせたままで。
「ローズさま、お迎えに参りました」
彼の代わりに言葉を発した男ーー後から確認したところによると家令だったーーの目は、値踏みするようにわたしを見下ろしていた。いや、事実値踏みしていたのだろう。使えるか、使えないか。不要になったときは、処分できるか。そこまで計算し尽くした上で、身寄りのないわたしに声をかけたに違いないのだから。
久方ぶりに再会した彼は、人形のようだった。年を重ねたにも関わらず、美しい相貌はそのままに、感情を感じさせることのないその面。貴族になるということが人間らしさを失うことと同義だというのなら、やはりわたしは平民で良かったのだろう。
迎えに来たという言葉とは裏腹に、彼の瞳はわたしを映さなかった。大切にしまいこんでいたはずの思い出が、てのひらからあっという間にこぼれ落ちていく。
小さなクッキーをふたりで分けあったこと。
庭の片隅に咲いた菫を栞にして飾ったこと。
色褪せた絵本を擦りきれるまで読んだこと。
わたしの知る小さな優しい男の子は、もうどこにもいない。それも当たり前の話か。彼がこの孤児院を出てもう何年経つというのだ。わたしもすでに40歳を迎えている。いまだに夢を見ているほうがおかしいのだ。
男がわたしに告げた。
「旦那さまの無聊をお慰めするように。温情に感謝し励みなさい。衣食住はこちらで保証します。もしもお子ができたなら、ひとり生まれるごとに褒美を与えましょう。もちろん子どもの世話にあなたが関わる必要はありません。ゆめゆめ勘違いなどなさいませんよう」
こちらの都合などまるで無視した言葉。提案や契約ですらなく、単なる命令。貴族の血を引く赤子を授かるために腹を貸せと言われて、誰が従うだろう。妻として大事にされることもなく、妾として慈しまれるわけでもなく、ただの道具として使い潰されるなんて。
それでもわたしには、従うよりほかに残された道などないこともまたわかっていた。
「もちろん、喜んでお受けいたします」
わたしは薔薇の花束を受けとり頭を下げた。薔薇は、丁寧に棘が払われているのだろう、きつく握りしめたところで指先を傷つけることもない。それが今のわたしには、なぜかたまらなく厭わしかった。
******
連れてこられたお屋敷は、贅を尽くしたものだった。緩やかにカーブを描いた薔薇のアーチをくぐれば、たくさんの使用人たちに出迎えられる。
この国はとても貧しい。赤子を平気で孤児院に投げ捨てるくらいには。小さな子どもがひもじさを抱えて眠れぬ夜を過ごすほどには。一部の貴族だけが優雅な暮らしをし、国王は戦ばかりしている。春をひさぐか、傭兵として身を立てるか。親の顔を知らぬ子どもには、それくらいしか生きる術がない。同じ国に住むものとは思えぬ暮らしぶりに、わたしはめまいさえ覚えた。
与えられた部屋は屋敷の離れだったが、それでも恐れ多いほどの華やかさだった。貴族の贅沢を支えるために、わたしたちは生きているわけではないのに。部屋の調度品ひとつで、白パンがいくつ買えることだろう。
美しいドレスに、柔らかな寝具。心地よいはずのそれに、何日経っても慣れることができなかった。
馴染むことのできないものと言えばもうひとつ。他人に世話をされるということ。着替えに髪結い、湯浴みに手水に至るまで、すべて誰かの手と目がある。それはどこか監視にも似ていた。
「お食事をお持ちしました」
いつも通り部屋の中にワゴンを持ってきた年嵩の女性は、淡々と給仕をする。敬意などあるはずもなく、瞳によぎるのはただ侮蔑の色だけ。真っ当に働いていると自負する使用人たちからすれば、わたしはお金欲しさに足を開くはしたない女でしかないようだ。それは少し事実とは異なるものだけれど、訂正するつもりもなかった。
「いつもありがとうございます。今日のお料理も美味しそうですね」
当然ながら、返事はない。わたしも期待してはいない。行儀悪くフォークを肉に突き立てて振り回してみれば、彼女はあからさまに眉をひそめた。
「昨日は髪の毛、一昨日はハエ。その前は芋虫。今日は何が出てくるのかしら」
お上品な彼らは、わたしの食事に毒を入れることはない。せいぜい、雑巾の絞り汁を入れたり、髪の毛や虫の死骸を浮かべるくらいだ。地べたの泥水をすすってきた人間からすれば、嫌がらせのうちにも入らない。けれど、誰が好き好んで他人の悪意に触れたいだろう。
「この屋敷のみなさんは、本当に思いやりがあって素晴らしい方々ばかり。わたしがみなさんのことについてお話ししたなら、旦那さまたちはなんとおっしゃるでしょうね」
かつて彼は、ひと欠片のパンを得ることにさえ苦労した。そんな経験を持つ人間が、嫌がらせのために使用人が食べ物を粗末にしたと知れば、どんな反応を示すだろう。それとも贅沢に慣れきった彼は、そんな過去のひもじささえ忘れてしまっただろうか。
彼が何も言わなかったとしても、家令のあの男は何かしらの行動を起こすだろう。あの男はわたし自身を尊重してはいないが、主人の子どもを宿すかもしれないわたしの腹は大切に思っている。わざわざ高い金を払って引き取ってきた畑を汚されることをよしとはしないはずだ。
ひくりと彼女が震える。なるほど、今日もしっかり混入済みだったらしい。探し当てたものがわりと大物だったこともあり、わたしはそれを差し出した。
「良ければ、一口いかがですか。今日のお食事は、今まで以上に美味しそう」
真っ青になった彼女は震える手でわたしの手を押しとどめようとする。陰険ないたずらを考えるくせに、こちら側が反撃するなんて考えてもいないらしい。世間知らずの小娘ならばともかく、盛りを過ぎた年増が泣き暮らすはずもないのに。
固まってしまった彼女の前で、それをフォークに刺したままを床に投げ捨てた。
「あら、手が滑ってしまいました。申し訳ありませんが、昼食は下げてください。どうにも気分が悪くて」
労力を割いて他人を害そうとするひとの気持ちがわからない。気に食わなければ、無視しておけばよいのに。彼女を追い出せば、また静かな時間が戻ってきた。
窓際に飾られた薔薇の花の香りはむせかえるほどに濃厚だ。そのまま掴んで窓の外に投げ捨てたくなる気持ちを必死で押さえ、カーテンはそのままに窓を開けた。
窓からは、荒れ果てた裏庭が見える。薔薇のアーチが美しい、屋敷の表側からは想像もできない寂れた場所だ。このひび割れた土地に種をまき、水をやったところで何も育ちはしないだろう。かつては鮮やかな枝葉を繁らせていたであろうオリーブの切り株が痛々しい。
本当に可哀想だ。
あなたも。それにわたしも。
******
食事を持ってくる女性たちさえいなければ、信じられないほど穏やかな日々。その静寂を破ったのはあの家令だった。
「本当に、ローズさまは愛されていらっしゃる。羨ましい限りです」
旦那さまからだという品物をこちらに寄越しながら、彼は繰り返す。箱の中身は、薔薇を模したルビーのペンダント。わたしはそれを再び箱に戻し、備え付けの机の引き出しに放り込んだ。こんなもの、腹の足しにもなりやしない。部屋から出ることのできないわたしには、換金し、孤児院へ送ることすらできないのだから。
「美しい宝石や艶やかなドレスを贈られてなお物憂げな顔を見せるあなただからこそ、旦那さまはお心を砕かれるのでしょうね」
優しげに見えて棘が潜む彼の言葉を、わたしはにこやかに聞き流してみせた。これもまた年の功だ。
実のところわたしは、薔薇の花などこれっぽっちも好きではない。ローズという名前だって、かつての院長によって規則的に与えられた代物だ。
孤児院の子どもたちは、施設に預けられた順に花の名前をつけられる。わかりやすいように。覚えやすいように。いつか「花」として売りに出すときに、不必要に心が痛まないように。
Quamoclitの次だったから、私はRoseだった。次の子どもは、Safinia。それからThistle。同じRだからと、Rafflesiaなんて名づけられずに済んだことは幸せなのかもしれない。
黒いドレスだってそうだ。喪服のようで陰気くさくてたまらない。汚れが目立ちにくいことだけが利点の黒は、わたしにとって孤児院の色だ。
彼は本当に忘れてしまったのだろうか。それともこれがわたしの好みだと嘘をつくほど、わたしが憎たらしいのだろうか。
「それで、一体何をしようと?」
「いえいえ、今のままではあなたはあまりにも旦那さまのお役に立てないようですから、やる気が出るようにお手伝いしようかと思いましてね」
頬を打たれるのかと思い身を固くすれば、肩をすくめられた。
「まったく発想が哀れなほどお粗末だ。旦那さまがお越しにならないのなら、その気にさせるのが道具の仕事でしょう」
実際、子どもを作るために買い取られたはずのわたしは、いまだに彼と寝所を共にしてはいなかった。そこを指摘されればうなだれるしかない。
ため息をつく男とともに訪れたのは、屋敷の母屋。そこで彼は、美しく若い女性と穏やかにおしゃべりをしていた。あまつさえ、柔らかな微笑みさえ浮かべて。
思わず足の力が抜けていくようだった。てっきり彼は、貴族になって心を失ったと思っていたのに。
彼が笑ってくれないのは、わたしに対して笑う価値を見出だせないから?
彼が言葉をかけてくれないのは、わたしへの気持ちがひと欠片も残っていないから?
彼がわたしの部屋を訪れないのは、かつての妹分に手を出せないからではなく、卑しい身分の女だから?
小さく震えながら、わたしはその場に座り込んだ。家令はわたしを一瞥すると、長い足で芝生の間から顔を出す名もなき野の花を踏み潰し始めた。靴の下で青い汁がにじむ。
「邪魔な雑草ばかりが次々に生えてくるのです。美しい花を咲かせることもできないくせに、栄養分を奪い取り、執拗に数を増やす。困ったものだ。一本ずつ引き抜いていくのも面倒ですから、いっそまとめて薬をまいてしまおうかと思うこともあるのですよ」
いっそ穏やかにさえ聞こえる男の声音。けれどその瞳はほのぐらく濁っていた。ああ、そうだ。貴族というのはそういうもの。平民など、雑草と同じ。役に立たなければ、処分されて当然なのだ。
本当にわたしが馬鹿だった。意地をはり、彼に媚びることさえしなかったせいで、残してきた子どもたちが見せしめにされてしまうかもしれない。
常ならぬ貴族の訪れに不安を漏らし、涙を流しながら見送ってくれた彼らの姿が脳裏をよぎる。
わたしにあるのは、この体ひとつきり。孤児院に残っていたところで、行き着く先はろくなものではなかっただろう。恋した相手だけに体を売ることが許されるのなら、救いのないこの国では至上の幸福だと言えるに違いない。
その夜、わたしは叱責を覚悟で、彼の寝室に忍び込んだ。部屋のテーブルには例の家令が用意した口当たりの良いワイン。彼にお酒を飲ませた上で、お情けが欲しいとすがりつくつもりだった。
わたしもまたお酒を口にしてきた。この年で生娘であるわたしが夜這いを行うためには、お酒の力を借りるよりほかになかったのだ。
慣れないものを口にしたせいが、気分が高揚していた。寝室に彼の姿は見えない。母屋で見かけた昼間の女性と過ごしているのか、はたまたわたしの計画に勘づいて嫌気がさしたのか。
机の上に置きっぱなしになっていた本をなんとはなしに手に取る。わたしでも知っている有名な詩集だ。ページをめくれば、見覚えのある青い菫の栞がはさまっていることに気がついた。
――薔薇は赤く、菫は青い。砂糖は甘く、あなたも甘い――
歌うように。ささやくように。彼の言葉が聞こえた気がした。それはとても懐かしい記憶。孤児院の庭の片隅で泣いていると、あなたはいつもこの詩を口ずさんで慰めてくれた。僕の可愛い、小さな花と。
初めてのお酒だったせいで、酔いが回り過ぎてしまったのだろうか。目の前には困り顔の彼の姿。いるはずのない、恋しいあなた。愛しくて、悲しくて、わたしは幼かったあの頃のようにその胸にすがりつく。
「どうして、わたしを連れてきたの? 要らないなら、最初から買わないでほしかった。近くにいたら期待してしまうのに。こんな年になって、馬鹿みたい」
あふれる涙を必死で止めようとするわたしを彼は抱きよせ、頬に唇を落とした。かつて彼と別れた春の日の夜のように。
彼がこんな風に優しくしてくれるはずがない。だからこれは全部夢なのだ。
わたしが彼の部屋で未知の快感に翻弄されたのも、彼がまるでわたしを愛しているかのように大切に扱ってくれたのも。すべて、都合のよい夢だったに違いないのだ。
******
翌日、いつも通り自室で目覚めたわたしは、彼が隣国との戦争に召集されたことを知った。体の芯がひきつるような痛みを訴え、昨夜の出来事が幻ではなかったことに愕然とする。
「なんとか間に合って本当にようございました」
満足げにうなずく家令の姿に納得する。なるほど、この男は主人の召集を知っていたから、執拗に肌を合わせるように命じたのだ。万一のことを想定して、彼の子ども――魔法を使うことができる貴族の跡取り――を残させるために。
「そううまくいくでしょうかね」
わたしが彼の子を授かるなど想像もできない。わたしの減らず口に、男は歯をむき出しにして笑うばかりだ。
果たして家令の目論みは成功したようだった。吐き気が止まらず、体調不良に悩まされていたわたしは、医師の診断によって妊娠を告げられた。たった一度の出来事で彼の子どもを宿したことを、家令は「運命」や「奇跡」などではなく、「必然」と呼びおおいに喜んでいた。
産後はどうなるものか。用無しとして処分されるか、彼が無事に戻ってきたあとさらに子どもを産ませるために留め置かれるのか。さきを考えればいやでも不安が押し寄せる。それでも、せめて彼にこの子を見せるまでは生きていたいと願った。
戦況はどうもこの国が劣勢らしい。どうやったものか、空から投降を促すビラがばらまかれたことさえあった。降伏するならば、国民の安全は保証するとも。けれどこの国の王族は、きっと最後のひとりが死ぬまで抗うはずだ。自分たちの首を差し出して、人々の無事を願うような人間ならば、そもそも無謀な戦争など仕掛けないはずなのだから。
大きなお腹を抱えうたた寝をしていると、唐突に部屋の扉が開けられた。その顔に珍しく焦りをにじませていたのは、家令の男だ。
「ノックもなしだなんて、ずいぶんなやり方ね」
「ええ、ちょっと事情が変わりましてね。あなたには、今すぐ私とともに来ていただきたい」
「何を急に……。だいたい何のいわれがあって……」
「本当にあなたは愛されていらっしゃる。あなたは何もご存知ない。彼が誰の血を受け継いでいるのかも。国を変えるための戦いに身を投じていたことも。革命軍と隣国が手を組んだ今、私も身の振り方を考えねばなりません。かくなる上は、あなたの腹の子に役立ってもらうことにしましょう」
男は彼の腹心の部下ではなかったのか。理解できないまま、それでも立ち上がり逃げようとして、髪の毛を掴まれた。つんのめり倒れこんだわたしの手を、男が革靴で踏みつける。
「だいたい、あなたが早く『人形』になっていれば簡単だったのですよ。あなたが好きだという『薔薇』に薬を仕込んだり、『薔薇』に模した魔道具をわざわざ用意したのに、あなたときたらちっとも気に入ってくれないのですから。呪詛返しの素養でも持っているのかと疑ったくらいです」
男の言葉にわたしは愕然とした。だから彼は、すべて薔薇ばかりを贈り物にしたのだろうか。わたしが気に入ってしまうことのないように。
そして黒のドレスは汚れが目立たない。もしもここに何かの呪いがほどこされていたとしても気がつかないほどに。
彼が孤児院を出たあとに一切の連絡をたっていたことさえも、わたしたちの身を守るためだったのかもしれなかった。
腹を庇うように縮こまったその時、部屋に光が満ちた。家令の男を押し潰すようにしているのは、オリーブの枝。切り株になっていたはずのオリーブの木がわたしを守ってくれている。
そっと手を伸ばせば、彼の想いが舞い降りてきた。菫の砂糖漬けのように甘く、宝石のようにきらめく言の葉たち。
「愛している」
「君にすべてを捧げよう」
「力を」
「言葉を」
「想いを」
「君が幸せになれるように」
「僕の心を、守りの魔法に込めよう」
「君が穏やかに暮らせるように」
こんな術が使えるなんて聞いたことがない。初めて目にした魔法は、万華鏡を覗きこんだように美しい。
はらはらと涙があふれだす。冷たいと思っていたあのひとは、幼いあのときから変わらないままだった。
愛するだけで十分だと思っていた。愛されることがこんなに幸せなことだったなんて、わたしは知らなかった。
部屋から溢れだした鮮やかな光は、多くの人の視線を縫い止めている。その隙にわたしはこの身ひとつで屋敷から逃げ出した。
******
結局、戦はわたしの国の負けで終わった。国の偉いひとたちはみんないなくなり、隣の国とともに新しいやり方で国は変わり始めている。
実は、敗戦してからわたしたちの暮らしは以前までよりもずっと楽になった。こんなことなら、もっと早く降伏していたほうがよかったかもしれない。そう軽口を叩けるくらいには、この国は平和になった。
女ひとりで出歩いても売り飛ばされることはない。寡婦であろうとも、それなりの暮らしをしていくことができる。だからこそわたしもまた、生まれたばかりの子どもを抱えなんとか生きてくることができた。
もともと孤児院育ちなのだ。どんなあばらやでも、雨露をしのぐことができればそれで十分だった。
あのひとと離ればなれになってから、もう何度目かの春が過ぎていた。彼がいないまま生まれた子どもは、今日も機嫌よくひとり遊びをしている。
最近では探検と称して、森から小さな獣を捕まえてくるようになった。彼に似て、頭の出来もきっと良いのだろう。将来が楽しみだと思いつつ、十分な教育を与えてやれないことを申し訳なく思った。この子は本来なら、国を支える才能を持っているはずなのだから。
扉のきしむ音がした。もうおやつの時間だろうか。まだ芋が蒸しあがるまでには少しばかり時間がかかる。その間に豆の皮剥きでも手伝ってもらおう。ゆっくりと立ち上がったわたしは、勢いよく抱きしめられた。
「遅くなってごめん」
すぐそばで、あのひとが申し訳なさそうな顔で笑っていた。穏やかに微笑んだその顔には、大きな傷ができていたけれど、生きて帰ってきてくれたことだけがただただ嬉しかった。
「ただいま、ローズ」
「お帰りなさい、オリバー」
たったひとひらの言の葉に数えきれないほどの愛を込めて。重ねた唇は、菫の砂糖漬けよりも、ずっとずっと甘いものだった。
作品内で使った詩の原文はこちら。
Roses are red,
Violets are blue,
sugar is sweet,
And so are you.