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breakfast


 ――五年後、日本


 じゅう、と小気味の良い音がフライパンを上を跳ね回る。卵が熱い鉄板の上に落とされ、透明な白身が瞬く間に白い固形物に姿を変える。

 それを見守る男はどこか楽しげだった。最近巷で流行している軽快なメロディーを口笛で気分良さげに奏で、目玉焼きに塩と胡椒で味付けを施していく。

 ふと、時計を見上げると長針は十二時を回ろうとしていた。

「そろそろか……」

 出来上がった目玉焼きを二つに分けて皿に乗せ、付け合わせのサラダを盛り合わせる。

「ぜったいに今日こそ食わさんとな……」

 男は何かを決意したように神妙な顔付きになると、皿にプチトマトを置いた。

 ようやく食事の支度が完成し、自分のコーヒーを入れようとコーヒーメーカーに手をかけたとき、がんがんと乱暴な音が玄関から響いた。

「…………」

 ぴたり、と動きを止めて居留守を決め込もうとした男を急かすように、扉を叩く音はより大きく乱暴になっていく。

 男は一分経っても止むことのない騒音に溜め息を吐くと、扉の向こう側へと声を張り上げた。

「……はいはい、今行きますよ!」

 返事は聞こえているだろうに扉の騒音は止む気配はなく、出て来るまで絶対止めないんだろうな、と男は憂鬱な気分になったまま扉を開けた。

「もう!ガルムちゃん、おっそ〜い!」

「ミキさん……って酒臭っ……!」

 扉を開けた先には酒によって芯まで溶かされた女が一人でふらふらと立っていた。

 彼が知っているのは彼女が普段名乗っている名前がミキということ、彼女が大した蟒蛇(うわばみ)だと言うこと、彼女が日本人ではなく東南アジアから流れてきた不法入国者のホステスであるということ。

 そして救い難いくらいにはた迷惑な女であること、くらいだ。

「えへぇー、ちょっと水道止められちゃってネ〜……うぷっ……お水ちょうだい?」

「またですか……って、吐くなよ!絶対ここで吐くなよ!」

 ミキにガルムと呼ばれた男は慌てて部屋に戻るとコップに勢いよく水を注いで、また逆方向へと引き返す。

 差し出されたコップを豪快にがぶ飲みすると、大きく息を吐いた。

「ぷはぁっ……生き返るわぁー」

「オヤジ臭いですよ、ミキさん……」

 ミキはげんなりした様子の男の反応にも、まったく意に介した様子もなく、くんくんと犬のように鼻を鳴らすと部屋の中を覗き込む。

「あら、今頃食事?相変わらず生活リズムが滅茶苦茶ね」

「……あんたにだけは言われたくないですね」

「やだ、怖い顔しちゃせっかくのハンサムが台無しよぉ?」

 ミキがぱちっとウインクするのを見て、青年はがくりと肩を落とした。

 この女と彼は、彼が三年前にこの雑居ビルに引っ越してきたその日に、厚かましくも引っ越し蕎麦をねだりに来たその日からの付き合いだ。

 慣れぬ日本での生活に戸惑っていた外国人の彼をいろいろと助けてくれたが、その三倍ほど世話してやっているのが現状だった。

 ただ、性格に裏表はなく、悪い人間ではない、それだけが彼にとって救いであろうか。

「ふぅ……ごちそーさまでした」

「お粗末様です、ってただの水道水ですが」

「違うわよ。ガルムちゃんの愛がたぁーっぷり」

「回れ右して自分の部屋へ帰れ」

 急いで扉を閉めようとするも、するりと長い脚を扉の隙間に差し込まれて、それを阻まれる。

 しかたなく少し扉を開けてやると、にゅっと顔を覗かせて、部屋の中を見回した。

「……まだ何か(たか)る気ですか?」

「そんなんじゃないわよ……お姫ちゃんは?」

「今起こそうとしてたとこですよ……」

 廊下の奥を振り返って見ると、彼女の部屋の扉はまだ閉ざされたままで少しも音がしなかった。

 ミキは残念そうに溜め息を吐いて扉の隙間から頭を引き抜いた。

「ざーんねん、タイミング悪かったにゃー」

「あ、じゃあ会っていきますか?どうせ今から起こしますし」

「いいわ。あたしもいい加減眠いし、邪魔しちゃ悪いし」

「……邪魔?」

 首を傾げるガルムにミキはにぃと意地の悪い笑みを向けた。

「……王子様からお姫様への目覚のキス」

「二度と来るな!!」

 近所迷惑も考えずに大声で怒鳴ると、扉を勢い良く閉めた。

 扉の向こうからはげらげらと楽しそうに笑うミキの声が聞こえ、また遊ばれたのだと気づいて自己嫌悪で軽く死にたくなった。

「ったく……」

 恥ずかしさを紛らわすように舌打ちするともう十分経っていたことに気づいて、慌てて本来の作業へと戻った。






 こんこん、と扉をノックする。しかし、返事は返ってこない。

「朱杏、入るよ」

 もはや通過儀礼と化した言葉にもまったく反応を示さない。いつものことだが、軽く溜め息が出てしまう。

 扉を開けると、中から包み込むような甘い空気と共に大量のファンシーなぬいぐるみが彼を出迎えた。ピンクの熊やらブルーのイルカ、オレンジの猿のぬいぐるみ達が床一面に氾濫していて、足の踏み場を見いだすのにも一苦労だ。

 なにせ、この部屋の主は踏まれたぬいぐるみを見つけると、目に一杯の涙を溜めてお怒りになるので、ぬいぐるみと言えど迂闊に扱うことは許されない。

 男はひどく慎重に僅かに覗く床に足を着いて、時にはぬいぐるみを避難させながら、目的の場所を目指す。

 おびただしい数のぬいぐるみ達に囲まれたダブルサイズのベッドで、彼女は安らかな寝息を立てていた。

「朱杏……起きろ。もう食事も出来てるよ」

 男はくしゃくしゃになった白いシーツが作る小さな山の頂に手を置くと、軽く揺すった。

 シーツの裾から覗く処女雪のように白い小さな足がもぞもぞと動くのが見える。しかし、それも束の間、すぐ足はシーツの山の洞に消えた。

 決して起きようとはせず、睡眠行動を止めようとはしない。

「朱杏……いい加減に起きなさい」

 再び揺すってみるが、今度は山から細い腕がにょきと突き出され、ぶんぶんと振り回して周囲を薙払う。あくまで徹底抗戦の構えである。

「……朱杏」

 むー、むー、と山の中から不機嫌そうな幼いうめき声が響く。人間の言葉に直訳すると『あっちに行け』。

「…………いい加減に起きろぉ!!」

 がばぁ、と要塞のようなシーツの山を勢い良く捲り上げると、中に籠もっていた小さな少女が露わになった。

「…………うゅ」

 朱杏と呼ばれた少女は、子供らしい舌足らずな声でうめくと、猫のようにごしごしと目を擦り、眠気にとろけた眼差しを男へと向けた。

「…………ぅ」

「おはよう。朱杏」







「……ぅ」

「ダーメ。ちゃんと食べなさい」

 ガルムの対面に腰掛ける少女――劉朱杏(リュウ・ジュアン)は不満そうに唇を突き出して、箸で皿の上のプチトマトを転がしていた。

 机の下で行儀悪くぶらぶらと振られた脚は抜けるように白く、処女雪のようであり、同じ色の頬には薄く紅の色が差している。

 傾国、沈魚落雁、閉月羞花。それらの言葉にそのまま形を与えたかのような美少女だ。

 しかし、小さな鼻の上に乗った眼鏡の奥にある目はいまだに眠そうにしょぼしょぼとしており、見る者に微笑ましさを与えている。

「…………」

 よほど目の前の赤い実が苦手なのか、少女は首を傾げて上目遣いに男に助けを求める。

 可憐そのものを絵に描いたような表情に、並みの男なら屈してしまいそうであったが、男はくすりともせずに冷酷な一言を告げる。

「ダメ。食べるまでお菓子抜きだからな」

 途端に雷に打たれたように愕然とし、涙目になる少女。

 再び箸を握り直して、親の仇を見るような目でトマトに相対する。

 ころころと移り変わる表情に青年の口に笑みがこぼれた。





 この少女は言葉を話せない。

 喋れないのではない。単純に話すべき言葉を知らないだけだ。

 しかし、青年と少女の間ではそんなことは大した問題ではなかった。

 少女はなんの屈託なく青年に甘えているし、青年もまたその少女の想いに応えることが出来るからだ。

 言語を越えた信頼が、絆のようなものが、確かに二人には存在する。

 今のところ、二人にはそれで十分だった。






 テレビでは、やたらとひらひらした制服に身を包んだ女子高生たちが一人の頼りなさそうな男子を囲んで、大好き、だの、あんたなんて別に好きじゃないんだからね、だのと大騒ぎしていた。

 ガルムには未だに理解し難いようだが、朱杏はこうした日本のアニメーションが大好きなので、彼女が起きているときはテレビではそればかり流している。

 もっとも、その朱杏は空っぽになった皿の上にぽつんと残されたプチトマトと戦っているので、そちらに注意は割かれていなかったが。

「…………」

「……ふわぁ」

 時計の針が深夜三時を回り、体内時計が眠気をまき散らしている。

 しかし、日が昇るまでは眠るわけにはいかないので、ガルムは台所でコーヒーを入れるべく立ち上がる。

「…………」

 しめた、とばかりに朱杏の顔が笑みに歪んだ。

 すばやく眼鏡を外して、目の前のトマトに視線を集中させる。

 すると、いい加減水気が飛んでしまい、くたびれていたトマトが左右に振動を始める。

 さらに集中すると、トマトが宙に浮いた。

 朱杏にも力が入り、顔が見る見る内にトマトと同じように赤くなっていき、息も上がる。

 しかし、そうこうしているとトマトがふわふわと宙を漂い、少し離れた場所にあるゴミ箱へと少しずつ近づいていく。

 近づくにつれて、朱杏の顔が晴れやかになっていく。あと少し、あと少しで悪魔の実を食べることなく闇に葬りされる、とでも言わんばかりに。


「――朱杏!!」


 ガルムの怒鳴り声にびくっ、と彼女の背が跳ねた。赤かった顔は瞬く間に青くなり、目尻に涙が浮かぶ。

 べちゃ、とトマトが床に墜ちた。

 静寂の後、彼女にかけられたガルムの声はいつになく低かった。

「……“邪眼”を使ったな?」

 朱杏は、俯いたままこくん、と首を小さく縦に振った。





 古来より、人を害する瞳を持った存在は多くの伝説にその姿を現す。


 ――視た者を石に変える瞳を持つゴルゴン。


 ――視ると死をもたらす瞳を持つバジリスク。


 ――邪視を持った堕天使サリエル。


 邪眼とはそれらのような視ることによって、視た対象に影響を及ぼす術の総称だ。

 朱杏がしたように単純に物を動かすことから、視た物を発火させたり、視た人間に催眠術をかけたり、とその用途は多岐へと渡る。

 無論、並の人間が何時間トマトを見つめようが宙に浮いたりはしない。

 そう、朱杏は“並みの人間”ではないのだ。





「それは駄目だ、って言ったろ?」

「…………」

 ガルムの問いかけにも、俯いたまま顔を上げない。ただ膝の上に置いた掌を強く引き結び、震えている。

 目に玉のような涙を一杯に溜め、唇を噛み締めて嗚咽を隠そうとしているのが分かる。

 こうなってしまうと、途端にガルムはふにゃふにゃと弱くなる。彼女を泣かせてしまった自分に猛烈な罪悪感が押し寄せてくるからだ。

「あー……朱杏?」

「…………ぅぅ」

「その、なんだ。怒鳴っちまったのは俺のミスで、実はそれほどには怒ってないんだ」

 ようやく、朱杏が恐る恐る顔を上げた。

 涙でびしょびしょになった目でじっ、と彼の顔を下から覗き込む。

 もう彼に彼女を叱るような言葉は残されていなかった。

「……俺は、食べ物を粗末にしちゃあいけないよ、って言いたかっただけなんだ」

「…………」

「あー……えっと」

「………………」

「…………朱杏?」

「……………………」

「……………………………………そろそろ、おやつにしようか」

 ぱぁっ、と朱杏の顔が日が昇ったかのように明るくなる。

 はぁ、と自身の意志の弱さを嘆く溜め息を吐くガルムの腹に何も知らない朱杏が抱きつく。

「……やれやれ」

 無邪気に笑う彼女の笑顔を見ていると、一人で気を揉んでいるのが馬鹿らしく思えた。

「まーた、今日も食わせれんかった」

 床の上に墜落した哀れなプチトマトを見やる。

 本日で三十七戦零勝三十七敗。

 朱杏の好き嫌いが克服される日は遠く、彼は今日もまたホットケーキを焼かされるのであった。









 明け方五時過ぎになって、再び朱杏は眠りに着いた。

 すぅすぅ、と小さな肩を上下させて安らかな寝顔をしている。

 自分の手を握る彼女の掌が緩むのを感じ、完全に眠りに落ちたのを確認して、ようやくガルムは立ち上がった。

 思い切り背伸びをして締まりのない顔で大きく欠伸をすると、彼女の部屋を後にした。

「さて……洗濯も済ましたし、いっちょ夕方まで寝ますかね」

 ぴんぽーん。

 ガルムの睡眠への欲求を嘲笑うように入り口の呼び鈴が鳴らされる。

「……ったく、間の悪い。趙さんか?」

 これまたはた迷惑な博打狂いの顔を思い出してうんざりするも、夜明けまで間もないので急いで玄関に向かう。

「……はいはい、金ならもう貸しませんよ」

「生憎、海外就労者の君から金を借りるほど私は困窮してないよ」

 靴が床を打つ音に急かされて、扉を開けるとそこにいたのは意外過ぎる人物だった。

「……九堂」

「やぁ、ご無沙汰してたね。と、言うのも君が私のところに寄り付かないのも原因だろうがね。まぁ、そんなことはいい。それよりもせっかくこうして再会したのだから、旧交を暖めたいものだな。なぁ、ガルム君?」

 彼を迎えたのと同時に言葉を挟む暇すら与えない早口でまくし立てたのは、背の高い女だった。

 肩ほどまである髪を後ろで一本に束ね、メンズのスーツに身を包んだその姿は典型的な仕事女というよりは男装の麗人といった体だ。

 ノーメイクの顔には自信に満ちた強い笑みが浮かんでおり、射抜くような強い眼光が彼の目に突き刺さっている。

 それに対するガルムの顔は苦い色に染まりきっていた。

「……霞ヶ関の偉いさんがこんな外人のとこに何の用だ?」

「ふふ、君たちの入国を世話してやった身としては君たちのことが気になるのさ……。お姫様は元気かい?」

「用を言え。こちとらただの出稼ぎの振りしてんだ、あんたみたいなのと連んでるの見られたら怪しまれるだろうが」

「ガルム君、日本語うまくなったね〜。まぁいいや、じゃあこれ」

 ガルムは軽口と共に渡された茶封筒の中身を素早く検める。

 場所や状況が詳細に指定された書類に数人の人間が収められた写真。

 彼は瞬時に事態を理解し、頭を切り替える。

 九堂の顔からも一切の笑みが消え、ただ試すように鋭い眼光だけが彼を捉える。


「――仕事だ、“灰掻き屋”」


 かちり、とスイッチが入ったような音が頭の中で聞こえた。








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