テンプレートは無罪である
私はここ最近批判ブームに乗っかった内容の
エッセイを複数発表してきた。
だからなろう批判がテンプレ批判と
混同されていることに関して
私に責任の一端があるのは間違いないことである。
なので、今回はその責任を取って
テンプレは悪玉ではないということを
証明させていただこうと思う。
私たちの住む世界は特別なもの、
驚くべきものに満ち溢れています。
光、風、香り、音、温度、手触り、涙の味。
空、宇宙、天体、大地、自然物、文明の利器、
技術、知恵、歴史、無数の他者、その顔つき、
表情、言葉、大事な人。
そうしたものに新鮮さを感じないとすれば、
それは私たち人間の感覚器官の側が
新鮮でないからです。
日常の膨大な習慣の反復や膨大な情報量、
無際限に煽られて膨大になる快楽、
そこに隠された膨大な義務、
判断を迫り行動を駆り立てる
あらゆるキャンペーンで
私たちの思考力、感情、本能、代謝、知覚は
いつも疲れ果て擦り切れしなびているのです。
多くを求めてあくせくするのに
肝心の感性を押し殺して生きねばならないとは
全く、不幸な時代です。
古くから伝わる偉大な文学や芸術は
不幸で貧しい憐れな私たちに
物の感じ方を懇切丁寧に指南してくれる存在です。
古典は人間の感覚を新鮮に、
生き生きとしたものにするから偉大なのです。
そしてこの新鮮さこそ古典の定義なのです。
古典とは単に古いものではないのです。
古典とは新鮮なものであり、
生きたものであると言わねばならない。
私たち作家の卵は当然(当然!)、
後世に古典と呼ばれることとなるような偉大な作品を
自らの手で生み出そうと日々努力している訳ですが、
では未熟な作品と古典的作品の違いは
何であるのかと言うと、
それはやはり新鮮かどうか
(生きているかどうか、力強いかどうか)
ということに尽きるのです。
これこそはもうほとんどその一点のみを
気にかけていれば良いと言っても
過言ではないほど重要な点であります。
私たちは普段、感じ取る光や風の不思議を
無視しながら生活を営んでいる。
そんなものを気にかけていたのでは
予定に遅刻するし仕事に手がつかないからです。
しかしこれから光や風を
描写しようという作家が
光や風を無視する訳にはいかない。
光や風でなくとも、あるものを描写し
記述するにはそれに対し驚嘆をもって、
価値を見出す態度で接することが重要です。
もちろん全部を特別なように書いていたら
きりがありません。
物語の主題が要請する必然性に応じて、
必要な分だけそれをするのです。
そしてここでもやはり古典が
最高の教材となります。
偉大な精神というものが
どのように見、聞き、感じ、考えるのかを
確実に学べる唯一の方法は
古典に馴染むことだからです。
何を見るかではなくどう見るか、
何を思考するかではなくどう思考するか、
偉人がどんな言葉を残したのかを暗記するのではなく
偉人の思考形式を実践すること、
これは教育の頂点の概念であります。
俗にテンプレと呼ばれる素材を
描写する場合においても、
作家の感性や思考が問題の中心であることには
変わりありません。
むしろ
「一人の著作家が読むに値するものをものする場合、
材料に依存する度合いが少ないほど、
その功績は大きく、
またそれどころか利用する材料が
世間周知の陳腐なものであるほど、
一段とその功績が大きい」
(ショウペンハウエル「著作と文体」)
のです。
「ギリシアの三大悲劇詩人はいずれも
同じ素材に加工したのである」(同上)。
なので、テンプレをつまらないと感じる時、
それはテンプレが用いられていることが
問題なのではなく
テンプレの認知度に甘えたものづくりが
なされていることが問題の本質なのであります。
『テンプレの認知度』、
これはどういうことかと申しますと、
例えば異世界を描写する力は
上記の光と風の例のように
異世界へ意識と観察力を
集中することによって得られる。
異世界というのはもちろん実在するようなものでは
ないですから、完全に空想の物です。
異世界の観察とはすなわち
自身の思い描く物語の舞台の形をとって表れた
空想、心境、願望、観念への観察であり
また物語との必然性を吟味し
強化するということでもある。
しかし世の中には異世界を舞台にしているという
触れ込みの作品が大流行したお陰で
『異世界』は今や一つの共通概念として、
一般名詞のようなものとして認知されている。
なので特に描写力や説明力のない作家、
感性や霊感のない作家でも
異世界が舞台だと書くだけで
多数の読者はそれがどのようなものなのか
勝手に察するという習わしが
サブカルチャー文化には定着している
有り様なのです。
本来異世界とは読んで字のごとく
私たちの住む世界とは異なる世界です。
『異なる』ということに
どれほどの意味を持たせるか、
それが作家の腕の見せ所であり、
またその作家の才覚が光る所でもあります。
異世界が立ち現れると共に
読む者の新鮮な驚きを感じる能力が蘇る、
異世界ものの小説とは
本来そういう小説であるはずです。
(疑似体験と体験、この意識の違いは大きい。
異世界へ行くということが
古典の性格の表れでなければならない。)
「なんだ異世界か」
「流行ってるからとりあえず異世界にするか」
「異世界を題材にすれば外しっこないだろう」
と考えている作家は、異世界を退屈そうに書きます。
実は異世界がそんなに好きではないのです。
異世界に驚きを感じていないのです。
彼にとって異世界とは見知ったものであり
見慣れたものであり
今更驚きも新鮮味もないといった、
日常の一幕のようなものに過ぎないのです。
彼は異世界に期待しておらず、
何の意義も見出そうとしないのです。
『異世界』という先入観に支配されているのです。
だから退屈な世界を書くことになる。
逆に「僕は異世界ものが好きだから
書くのも異世界ものにしよう!」
「異世界ってとりあえず
中世ヨーロッパみたいなところ!」
「とりあえず僕の好きな
テレビゲームみたいなところ!」
と異世界について漠然と考えている人間もまた
異世界を退屈にします。
彼らは異世界に対して先入観を持っているという点で
前述の異世界が好きでない人と同類です。
彼は先入観に頼って書き始め、
同時に読む者の持つ先入観を当てにしている。
すなわちテンプレに甘えているのです。
テンプレへの甘え、共通理解への甘え、
本来作家とは無理解と戦う者ではないのか。
無理解を克服し、勝利し、
のみならず人間の認識力を回復させるような
新鮮な体験をもたらす
贈与の徳の体現者であるはずではないのか。
作家の堕落は美しいヒロイン、
美少女の描写に関しても悪影響を及ぼしています。
今日では作者の頭の中にも読者の頭の中にも
「ヒロイン=美少女」という等式が
すでに出来上がっている。
しかしだからこそ陥りやすい誤解が存在します。
上記で散々説明した先入観です。
退屈な高括りです。
既知であるとの思い上がりです。
美しい少女を書くということを怠る傾向です。
美しい少女、美しい人間という
芸術への意志の欠如です。
己の物語と芸術性の関連を結び付けられない
素養のなさの表れです。
ずばり芸術の欠乏そのものです。
サブカルチャーに馴染みのない人間から
バカにされる理由、その本質は
こういう怠慢と無能にあるのです。
だから『オタクはキモい』のです。
だから一般層を取り込めないのです。
だから市場の拡大が滞るのです。
「俺には美少女なんて分かり切ってる、
読者だって知ってるはずだ」と
言っている人間は、実は美少女とは
どんなものなのかを知らないのです。
実は美少女にもハーレムにも
夢を感じていないのです。
美少女やハーレムを書くことに
確信を持たないのです。
「なんだハーレムか!」
と口にする読者と同じく心が冷え切っているのです。
だから「またハーレムかよ」と言われて
心が折れるのです。
書くのをやめたくなるのです。
同調したくなるのです。
自分も批判する側に立ち回りたくなるのです。
だから分からず屋の親父に
「小説を書いているというから見てみれば
オタクファンタジーじゃないか、
そんなくだらないもの書いて!」
と言われて黙ってしまうのです。
黙ってしまうのは、同意しているからです。
同意してしまうのは、根が同類だからです。
分からず屋で、鈍感で、感覚が充足し、
過激に慣れており、様々な刺激に対する
中毒を起こしており、麻痺し、死んでいるからです。
「人間に文化なんか必要ない、
人間は適職さえあれば幸福でいられる」
と思い込んでいる犬のような連中と同類なのです。
同類だけど仲良くできる訳でもなく
びくびくと隠れて同人小説を書く、
理解者に囲まれるところへ逃げていく、
それも元はと言えばテンプレへの甘え、
テンプレの都合のいい面ばかりを見る態度、
テンプレを読者獲得の手段としか考えていない
舐め切ったその態度が原因なのです。
「文学の世界では拙劣なものは無用であるばかりか、
積極的な害を流すのである」
(ショウペンハウエル『著作と文体』)
テンプレートは無罪である。
有罪なのは作家、及び無教育無教養の文化、
それを看過した全ての制作者と消費者である。
批判の批判みたいなエッセイの山にも
批判テンプレと名付けたい。
もちろん、そのテンプレも無実である。