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ナナセ

 ――あれはダメなやつだ。

 私は迷うことなく判断すると、赤い傘を差しながら歩き続ける。横目で電柱の傍に佇む“それ”を見遣った。


 視線の先にいるのは、傘も差さずに佇む女。どしゃ降りの雨にもかかわらず、だ。

 腰まで伸びる濡れた黒髪は、重たげに顔や服にぴったりと張り付いている。

 顔色はというと、これがまた不自然なまでに青白い。瞳は虚ろ。あらぬ方向をじっと見ている。


 どことなく深海魚を思わせる女。

 私はそれがこの世ならざるモノ、ばかりか、良くないモノであることを一目で看破した。

 何せ、雨降られる路上とはいえ、不自然なまでに寒気が走るのだから。

 背中が粟立っている。もう八月だというのに。


 私はさりげなく視線を外した。

 ああいった手合いは、こちらが己のことを認識できていると悟ると、途端にアグレッシブになるから、困りものなのだ。


 そう、こちらが“視えている”ことに気付かれれば、襲われてしまう。

 当然のことながら、深海魚系女子に襲われて喜ぶ趣味もない。別に、イケメン男子ならいいというわけでもないけれど


 などと、少し脱線したことを考えてしまう。もっとも、そんな戯言を頭の中に並べているからといって、余裕があるわけではない。

 むしろ、余裕がないからこそ、下らない思考で気を紛らわせているのだ。


 私は走り出したい気持ちを抑え、ゆっくりとした足取りを心掛ける。あちらから、平静であるように見られるために。


 ばくばくと、心臓が自己主張する。頬に汗が伝い落ちる。

 それでも、何でもない風を装う。


 ――ああ、どうか、こちらに興味を持たないで。こちとら、つまらない女子高生なんだから。いや、ホント。


 歩く、歩く、歩く。まだ背中に冷ややかな気配を覚える。歩く、歩く。ふっと、急に冷気を覚えなくなった。


「はあ、寿命が縮むわ……」


 ため息交じりに呟くと、私は強張った肩の力を抜く。


 助かったぁ……。あー、もう、お盆前と正月前は本当にダメ。どうしても、この時期は良くないモノとのエンカウント率が高くなってしまう。

 はあ……と、またも特大のため息を吐いた。



 私は、いわゆる“視える”人だった。

 昔からずっと、“それら”を当たり前のように視てきた。この世ならざるモノたちを。良くないモノから、比較的無害なモノまで分け隔てなく。

 だから、今回の様な目に遭うのも、さほど珍しいことではなかった。


 本当に辟易させられる。軽く頭を振るうと、「でも……」と、口にする。


「もうすぐお盆だ。それまでの辛抱よ」


 明るい材料を並べ、うんざりとした気分を持ち上げようとする。


 まあ普通なら、お盆だから何だという話だけれども。

 だって大人ならいざ知らず、高校生にとっては、お盆という時期はそれほど特殊なものでもない。何せ、とっくのとうに夏休みが始まっているのだから。


 だけど、こと私に限っては、お盆というのは特別な意味を持つ。


 毎年お盆の時期になると、父方の祖父母の家に行く。

 もう、長閑すぎて、欠伸が止まらなくなるようなド田舎ではあったけれど、私はそこに帰省することを心待ちにしているのだ。

 何せ、お盆と正月に行くその田舎では、霊障に悩まされることが皆無なのだから。


 普通、田舎の方が都会よりも、その手のモノが蔓延っているイメージがあるが……。

 いや事実、この世ならざるモノに遭遇する機会は、その田舎の方が段違いに高いわけだけど。

 ただ、あの田舎で、人に危害を加えるような、良くないモノと遭遇したことは一度もありはしなかった。

 ばかりか、一度田舎に帰省すると、そこを離れてもしばらくは、こちらでも良くないモノに近づかれにくくなる。


 田舎で得たパワー、あるいは、加護とでも呼ぼうか? 私はそれに守られている。

 ただ、それも次第に薄れ行ってしまうみたいで、もっとも弱まるお盆前と正月前には、今回のような手合いにしばしば遭遇してしまうのだった。


 だが、明日の朝だ。明日の朝には、あの田舎に向けて出発する。

 だからそれまでの我慢、我慢!

 私はそのように自らを鼓舞して、早足に切り替えて家路を急ぐ。


 にしても、帰省前の最終日に、こんな目に遭ってしまうなんて、もう! 

 本当は出かけたくなかったのに……。私は唇を尖らせながら、傘を持つ手とは逆の左手にぶらさがったビニール袋を睨み付ける。


 この時期の、しかも雨の日だ。――水気はより良くないモノを引き寄せやすくなる。

 これは用心しなければ、と家に引き籠ろうと思っていたのに。

 まさか、我が家の絶対権力者たる母にお使いを頼まれるとは……。誤算にもほどがあった。


 お化けが怖いので、お外に出られません! とは言えるわけもなく。いくら身内とはいえ、私視える人です! なんて公言するのは憚られる。


 そんな不気味なことを言って許されるのは幼児くらいのもの。

 高校三年生になってまで、そんなことを口にすれば、人に眉を顰められても仕方がない。


 両親が視える人だったら、そこら辺の説明が簡単に出来るのになあ。残念に思う。

 そう、両親は私と違って視えない。

 父は血筋的に視えてもおかしくないのだけど……。祖父母も視えないことから察するに、大分血が薄まっているようだ。私は隔世遺伝というやつなのだろう。


 よっと、水たまりを飛び越えながら角を曲がると、直線状100メートルほど前方に佇む我が家が見えてくる。

 中流階級らしい、どこにでもある変哲の無い一軒家だ。


 ……取り敢えず、今日はもう外に出ない。

 自室に籠って、それから部屋の四方に小皿に盛った塩を置いておきましょう。

 まあ、幾ばくかの気休め程度の効果はあるはず。……多分。


「ああ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……」


 思わず口について出た自分の言葉に、うん? と小首を傾げる。

 分家筋、しかも本家とはかなりの遠縁とはいえ、神職の血筋の者が仏様に縋るのは如何なものだろう?


「ゴホン! それでは改めて――掛けまくも畏き伊邪那岐大神…………祓へ給い清め給へと白す事を聞食せと恐み恐み白す」


 代表的な祓詞はらえことばを口にした。

 それから家につくまで壊れたラジカセのようにリピート再生する。

 ……実は、これ一つしか暗記している祓詞がなかったので。




 そして翌日の8月13日、父のお盆休み初日である今日、私は車上で心中悪態を吐いていた。


 がたがたと車体が揺れる。坂道を上っているのだが、田舎道は都会に比べて道路の舗装が不十分だったりすることがままある。

 ったく、ここの道路族は何をしてるのよ! ちゃんと仕事しなさい!


 心の中で顔も知らない議員を罵倒する。

 ウインドウを下すと、気分転換に外を見やった。木、木、木。うん、面白味の欠片もない。……って、あれ?


「……お山の方に何台もトラックが上っていくね」


 田舎ではあまり車が走っている姿を見かけない。

 なのに、何台ものトラックが連なる姿は不自然に映った。


「うん? 本当だな。ああ、あれじゃあないか? お宮のお引越しがあるのだろう? 確か本家ほんやさんが以前そう言っていたじゃないか」


 私の呟きに、父が反応する。

 本家ほんやというのは、本家ほんけ分家の本家ほんけのこと。

 ここらでは、本家ほんやというのが習わしであった。

 本屋さんと間違えそうになるので、ややこしいことこの上ない。


 ウチの本家は神社の神主さんの家柄だ。

 なので、その分家に当たる私にも視える力、見鬼の力があるのだろう。

 まあ、分家といっても、私の祖父の、そのまた祖父の代に分かたれた家なので、遠縁も遠縁だ。

 それでも本家分家として濃密な繋がりがある。それが田舎クオリティというやつだ。


「結構遠くに引っ越しちゃうのよね」

「らしいなあ。新しく社を構えられるような土地がすぐ傍になかったんだろう。車で片道40~50分の距離と言ったかな? 少なくとも、気軽に歩いて行ける距離じゃなくなっちまうな」

「神社って、そんなにほいほい引っ越してもいいものなの?」

「さあなあ。良く知らんが。でも仕方ないだろう。二年前の大雨でそこかしこで地滑りが起こって。……お宮の周りは無事だったが。それでも地盤が緩んでいるらしい。今度また大雨があったら、お宮さんが埋もれるかもしれないって言うんだから」

「……そうね。仕方ないね」

「だなあ。……本家さんが、御神体が移せる大きさなのが唯一の救いだって、そう零していたかな?」


 そう言って父がハンドルを切る。またも、ガタン! と車体が揺れた。

 クソ! 道路族め!




「ほい、一等賞」


 祖父母の家の前に車が到着するや、私はドアを開け放ち、自分の手荷物だけを持って飛び出していく。そのまま母屋の前まで一番乗りを果たす。


「おいおい、荷物をもう少しくらい持ってくれよ」


 後ろで車のトランクを開けて、大荷物と格闘している父が、何やらぶつぶつと言っているが気にしない。

 自分の手荷物しか持ってないのは母上だって同じじゃないか。

 そう、我が家では、力仕事は男の仕事。それが、母を頂点とする我が家のヒエラルキーが定めた鉄の掟。

 娘も泣く泣く従うしかないのだよ。許せ、父よ。


 なんて、心にもないことを心中で呟いてみせた。振り返りもせず、突進。

 田舎に相応しい純和風の家の玄関をくぐる。


「お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、なっちゃんの到着ですよっと」


 そんなことを口にすると、祖父母が居間から顔を出す。


「おお、よく来たなあ、なっちゃん」

「しばらく見ない内に、また大きくなったんじゃないかい?」


 テンプレがあるのかと言いたくなるような、毎度お馴染みの言葉。


「ういうい、その内2メートルに届きますよ」


 靴を脱ぎながら適当なことを口にする。2メートルどころか、中学を卒業する頃に身長の伸びが頭を打ったので、もうこれ以上大きくはならないのだが。


「お義父さん、お義母さん、お世話になります」


 そんなことを言って、頭を下げる母を置いて、家の中にずかずかと上がり込んでいく。

 家中に視線を走らせる。……いた。奥の座敷にちょこんと座っている女の子の姿を見つける。


 私は後ろを振り返って、祖父母と母がこちらを見ていないことを確認する。

 そうして、女の子に向き直るとにっこりと微笑む。


「ざっちゃん、久しぶり」


 私の挨拶に、緋色の着物を着て前髪ぱっつんの女の子もにっこりと笑む。

 お人形さんのような容姿で無邪気に笑うその様は、何とも愛くるしい。


 彼女は座敷童だ。うん、多分ね。きっと。メイビー。

 昔からこの家に棲み憑いているモノだ。

 家に憑き、童女の姿で人ならざるモノ。まあ、おそらくは座敷童だろう。


 彼女は口をきけないので、名前があるかは分からない。取り敢えず私は、座敷童(憶測)なので、ざっちゃんと呼んでいる。


 私はざっちゃんのおかっぱ頭を一つ撫でると、更に奥へと歩みを進める。

 引き戸を少し引いて、そこから頭を出す。

 頭を出した先は裏庭だ。裏庭を突っ切ってそのまま進めば山へとつながる。そんな裏庭なので、鬱蒼と雑草やら何やらが生えまくっている。

 私はその茂みの中に、目当ての姿がないかと目を凝らす。


「おーい、たまも。姿を見せな」


 ……返事がない。どうも傍にはいないようだ。


 たまもとは、私が小さな頃に名前を付けた狐だ。

 どうも野生にしては人懐っこい狐だなと、長年不思議に思っていたが。まあ、懐いてくる姿は可愛い。だから、結構猫可愛がりしていたのだが……。

 昨年、たまもが実は野生の狐ではなく、化け狐の類だと気付いた。それというのも、尻尾の数が二本に増えていたので。そりゃあ、びっくらこいたものである。


 それにしても、狐だからそれっぽい名前を付けたが……。

 まさか、化け狐だとは。少しばかり洒落にならない名付けをしたかしら? と、昨年はさしもの私も反省した。

 反省したが、二本の尻尾をふりふりするたまもが余りに可愛かったので、その尻尾をもふもふしておいた。

 そして、まあいっか! と、結論付けたのだった。可愛いは正義だから仕方ない。


 私には偶にこういう失敗があった。あまりにも普通に視えすぎるので、明らかな異形でなければ、それがこの世ならざるモノだと気付かないことがある。

 普通のおじいちゃんだと思って話していたら、実は幽霊で周囲をドン引きさせたのは、トラウマ級の失敗だ。


「なっちゃん、そうめんができたよ。お上がりなさい」


 祖母が呼ばわる声がする。

 ふむ、たまもの奴は、滞在中にひょっこり顔を見せるだろう。そう判断して、引き戸を閉めると、食卓の方へと向かっていった。




 ぱちりと目を開ける。昼食のそうめんを食べた後、眠っていたのだ。食ったら寝る。それが休日の私のスタイル。

 ポケットからスマホを取り出す。時間を確認。……ふむ、もう17時か。

 私はむくりと起き上がると、玄関口に向かう。脱ぎ捨てたスニーカーに足を通す。


「あら、出かけるの?」


 母がそのように問い掛けてくる。


「うん。ちょっとね」

「もう日が暮れるからね。暗くなる前に帰ってくるのよ」

「分かってる。というか、私は小学生かい、ママン」

「落ち着きのなさは、小学生級ね」


 全く、呼吸するように毒を吐いてくるものだ。こんな母と結婚した父は、真正のドМに違いない。

 私は肩を竦めるだけに留めて、玄関から外へと出る。そうして欠伸が出そうなほど長閑な田舎道を歩き始めた。


 田んぼのすぐ傍を歩いていく。水田にはアメンボの姿が見て取れる。すいすいと泳ぐアメンボを見るのは、何となく涼し気な心地になるが……。

 聴覚がそれ以上に夏を実感させるのであまり意味がない。蝉の大合唱がうるさい。時折それらに混じって、蛙の鳴き声が響くのは田舎ならではだ。


 ミンミン、ゲコゲコ、ミンミン。小煩い鳴き声を我慢しながら、歩みを進める。

 向かう先はお宮のあるお山。

 坂を上る、上る、上る。ようやくお宮へと続く石段に到着する。


 でも、見上げるような石段を登るのは億劫に感じられた。

 ……まあ、ここまでくれば大丈夫でしょう。

 私は早くも登るのを断念する。石段の一番下の段に腰掛けた。

 

 石段に座りながら、ぽけーっと空を眺める。空の青さに落陽の赤が混ざり始めてきた。黄昏時だ。あるいは、逢魔が時ともいう。

 そのまま空を眺めていると、不可思議な飛行物体を発見する。


 ……あれは白い布? 夕日を浴びて若干茜色に染まっているが、多分白い布だ。まるで、ゲゲゲの鬼〇郎に出てくる一反木綿みたいな奴だな。

 

 暫し目を凝らし観察する。初見だが、まあ心配はいらない。

 この土地では、良くないモノに出くわさない。そうなっている。まるで何者かに守られているように。いや、まるでではなく、まさに、かな?


 だから、心配はいらないのだ。ここでは怖い目に遭うことはない。ただの一度だってそんなことはなかった。なかった。……訂正、一度だけ恐怖体験があったな。


 あれは何年前のことだったか。

 祖父母の家で、私は金〇ロードショーで放映された〇怨とかいう、子供の幽霊が出てくるホラー映画を見ていたのだ。

 そしてその晩眠っている時に身の毛のよだつ事件は起こった。


 私は寝苦しさに目を覚ました。するとどうだ。自分のお腹の上に重みを感じるではないか。

 恐る恐る布団をめくった。果たしてそこには、真っ直ぐこちらを見詰める童女の顔があったのだ!

 私は声にならない悲鳴を上げた。失禁するかと思った。


 ただまあ、映画に出てきた女性のようにそれでジ・エンドとならなかったのは幸いか。

 私の布団に潜り込んだ下手人の正体は、ざっちゃんであった。

 どうも、私と並んで呪〇を見ていたざっちゃんは、女性のベッドに潜り込んだ男の子の幽霊のシーンを見て、自分も真似したくなったみたいである。


 くすり、と思い出し笑いしながら夕焼けを見るともなしに見る。


「……ナナセ」


 不意に私の背後、石段の上から私の名を呼ばわる声が降って来る。

 ここでは、祖父母を筆頭に皆、私のことをなっちゃんと呼ぶ。ナナセと、その名を呼ぶのはただ一人だけであった。

 振り返ると、そこには石段を下りてくる青年の姿。


「遅いですよ、お兄さん」

「待ち合わせをした覚えはないのだけどね」


 お兄さんは苦笑して見せる。

 このお兄さんとは、昔からの付き合いだ。私が一人でひょこひょこ歩いていたりしたら、よく声をかけてくる。

 名前は知らないので、昔からお兄さんと呼んでいる。私が小さい頃から見た目が変わらないような気がする年齢不詳系お兄さん。男の人の若作りは潔くないと思う。


 それにしても、今は私も大きくなったから、そこまで問題ないが。昔、私の幼女時代なら、犯罪級の絵面であったのではないだろうか?

 まあ、田舎は人間関係におおらかだから。でも、都会なら通報ものである。もっとも、誰が通報できるのかという話でもあるが。


「最近、悩みの方はどうだい?」

「うーん、芳しくありませんね。やっぱり、ここに来る直前辺りは、良くないモノに絡まれそうになります」

「そうか……。困ったものだね。僕も視える性質だから、ナナセの苦労は分かるよ」


 お兄さんは神妙な顔立ちになる。次いで何か思いついたような表情を浮かべた。


「そうだ! ……これなら効果があるかもしれない」


 ごそごそと何やらポケットを探る。そうして取り出した物を差し出してくる。


「腕輪? それとも数珠?」


 何やら如何にもパワーストーンですと、自己主張するような石を糸でつないで数珠状にしているアイテムであった。


「魔除けの道具かな。昔、知り合いにもらったものでね。これを付けていると、不思議と良くないモノが寄りつかないんだ。ああ、それはスペアだから遠慮せずにもらってくれたらいいよ」


 私はまじまじと魔除けの道具とやらを見る。

 へー、ほー、ふーん。なるほど、このタイミングでこれを手渡してくるのか。


「……アフターサービスもばっちりね」

「うん? 何だい?」


 ポツリと零した独り言に、お兄さんが反応する。


「何でもありませんよ。こちらの話です。……ありがとうございます、お兄さん。今すぐお礼はできませんが。このお礼は後々必ず」

「後々か……」


 お兄さんはどこか困ったように眉根を八の字に寄せる。


「そう大したものじゃないよ。お礼なんて……」

「いいえ。必ずお礼はさせてもらいます。ええ、必ずね」

「……そうか。じゃあ、期待して待っているよ」


 お兄さんは寂しさを隠しきれてない表情で微笑む。


「そうですよ。期待して待っていてくださいね」


 私はお兄さんの表情に気付かない振りをしながら、そのように返す。

 その言葉に嘘はない。

 これでも私は義理堅い方なのだ。きっと、お兄さんが思っているよりも、ずっと。



****



 お兄さんに魔除けの道具をもらってからというもの、田舎を離れても良くないモノと出くわすことがなくなった。

 何年も、何年も、良くないモノの影を見ることもなかった。


 また同時に、盆や正月に祖父母の家に行っても、お兄さんの姿を見かけることもなくなってしまった。


 私は高校を卒業すると、かねてからの希望であった國學院大學へと進学。そこでみっちりと特殊な勉強を積んで卒業。

 そうして、その大学で学んだことを活かせる就職先へと就職した。

 今日は、記念すべき初出社日である。



 私は、朝早くに出社すると、真新しい職業特有の制服に袖を通す。

 着付けを終えると、その場で一回転して見せる。

 

「……ひょっとすると、すごく似合ってるんじゃない、私?」


 初出社日特有の高揚感がそうさせるのか? 少しばかし自意識高めな発言を零してしまう。

 いけない、いけない。新人らしく、謙虚に、謙虚に。


「よし! 新人らしくまずは……お掃除、かな?」


 そう言って、壁に立てかけられた竹箒を手に取ると外に出る。

 そうしてせっせと職場を掃き清めていく。


「……ナナセ?」


 不意に、その名を呼ばわる声が聞こえる。そう、お兄さんだけが呼ぶ呼び名を。

 振り返ると、何とも愉快な表情を浮かべるお兄さんの姿があった。


「あれ? 朝っぱらからでも姿を現せられるんですね。おはようございます、お兄さん」

「ああ、おはよう。じゃなくて! 何でナナセがここに?」


 私は小首を傾げて見せる。


「約束を忘れましたか? 必ずお礼をすると言ったでしょう。その約束を守るために、本家さんに頼み込んでここに就職したんです」


 ほれ、と身に纏う制服を、一部の男性に大人気な巫女服を主張して見せる。


「本家に頼み込んで就職……。そうか、ここにいる理由は分かった。でも、それがどうして僕にお礼をすることにつながると思ったんだい?」


 お兄さんの困惑の声に、私はにっこりと微笑む。


「種明かしの前に、改めて自己紹介をしましょう。私の名前は、玉白 夏といいます。今日から玉白神社でお世話になります。よろしくお願いしますね」

「玉白……夏? そんな、君の名前はナナセのはずだ」

「はい。その名前も確かに私の名前です。……お兄さん、忌み名という人間の風習はご存知ですか?」


 ――忌み名。今ではすっかり廃れてしまい、この風習を残すのは一部の田舎だけだ。

 父の実家である祖父母の家のある田舎は、この風習を残す数少ない土地であった。


 日本に限らず広く信じられていた考え。本当の名前を呼ぶと、その人の霊的人格を支配できるのだという。

 物語でもよくあるだろう。真名を知られてしまい、呪いをかけられる。有名どころだと、千と千〇の神隠しなんかも、名前を使った呪いをしている。

 あの作品では、名前を奪う(呪をかける)ことで、主人公を現実世界に戻れなくさせると共に、術者の支配下(従業員)におこうとした。


 そう、本当の名前は、その人物の霊的人格と結びつく。なれば、ばれないように隠してしまえ、というのが忌み名の風習である。

 これは、付けた名付け親と、名前を付けられた本人しか知らない名前。


 私の場合、忌み名を名付けたのは10年も前に亡くなった本家の先代。だから生者で私の忌み名を知るのは、私だけである。

 そして、私は今まで一度だって、自身の忌み名を他人に明かしたことはない。だから、私の忌み名を呼べる者は存在しない。ある種の例外を除いては。


 神や妖といった化生の類の中には、人の本当の名を読み取るモノがいる。

 つまり、私の忌み名を呼ぶお兄さんは、人ならざるモノに違いなかったのである。

 私は、早くからそれに気付いていた。


「そうか……忌み名。確かに人間にはそんな風習があったな。失念していたよ。皆、君のことをなっちゃんと呼ぶから、ナナセという名を不自然に思わなかった」

「うっかりですね、お兄さん。いいえ、神様」


 私は、してやられたと言わんばかりの表情を浮かべる神様に微笑みかける。


「うんと小さな頃から、ずっと私のことを見守って下さっていたのですよね。ありがとうございました。これからは精一杯恩返しをさせて頂きます」


 私はそう言って、神妙に頭を下げて見せる。


 こうして、私の玉白神社での長い恩返し生活は始まったのであった。


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