ちょうえつしゃのゆめ
――どれだけ、そうしていたであろうか。
「……音が止んだ。前から退いてくれた、みたいだね」
声で我に帰ったキサは、途端に恥ずかしくなった。
何をしているのだ自分は。いい年をして男の腕で泣きじゃくるなど。
「ごめん、今どくから」
しかし、返ってきたのはカチンとくる一言である。
「うんぜひそうして。君わりと重い」
気まずいやら恥ずかしいやらを一瞬忘れて、キサは思い切りアヤトの胸を叩いた。
「いって。陥没したらどうするの」
「陥没、しろっ、このっ、デリカシー欠如、させやがって……!」
「いたいいたい。ごめんて」
ちっとも悪びれない上痛がってもいない謝罪を聞いて脱力し、キサは体を離す。
何事もなかったように身動ぐ気配がして、アヤトがドアに向き合ったのがわかった。
「扉の前にはもういない……かな。でもまだどこかにいるみたいだね」
耳をすませば、確かにまだ声とも風のうなりともつかない、名状しがたい音が聞こえる。キサは少し考えて、今はそれを聞こえないふりで無視することに決めた。
わからないことをわからないままにしておくには具合が悪いが、気にしているとまた、パニックを起こしてしまいそうな気がしたからだ。
「それにしても、なんなの、ここは?」
問いかけるというより独り言だったが、聞こえていたアヤトは態とらしくため息をついた。
「そんなことを聞いてどうするの」
「そんなことじゃないでしょう。異常よ、絶対に」
「確かに異常は異常だけど……。遊園地の跡地の地下に拷問部屋ってだけでもう異常事態だしね」
そこだけじゃないし! キサは叫ぼうとして口をつぐんだ。せっかく聞こえないふりをしているのに、意味がなくなってしまう。
「アヤトはホラー作家でしょう? こういう……その、怪奇な状況に対応策というか、そういうものはない?」
「……君は俺を怪奇関連専門のウィキペディアか何かと勘違いしている」
不満そうにそう返しつつ、アヤトは静かにため息をついてから息を吸い込んだ。
「クトゥルフ神話、というジャンルがある」
――そして話は、冒頭へ戻ってくるのである。
「……で、結局結論はなによ」
「結論」
「対応策をっていう私の言葉に応えて話し始めたのに肝心の対抗策が何も示されてないじゃない!」
「ない」
「あのねえ……」
いい加減怒るぞ。そんな意思を込めてキサが睨み付けると、アヤトは困ったような声で言葉を重ねた。
「だから、ないんだよ。俺がいったようなそれがこの現象の原因なのだとしたら」
「ないって、何が」
「だから、対応策」
「はあ!?」
声を潜めつつ怒りもあらわに聞き返すキサに、アヤトは暗がりの中でもはっきりとわかるほどに呆れた気配を見せた。
「人間には理解も及ばないような存在だよ。撃退はおろか、理解しようとしても気が触れるだけ。さっきそういったじゃないか」
「ちょっと待って。……クトゥなんとかってフィクションよね?」
「……クトゥルフ。遊園地の地下にこれだけ大規模な拷問部屋があるってのも十分フィクションだと思いますけど」
キサは沈黙した。確かにその通りだが。
「それに、さっきから外をうろついている『それ』……」
「あれがクトゥなんとかだっていうの!?」
「だからクトゥルフ。違うよ。クトゥルフは海の底の神殿で眠りについている。いくら生贄を捧げたって姿を表すことなんかないさ」
「じゃあアレは……なに」
「さあ。でもクトゥルフ神話なんかで出てくる異形と似た感じだとは思う」
「ああ――聞かなかったことにしたい――」
スラスラとアヤトの口から出てくるオゾマシイ言葉の羅列に、キサは思わず頭を抱えた。対応策を求めたのは自分だが、こんなことは聞きたくなかった。
そんなキサを尻目に、アヤトはさらに言葉を続ける。
「呼び出すことはできなくとも、クトゥルフ神話をモチーフにした物語の多くが、クトゥルフに近づこうと様々な邪法を用いた。俺が見てきた限り、そのほとんどが『人の苦痛や絶望や断末魔』をエネルギーにしようとしている。
それと血液。
クトゥルフは海に沈み夢を見ている。そして人の血は、海の成分と酷似している」
「……だから、この拷問部屋はクトゥ……化け物を呼び出すために作られた……?」
「クトゥルフ。途中で諦めないで。本物を呼び出せたかどうかはともかくとして、そういうことなんじゃないのかな」
「何のために!?」
即座の反問に、アヤトは一瞬黙り込む。それからチラリとこちらを見る気配の後、ぼそりと返事があった。
「……さあ?」
「さあって……」
「君は理解できる? 何かの理由があったとしても、クトゥルフの夢を間借りしようとする心理が」
問いかけられ、キサは返答に詰まった。何の意味があるのだ。そんな異形の夢とやらに。
言い淀んだキサの気配を察したか、アヤトは深くため息をついた。
「――そうだよね。普通は理解できない。理解しようとすれば正気を失い、やがて気が触れる。そういうものなんだよ、これは」
それに応えようとキサが口を開いた瞬間。
――ぼたり。
部屋の奥から、嫌な音が響いた。