もどらずのしぼ
地下へ続く階段はひどく長く感じられた。
「まだ、続くのかしら」
「さあね。あ、ここから石の階段だ。足元気を付けて」
言われて、肩を抱き寄せられた。
「――あ……」
また、だ。
さっきもそうだった。
キサはどきりと動揺しているのに、アヤトにそのそぶりはない。
昔もそうだった。
キサとアヤトは、一度交際したことがある。
幼馴染であったことと、幼い頃から一緒に遊んだことと、そういったことが幸いして、両親公認の関係だった。
アヤトはキサのことを「キサちゃん」から「キサ」と呼び捨てるようになり、キサもアヤトのことを「あやにい」から「アヤト」と呼ぶようになった。デートに行き、手を繋いで帰り、メールをやり取りして、クリスマスを一緒に過ごす。そんな、ありがちだがごく普通の恋人の関係を構築できた、はずだった。
……だが、それだけだった。
プールへ行ったこともある。テーマパークのイベントで、ドレスを着たこともある。
だが、キサがどれだけ着飾ろうと、アヤトの目はいつも同じ色をしていた。
触れたこともなければ、キスをしてくれたこともない。
好きだよ。デートに行こう。その服のセンス可愛いね。髪型変えたの、どうして。
どのセリフにも感情がこもっているのに、どれも同じ音に聞こえた。
結局いつまで経っても、アヤトは妹が消えたあの日から、少しも進んでいない。
彼にとってキサはいつでも、二つ年下の幼馴染の「キサちゃん」なのだ。
そのことに気づいたとき、キサはアヤトと個人的な連絡を取ることをやめた。
そして、その時ばかりは心の底からあの、幼くわがままなままいなくなってしまったアヤミのことを心から憎んだ。
いつまで、アヤトのことを縛り付けるつもりなのだ、と。
……きっと、自分勝手な物言いなのだろう。
キサにとって、アヤミはやはり妹のように可愛い存在だった。あの時、ジェットコースターに乗りたいというアヤミの言葉をうまくかわせていたら。身長制限に引っかかったアヤミを思って、キサが「私も乗らない」と、「だから一緒に帰ろう」とアヤミに声をかけていたら。
後悔してもし切れないくらいの過ちを、アヤミがいなくなった日、キサはたくさんしたような気がする。それなのに彼女を恨むのは、きっと筋違いなのだ。
けれど……けれどこのまま、アヤトはどうなるのだろう。妹のことを考え続けて、それで、どこへ行くのだろう。
このまま、死ぬまでアヤミのことを想い続けるのだろうか。
「キサ……キサ、大丈夫?」
ふと顔を上げてみれば、心配そうな顔で覗き込むアヤトがいる。暗がりでもはっきりとわかるほど近い顔に驚き、キサは思わず身を引いた。
「ごっ、ごめん。大丈夫」
「……なら、いいけど。そこ、扉がある。行こう。はぐれないでついて来て」
「う、うん、ありがと」
言いながら、指差した鉄扉のノブを握ると、アヤトは静かにそれを回し、押し開けた。
ぶわり、と2人を包み込んだのは、生ぬるく湿った空気。
「………っ!」
キサは思わず、口元を押さえた。
扉の向こうには廊下が続いていた。暗がりの中で、遠くまで見渡せるわけではない。それでも、まるでアリの巣のように扉が連なっているのはわかる。まるで監獄のようなその形状と、えもいわれぬ奇妙な気配は、キサにとって「不吉」以外の何者でもなかった。
「ここが……拷問部屋?」
「そうだね……」
言いながら、アヤトはペンライトを構えて歩き出す。暗がりに置き去りにされてはかなわない。キサは慌てて後を追いかけた。
部屋には小さな窓がある。そこから部屋の中を覗き込むと、ぼんやりと何かの影が浮かび上がった。
牛だ。口を開けた牛のオブジェ。
「……鉄の処女、ユダのゆりかご、振り子に、……審問椅子。……あった。本当にあったんだ……」
聞こえてきたのは、呆然とした声。アヤトにとっても意外だったのだろう。
キサは振り返り、食い入るように扉の中に見つめているアヤトに問いかけた。
「こっち……なんか、牛のオブジェが置いてあるんだけど……」
「牛の……? ちょっと見せて」
何か思い当たる節があったのか、アヤトはキサを退けて扉を覗き込む。暗がりでもわかるほど、その表情が引きつっていった。
「……資料では見たことがあるけど……まさか『ファラリスの牡牛』……!」
「ファラリス?」
「犠牲者を真鍮製の牡牛の腹に納め、下で火をたく。真鍮製の牡牛は即座に高温となり、中の犠牲者を焼き殺す。その断末魔は牡牛の内部構造によって、まるで牛の鳴き声のように聞こえたと言われる。
――これは拷問道具じゃない。処刑道具だ」
聞こえてきた言葉に、キサは思わず後ずさった。処刑道具。なぜそんなものがここにあるのだ。
さらにアヤトは部屋の中を覗き込み、小さく息を飲んだ。
「なんてことだ……火を焚いたあとまである」
「ゆ、行方不明者はここで殺されたってこと?」
「わからないけど。とにかくここは……っ」
何かいいかけたアヤトは、不意に言葉を切って周囲を見渡す。
キサは思わず、アヤトに身を寄せた。
「あ、アヤト?」
「……しっ」
口を塞がれ、壁に押し付けられるようにして押さえ込まれる。カチリと音を立ててペンライトが消え、そして暗がりから、何かが聞こえてきた。
――ぅ うる ぁぁああぁ。ぐが ぎ。
声なのか、それとも風の音か。
名状しがたい音の羅列に、キサは頭の中がかき回されるような不快感に襲われる。
これはなんだ。本当に聞いていいものか。
本当に、この世に存在しているものか。
――ご ぎぃぅ じゃぐ。ゔぅあぁぁ。
その音はだんだんと近づいているように感じた。まるで……まるでこちらを探しているかのように。
キサは全身が総毛立つような感覚を覚えた。想像するのも恐ろしいのに、嫌なことばかり頭に浮かぶ。頭がどうにかなってしまいそうだった。
「……部屋に隠れよう」
耳元でアヤトが囁く。やっとの思いでそれに頷くと、彼はキサを抑えていた右手を静かに外し、すぐそばのノブに滑らせた。
ガチャリ、とドアノブをひねる音。次の瞬間、腕を強く引かれて部屋の中へ引きずり込まれると同時に、廊下の気配が一変したのを感じた。
――ぎ、ごぃうぇ。
ざ、と音を立てそうなほどに、気配が動く。生き物なのか、それともこの廊下の雰囲気がそう感じるのかわからないくせに、それは明らかに「こちら」を「みて」いる。そんな印象だった。
怖い。
パニックを起こしそうになる真っ白な頭の中でそれだけを思う。アヤトが冷静に部屋までキサを引き込み、扉を閉めて抑えてくれなければ、悲鳴をあげてどこかへ走り出していたかもしれない。
べちゃり。何かが扉にぶつかった。
いや――ぶつかったというより、叩いたような。
べちゃべちゃ、と、今度は二連続で。
一拍おいて、また、べちゃべちゃ。
キサはそのリズムに聞き覚えを感じた。
連続で扉を叩いているように聞こえたのだ。トントン、トントン、と。
そこまで考えて、キサはゾッとした。
それは――それは、ノックではないのか。
叩いている主は、そう、それは紛れもなく、意志を持った「何者か」ではないのか。
それは、
「中にどなたか、いらっしゃいますか」
「中に入っても、よろしいですか」
そう、聞いているのではないのか。
気が狂いそうな恐怖の中で、キサは頭を抱えたくなった。耳を塞ぎ目を閉じて、何も聞かなかったことにしたい。何もみなかったことにしたい。
だができなかった。
そんなことをしてしまえば、真っ暗で何もない世界に取り残されてしまう気がした。1人で、真っ暗な世界に。
「キサちゃん、こっち」
優しい声がした。顔をあげれば、穏やかに笑んだ幼馴染がいる。ドアに背を預け、暗闇の中だというのに、潜めた声で口元がほころんでいるのがわかった。
「アヤト……」
「こっちおいで」
キサは思わず、アヤトにすがりついた。
アヤトは預けられた頭をしっかりと抱き込み、優しく背中をさすってくれる。
静かな鼓動と、息をするたび上下する胸に頭を預けたまま、キサはアヤトの声を頭上に聞いた。
「大丈夫。大丈夫だから」
「アヤト……」
「うん、ここにいるよ。大丈夫だから」
外の音は相変わらず聞こえていたが、キサは聞こえないふりをした。
この異常な環境の中で、唯一確実なものがあるとすればそれは、アヤトの腕の中だけであったのだから。