カノジョのジジョーに付き合っていられるほど若くはないオッサンのぼやき
最初に彼女を見かけたのは、学生街に近い大衆食堂だった。
「──スイマ、セン。鯖の味噌煮定食を一つ」
就活の女子大生がよく着るようなスーツ姿で、鼻声で涙をボロボロこぼしながら食堂のオバチャンに定食を注文していた。
場所柄、その店を利用する客の大半は大学生や専門学校生だが、社会人になってからも時々利用する者は案外多い。もちろん独身がほとんどだが、中年すぎたオッサン連中も時々懐かしそうにやってきては豚の生姜焼き定食を大盛飯で頼んだりする。女性客もそこそこいるが、泣きながら小鉢の筑前煮を食べる推定女子大生というのは記憶にない。
当然、周囲の客はドン引きだ。
この種の大衆食堂で飯を食う連中というのは、気取った店で女の子を口説くという概念を持っていない。そんな時間と金があったら別の用途に全力投入する価値観の持ち主が多いし、そもそも若い女の子がこんな店に来るわけがないと思い込んでいる。いや、その認識は別に間違ってはいない。高校三年間、浪人から大学での四年プラス数年間の食事を大衆食堂のお世話になっていた自分でも、目の前の現象は初めてだったのだ。
勿論どう声を掛けていいのかなんて分かる訳がない。
分かってたら、大衆食堂で焼きうどん定食なんてものを頼むものか。しかも青海苔多めで。
「──奥さんいるとか、今更言うな」
ぎゃあ。
思わず悲鳴を上げそうになった。自分だけじゃない。普段だったら馬鹿話したり政治の蘊蓄を語ってそうな自称インテリ連中も気まずそうに鶏唐揚げを咀嚼している。もっきゅもっきゅ音を立てて食うな。
あー、それにしても、あー。
面倒臭いねえ。醤油味で調えた焼きうどんを食べながら、女子大生っぽい子の泣き顔を見る。味噌で炊いた鯖の切り身を割り箸で丑の刻参りの如く何度も何度も突き刺して、骨ごとミンチにしている。怖い。何やってんだよ、元彼氏。いや不倫相手か。独身と偽っての遠距離恋愛かな、この街は高速バスで直通とはいえ都内までは片道三時間の地方都市だ。身元を誤魔化して都内の女子大生をつまみ食いするにはちょうど良い環境だったのかもしれないね。屑だなあ。
飯の味がしない。
皿には焼きうどんが半分以上残っていたけど、胃袋が受け付けるとは思えない。周りに目を向けると似たような貌でうなだれる客の多いこと。油断すると胃液が逆流しそうになる。先払い方式の定食で良かった。自分は返却口に食べ残した定食を戻すと、食堂前の自販機で甘ったるい缶コーヒーを買って一気に飲んだ。
▽▽▽
だいたい十五時頃だったと思う。
消化不良で悲鳴を上げている胃袋を常備の消化剤で無理やり黙らせて、午後の仕事に集中していた。
第二新卒枠で募集をかけたら、この御時勢だというのに都内在住なのに地方の中小企業を応募してくれた奇特な方がいたらしい。普段は事務方に面倒な書類関係を押し付けている技術部の上司共が、官公庁の実地調査でも着てこないような気合の入ったスーツ姿だ。よく見れば自分以外の同僚や部下も普段より衣装と髪型に気合い入れてる。気合い入れる髪がない奴もいるけど。
女の子か。
女の子だな。
週末ごとに高速バスで都内に遊びに行く地元女子の見栄張ったケバケバしさに辟易した会社の連中は、就活女子の黒く染めた髪が大好きだ。入社したら次第に色を変えてくるのは分かっていても、黒髪に浪漫を抱いてしまうものらしい。
男って馬鹿だよ。
中身がどんだけビッチで糞みたいな性格でも、黒髪ストレートだったら全部許してしまうんだ。上司も部下も、何度騙されても「次こそは」って懲りないんだ。おかげで午後の仕事がいつの間にか増えていた。事務職のOLさんたちは笑顔に青筋浮かべているし、営業のハイミスは一周してアルカイックスマイルだ。バツイチで独身の上司を狙ってた人とか無言で給湯室の壁を殴ってたよ。
普段なら冷やかし程度にそういう馬鹿騒ぎに付き合ってたけど、急病だとかで会社を休んだ部下の分まで仕事を抱えていた自分はそういう余裕がなかった。その部下ってのが社長の娘さんと学生結婚してコネ入社した将来の幹部候補生だから、点数稼ぎにと課長がこっちに仕事を押し付けて来た訳だ。まあ、インフルエンザとかノロに罹った奴を無理矢理出社させて社内壊滅なんて事態になるよりはよっぽどマシだ。
どーせ今日はもう仕事にならない。
事務の娘に案内されて奥の会議室に向かっていく、リクルートスーツ姿の女子大生っぽい子の姿が見えた。
えーと。
見覚えある、見覚えありすぎる横顔。メイクで隠しきれない、泣き腫らした痕。そして就活に臨む不安や虚勢とは違う、静かな貌。あれは覚悟を決めた奴だ。刺し違える? いいや、あれはそんな生易しいものじゃない。泣き寝入りするならケツまくって今頃高速バスか電車に乗っている。
猛烈に。
猛烈に、嫌な予感がする。
急病で休んだ部下を思い出す。派遣契約の切れたOLさんが、部下と社外で時々逢っているという証拠不明の噂話。営業と出張で首都圏を精力的に廻っている部下は、事務職のOLさんとの接点は基本的に無い──はず。部下に子供が生まれたのは半年ほど前で。
ああ、うん。
偶然だよ偶然。
会議室から悲鳴が聞こえてくるのは幻聴で、真っ赤な顔した部長がこっちに来るのは幻覚だ。
▽▽▽
勘弁してくださいよ。
そう泣きを入れて会社を出たのは二十三時を過ぎていた。今月末に自己都合で退職が決まった部下の残した仕事──という名の数々の不始末については、専従班が設立された。会社への被害は正直想像もつかない額になりそうだ。金銭で弁済できる範囲に限っては、だが。当人? 絶賛面会謝絶中で、刺さりどころが悪ければ集中治療室では済まなかったと言われている。随分と腕の良い外科医が担当してくれたのだろう。不倫その他諸々仕出かした事を包丁の刺し傷ひとつでどこまで相殺できるのか知りたくもないが、とりあえず意識が回復するまでは籍は抜かれないようだ。
部下と関係のあったと思われる女性のリストは、手書きでは追い付かない数だとも判明している。
それこそ社内に社外。取引先にも複数名。お役所関係にもいるという未確認情報はガセであってほしい。心底そう思う。例の就活女子大生さんが色々と暴露しなければ、もっと拙い状況下で最悪の展開を迎えていただろう。五年後を目途に交代を示唆されていた次期社長の座は完全に不明になった。当て馬扱いだった連中は軒並み夜逃げの真っ最中で、溜めこんだ有休を使って転職活動を始めている。
貧乏くじを引かされた部長は会社に泊まることを決めた。
新婚二年目の係長は美人で年下の嫁さんを自慢していたのだが、号泣しながら嫁さんを連れて産婦人科に行ったそうだ。先日おめでたが判明したそうなんだけど、嫁さんの自供内容からDNA鑑定しないといけないとか。飲み会で何度か部下を家に連れてきて嫁さんに紹介したと言ってたが、紹介どころでは済まなかったらしい。泣けるわ。
うちの会社、規模はそれなりだけどワンマン社長で経営陣はほぼ親族だ。会社としてはそっちの方がフットワークも軽いし今まで幾つもの危機を乗り切ったんだけど、今回は完全にそれが裏目に出た形になった。
貪欲になれ。
肉食系くらいが丁度いいんだよ。
会社の飲み会や新年会などで社長が豪快に笑いながらそんなことを言ってたっけ。良かったね、貴方の娘婿は超肉食系でしたよ。もうじき娘婿じゃなくなりますけどね。あと、あなたの娘さんも経営からは外してくださいね。流石にあれだけ刺して不起訴処分は無理だろって現場検証のお巡りさんが言ってました。
人間、あそこまで開いても生きてるんだな。
でも肉はしばらく勘弁してほしいな。
部下、レバ刺しが好きだったな。一時期豚の生レバーの刺身も何度か食ったとか自慢してたっけ。法律で禁止されてないんだから安全なんですよ、新鮮だから──って本気で言ってたっけ。あれ以来あいつの薦める店だけは避けるようにしてるなあ自分。
もつ鍋はうちの会社の飲み会じゃ禁止になるだろうね。会社が残ればの話だけど。
そんなことを考えながら会社近くのビジネスホテル、その隣にある大衆居酒屋の暖簾をくぐる。さすがにピーク時刻をとっくに過ぎて、残っているのは学生とかフリーターが多い。空席が目立つカウンターに案内された自分は、半端にぬるいおしぼりの袋を千切るようにして開いてから胃袋の具合を確かめる。
財布の中身については今回は無視しよう。
背中から肩を経て首の半分程が麻痺したような、あからさまに血液が滞ってますよと言いたげな疲労具合を訴えている。部下の止血を手伝う際に使ったワイシャツは、どう頑張っても再利用不可能ってことで近所の量販店で買った割高なのを着ている。若干サイズが合わないこともあって、それが首と肩に違和感を生んでいるのだろう。
カウンター席から見える調理場の掛札、残っている食材が表になっている。端から端まで視線を動かして小さく息を吐いた後、学生アルバイトと思しき眼鏡のあんちゃんに声を掛けた。
「しし唐と椎茸と茄子を串で。あと、揚げ出し豆腐。お酒の注文は待って」
「お連れ様のご注文は?」
「──お新香と焼きおにぎり。それに鶏つみれの澄まし汁をお願いします。飲み物はオレンジジュース」
自分の注文に間髪入れず、隣に座った女子大生さんが居酒屋に嫌われそうな献立を次々と挙げる。最初にシメを頼むような客だ、これが合コンやデートの類であれば脈無アピール全開といったところだろう。眼鏡のあんちゃんは案の定しばらく黙った後に焼き場の店主と視線を交わしていたが、自分をちらと見てから軽く会釈して注文を復唱した。フランチャイズの建前だが実質は独立した暖簾分けに近しい個人経営の居酒屋なので、大手のそれよりも人間臭い空気が漂う。
どうして、こうなった。
いや、分かってはいる。分かってはいるが納得できていないだけなのだ。
午後の面接にて女子大生さんが曝露した諸々に提出した証拠書類の数々で、社内は紛糾した。慌てて駆けつけて来た社長が【証拠写真】と【動画】を見て高血圧の余りに倒れそうになったし、ほぼ同じタイミングで家から逃げて来た部下が嫁さんに社内で刺されてあわや三枚おろしの悲劇だった。
女子大生さんをそのまま追い返せば、彼女が持ち込んだ倉庫書類のオリジナルがどこかに流出するのは確実で、なおかつ部下の目を盗んでそれらの証拠を確保してまとめ上げた技術と才能を放っておく理由もない。自分の部署がもうじきスタッフが一名消えることが確定した訳だからと、各部署の管理職が結託して困惑中の社長を押し切ったのだ。
部下の所業が発覚して激怒していた上司は多かったし、そういう意味では女子大生さんは被害者であり同志と映ったのだろう。中途採用なのに入社五年目くらいの待遇で、試用期間さえすっ飛ばして雇用契約が結ばれた。引越しや新居手配のために一か月くらいの準備期間が必要だが、部下の後始末を優先させることで彼女にはしばらくホテル住まいをお願いすることになり──自分は、指導役を兼ねることになった。
それはいい。
それはいいのだが。
「次に先輩は『なんで君がちゃっかり隣に座るんだ』と言う」
「タイショー、胡麻焼酎のお湯割り。すごい薄く作って」
ドヤ顔を決める女子大生さんの台詞をスルーして酒を注文したら、足元を蹴られた。
「付き合いが悪くありませんか先輩」
「おじさんの年齢で女子大生にうっかり声かけたら警察呼ばれるんですよ」
学生時代に担任とデキて結婚したという同期の息子が、来年大学受験と聞いている。
TVドラマや恋愛小説の主人公ならばまだまだ現役だろうが、あちらはプロフェッショナルなイケメン様の生きる世界だ。こちらは特別な出自を背負った記憶もないし、暴走するトラックから子犬を守ろうとした過去もない。
我が社で恋愛ドラマの主人公サマを演じられそうなのは一人だけ心当たりがあったが、その主人公サマのフリーダムさを制御できなかった自分達がツケを払わされているのだと気付く。ついでに言えば隣で澄まし汁を口にしている女子大生さんは、おケツが大変なことになっている写真とか動画とかそういう大変けしからんものを部下に撮影されていたらしい。面接会場でぶちまけた部下のあれこれの中で彼女は自爆気味にそれらも公開しようとしたようだが、幸か不幸か我が社の女傑達が良い仕事をしたと聞いている。
(その副産物として部下の信用が底値を叩き割ったというか、関連会社へ出向してほとぼりをさますという選択肢が自動消滅したのだが)
そんなことを考えているのを気取られたのか、女子大生さんはオレンジジュースの入ったグラスを両手で持ちながら息を吐いた。
「妻子あると知ってたら、普通に断ってましたよ?」
「そう」
「ところで人事のサキサカさんから聞きましたが、先輩」
「間に合ってます」
「披露宴の直前で婚約者が駆け落ちしたと」
「間に合ってます」
「しかも寝取った男が取引先の社長の息子だとか」
「間に合ってます」
「……私達、似た者同士なんですね」
だから間に合ってるというに! そういうのは!
何かを期待する目を向けてくる女子大生さんの言葉を聞き流し、うすーく作ってもらった焼酎のお湯割りを一気に煽った。




