境界線
ジグラッドは樹海のど真ん中にある小さな町だ。
樹海をぐるりと包み込むようにしてそびえ立つ円環状の山を越え、足を踏み入れる度に景色の変わる緑の迷宮を幾日もかけて迷いながら踏破した者だけがようやく辿り着くことが出来るその場所は、樹海周辺の国々に暮らす人々の間で半ば幻の存在のようにして語られている。
樹海が他の土地では類が見られない程多数の狂暴な獣の棲息地である事から、長年に渡って死刑が適用されない重罪人の流刑地として利用され続けてきたという事実もあり、はたして本当に人間が住める環境が樹海の只中に存在しているのかと、誰もが半信半疑の思いを拭えぬまま“その名”を語るのだが。
━━━━その実、“町”は概ね平穏だったりする。
*
「“出稼ぎ組”が帰って来る?どこの班の連中だ?」
ほぼ炭の味しかしないオムレツと微妙に塩加減の薄いスープという、浮舟亭クオリティではまだいくらかマシな部類のメニューで朝食を摂りながら、亭主と二人の従業員はいつもの如くガランと空いた食堂スペースで毎朝恒例のミーティングを始める。
「コム兄ィのとこだよ。ドットが“外”から手紙を運んで来たんだ。タマの頭の上でしばらく休憩してから、さっき台地の方へ飛んでった」
「塒に戻ったか」
「アイツ、ぜってー人の頭を止まり木か何かと勘違いしてやがんだ。コム兄ィに調教し直すように言ってやってくれよ、おっちゃん~」
「んあぁ?ありゃ害も無ぇし、可愛いもんだろうが」
「たまに頭の上にフン落とされんだぜ!?」
「『タマ』だけに!ギャハハハ!!」
「るせーっ!ミケ!!」
「…とりあえず備品の在庫は要チェックか。足りない物は早めに取り寄せるとして…、厩舎の柵の修理も早いとこ終わらせにゃならんし…」
ぎゃあぎゃあと言い争いをする子供は完全放置だ。
「タマ、お前は後で薪と干し草の手配に境界線まで走ってくれ。ミケは中央の食料倉庫で塩と香辛料の調達」
「「りょーかーい!」」
それぞれ“お使い”を言い渡された子供は、ジャレ合いを止めて息の合った返事をすると皿に残った一口を大急ぎで掻き込み、『ジャリッ』という、えもいわれぬ食感のオムレツに眉根を寄せながらソレを飲み下した。
━━━それから約三十分後。
「んじゃ、オレは境界線な!」
「ほいほい、いってら~。ちぇー、オレも用事を頼まれるなら町中じゃなくてそっちが良かったぜ」
「ご愁傷さま。悪いオトナに気をつけろよ、ミケ」
「メンドクセェ…」
二人の子供は浮舟亭の前で短い会話を交わすと、それぞれ別の方角に向かって疾走を開始した。
それはまるで身体の重さを感じさせない、それこそ『疾風のような』速度で。
「おやまぁ!あの子達ときたら相変わらずの走りっぷりだねえ」
たまたま隣の店先に顔を出していた【火竜のカマド】の女将に、呆れ半分感心半分の呟きで見送られたその姿は、あっという間に豆粒大になって視線の彼方へと消えたのだった。
町の西区にある浮舟亭から更に西に三、四十分ほど全力で駆け、居住区と樹海の境目にあたる居住禁止区域にたどり着いたタマは、木材が山と積まれた番小屋の近くまで来てようやくそこで立ち止まった。
一年中初夏のような気候のこの地方では、軽く動き回るだけでも汗ばむぐらいの陽気の日が暦の大半を占める。
ましてや全力で走り回るとなると━━━。
「ふひ~、疲れた~」
立ち止まった途端全身から噴き出した汗を服で拭いながら、キョロキョロと人の気配を探る。
樹海の監視という役割を担う木こりの番小屋には、通常誰かしら人が詰めている。
緊急時でも無い限り近くに当番が居るはずだった。
「なんでぇ、マズ飯亭の“猫”の片割れじゃねえか。なんか用か?」
「あ、モジャモジャ!」
「誰がモジャモジャだ!」
不意に声を掛けられてタマが振り向くとそこには形容詞通り顔が髭で埋もれたような男が立っており、手には今しがたまで手入れをしていたとおぼしき斧が握られている。
お世辞にも親しみ易いとは言い難い人相の相手だが、タマは気にした様子もなく笑いながら“お使い”の用件を伝えた。
「…薪の補充か。樹海に潜ってる他の木こり連中が戻り次第配達してやる。今一人しかいねえ見張りが境界線を空ける訳にゃいかねえからな」
「うん、それでいーよ」
樹海と町の間に設けられている居住禁止区域は、町の住人からは一般的に“境界線”と呼び慣わされているが、そこには読んで字の如くの役割が課せられている。
ジグラッド周辺の樹海では何故か植物の成長する速度が異常に早く、何もせずに放っておくとあっという間に町が樹海に呑み込まれてしまいかねない。
そのため樹海と町の間に無人の区域を設け、樹海による侵食をその場で食い止めるべく、人間と植物の間で日夜熾烈な攻防が繰り広げられている。
境界線に食い込んできた樹木は容赦なく伐採。
男達は斧を担いで樹海の浅瀬に潜ると、人間に害となる植物を見つけて間引き、枯れ木や倒木を薪として運び出して再利用する。
その上作業中に植物以外の危険な生き物と出くわす事例も多く、木こりは多少の荒事に対応出来る腕っぷしが求められる。
境界線に番小屋が置かれている理由のひとつは、町の住人に危害を及ぼす恐れのある危険な生き物にいち早く対応する為でもあるのだ。
━━━そして、そういった危険生物がうようよいる樹海の深部に潜り、討伐や狩りを専門に請け負う者達が総称して狩人と呼ばれている。
彼等がそうした危険と隣り合わせの仕事を請け負う理由は、主に自分達の安全な生活を確保する為であると同時に内需を満たす為であるのだが、中にはあえて円環を越えて“外側”で活動する狩人もいる。
彼等は彼等で外側でしか手に入れられぬ貴重な情報や物資を持ち帰り、内側で活動する狩人とは異なる方面で町に貢献している事から『出稼ぎ組』と呼ばれ、仲間内からも一目置かれていた。
今回浮舟亭に伝書竜を飛ばしてきた相手も複数いる出稼ぎ組の班に所属する一人で、一体何が気に入ったのか食事に関してはまるきりあてにならない宿に、毎回長期滞在してくれる貴重な顧客なのだった。
「……ん?」
ふと、その時。
疲れて地面に座り込んでいた子供が急に何かに気が付いたように空を見上げ、耳を澄ませるような仕草とともに勢いよく立ち上がった。
「うっわ、ヤッバー!これ雨が降るじゃん。早いとこ用事を終わらせて帰らねーとズブ濡れだぁ」
雨雲一つ浮かんでいない空を見て出た台詞がこれである。
「…なんだと?」
モジャモジャ髭の木こりはおかしな事を言い始めた子供に思い切り疑わしそうな目を向けて片眉を跳ね上げた。
「あっ…独り言!キニシナイキニシナイ。じゃ、オレ戻るから後はよろしく~」
アハハとわざとらしく笑った直後、来た時と同じように全速力で牧草地に向けて走り出した子供を見送って、木こりはチラリと両目で天を仰ぐ。
まだそこに雨の兆しは微塵も感じられなかった。