夢を食う烏〜第八章〜
まだ黒猫の感情が分からなくて、今日も私はロバートの前にいる。
「あんた、大丈夫?げっそりしてない?」
「大丈夫よ〜。ちょっと食べてないだけでしょ?」
「だってほら、腕なんて超ガリガリだよ?そこまでして痩せなくても良いんじゃない?」
「だってさぁ。デブ嫌いなんだよ、彼。痩せなきゃじゃん!」
「それにしても痩せ過ぎだってば。今体重どれくらいあるの?」
「今朝は四十一キロだった。あともう少しなの!」
「っていうかぁ、あんたの背丈だったらそれ痩せ過ぎだって。」
「えー?そう?百六十七だけど」
「百五十七のあたしより痩せてるっつーの!」
「でもさぁ、あの赤いワンピ着たいんだよねぇ。まだお尻が入らないのぉ〜」
「それ、Sサイズだからでしょ?無理に決まってるじゃん!」
「赤いワンピ着て彼とデートしたいのぉ。」
「知らないからねぇ。ほら、またお通し食べないし!酒ばっか飲んでるし!どうせ後で吐くんでしょ?」
眼球が飛び出そうな程窪んだ女は、もっと痩せたいと言った。余計な肉は付いていない。その姿はまるで餓死寸前の異国の人間のようだった。
「ねー。ねー。黒猫さんもデブ嫌いだもんねぇ。」
酔って絡む骸骨は、飛び出そうな眼球を必死に目蓋で押さえ込んでいる。
「そうね、嫌いだわ。」
黒猫は淡々と言い放つ。それはいつもと変わりのない返答だ。
「でもこれは痩せ過ぎだってば〜。男はちょっとぽっちゃりしてる女の方が好きって知ってた?もしその彼がデブ専だったらどーすんのよ!」
病的なまでに痩せた女の横には誰も座らない。男たちは本能的に危険を察知し、開いているカウンターに座ろうとはせず、テーブル席に落ち着けた。
そこへ、しばらく顔を見せていなかった千代がやってきた。名ばかりの大学生活には、もうすでにウンザリしている様子だった。
「千代ちゃん、ランチ食べる?」
いつも空腹感が満たされない千代は、黒猫の言葉に甘えて余ったランチを頂く事にした。病的に痩せた女は生唾を飲み込んで、隣で黙々とハンバーグを食べる千代を見ている。
「あなたも少し食べたらどう?これはカロリーも低いからダイエット中の女性にお勧めですよ」
黒猫にお通しの春雨サラダを勧められた女は、眼球を目蓋で押さえながらその手を振り払う。千代が食べている白米に盛大に降り掛かってもお構い無しだ。
「ごめん千代ちゃん、ご飯変えるね」
「あっ、全然大丈夫です。春雨とご飯って合うじゃないですか」
楽しげに食べる千代を、女は疎ましく思っていた。いくら痩せても自分より痩せている人間が目につく。その人間が女で、自分よりも若くて、食べても太らないタイプなら尚更だ。まさに千代はそのタイプの女だった。
私には理解不能な女の闘いが行われている。女はどうして痩せている方がいいと思い込むのだろうか。どうして自分の姿さえ見る事が出来ないのだろうか。何に洗脳されてゆくのだろうか。
千代はなるべく意識をハンバーグに集中させた。隣で春雨と戦っている女を無視して、器に残った春雨を食べようとした。
「ちょっと!それあたしのなんだけどぉ。」
ギロっと見開いた目に千代は心臓の鼓動が早くなるのを感じた。すみません、とだけ言って、残りのハンバーグと添えられたキャベツを平らげる。
先ほどはいらないと言って黒猫の手を振り払ったばかりだというのに、この態度の変化は何であろうか。
「あなた、ちょっと痩せた方が良いんじゃない?」
魔女のように長い爪をいじりながら、隣の骸骨は何かを喋っている。不自然なまつ毛がまばたきの度にふさふさゆれ、皮膚の窪みに無理矢理押し込まれたファンデーションは、干上がった湖のように割れ目が入っている。血色の悪い顔を隠すように、頬はピンク色に塗られている。まるで阿呆の子だ。
「まだまだ成長期なので、沢山食べたいんです。痩せるのはそれからでも良いかなって。じゃないと、胸が無くなっちゃいます」
千代は骸骨のしぼんだ胸を見て言った。骸骨の隣に座っていた女が、クスッと笑う。黒猫も口角を上げて骸骨を見た。
「何よ!あたしの胸がないって言いたい訳?これでも結構あるんです!着やせするのよねぇ私。あ〜もう隣にぽっちゃりした人がいると気分悪いわぁ。黒猫さん、私帰ります。チェックして」
結局春雨に手を付けず、後でどうせ吐いてしまう今夜のアルコール代は、四八〇〇円だった。それだけあれば一週間は食べていかれる、と千代は思った。
私は人間様の新たな一面を見て、少しばかり面食らっていた。
都会のカラス達は体内時計が狂いはじめ、もうすでに狂ってしまった者は落ち着きなくそこら中を飛び回っているのだった。
昼夜問わず明るい街は、それだけでカラス達の生態系を徐々に崩していくのだ。メリハリのない生活は、カラスの体重と傲慢さを増やすだけ増やし、ニヤついている。
それでも老カラスは、リズムを崩さないようにと毎日の生活を律している。
ある夜、ネオンと欲望が渦巻きギラギラ光る街に、一匹のカラスが降り立った。彼はこの周辺をテリトリーとする者ではないが、一種の冒険心と好奇心、それに脳味噌を食らった仲間のカラスに挑発され、時間の観念がないカラスにも夢を持てるのだ、という夢を持ち合わせていた。野生動物らしいキラキラとした瞳は濁り、この街によくお似合いのギラギラとした瞳をしていた。
「人間様のお通り〜人間様のお通り〜」
最近お気に入りの唄を口ずさむ。いつかこの唄を人間様が我々に向かって歌う日が来るだろうと彼は確信していた。
宝石と勘違いした電球と呼ばれる玉は、決して嘴で掴んではならない。たちまち嘴が焼けこげ、使い物にならなくなるだろう。カラスにとって嘴は生命線なのだ。命そのものなのだ。
「ここにいる人間様はぴんくいろが大好き。」
独り言を言いながら、ネオンの届かない所に隠された宝物を探しに行くが、なかなか見つからなかった。それよりも、ネオンが照らし出す先にお宝が光っている。こんな所に放置されたお宝を、人間様は見向きもしない。唯一彼と同じようにしてお宝を探しているのは、人間様と呼べないような臭いを発し、雑巾代わりにもなりそうな衣服を被り、黄色いはずの肌はドス黒くまるで象のような色をして、どこに目と鼻と口が付いているが分からないくらいの体毛に包まれた、空を見上げる事も忘れている野良犬に近い人間様だけだ。
彼はその野良犬のような人間様を避けながら、巧みにお宝を発見している。
「羽がぴんくいろ〜人間様の大好きなぴんくいろ〜」
ピンク色のネオンに照らされた彼の自慢の漆黒が揺らいでいる。まるでピンク色の炎に包まれているように、絶対的な漆黒が染められようとしている。だが彼は知っている。カラスの漆黒は揺るぎない色であり、何物にも染まる事はない。それを承知の上で、ピンク色に染まってしまった自分を想像し、笑っているのだ。彼は想像と言う人間様に近い思考能力を鍛え上げる事に成功していた。
一つの細い影が彼の前を横切り、化学的なにおいもまき散らしていった。人間様独特の生臭さを感じなかった為か、横切ったそれを人間様だと思わなかった。だが、化学的なにおい、つまりはその梅の花のにおいを液体として作ろうとしても完全に同じにおいを作る事は不可能だ。梅の花は香りだが人間様が好んでつける化学的なにおいは香りではなく生臭さを消す為のニオイに過ぎないからである。ニオイをニオイで消すなど花の世界にもカラスの世界にもない。梅の花の香りに憧れて、似たようなニオイを身につけても梅の花になれる訳でもないのだ。目の前を横切る梅の花もどきに、彼は苛立った。
そのいら立ちは異様に細い影を落とす人間様に向けられ、そしてその影は暗闇の中に紛れてしまった。彼はその影の跡をつけると、地に足がついていない女にぶつかった。踏まれればひとたまりもないであろう、尖った靴を履き不自然に足と身体を持ち上げ、真っ赤なワンピースを着ている。余分な肉はついていないが、必要な肉も付いていないのは何故なのか。鳥にでもなったかのように両腕をばたつかせ、下手な踊りを一人で楽しんでいるのは何故なのか。彼には全く分からなかった。
そして女は、真っ赤な口から白い液体を道路にぶちまけたのだ。彼はそれを脳味噌と勘違いした。脳味噌を覆っている固い甲羅は、大人のカラスが数匹で攻撃しても割れない頑丈なものと聞いていた。その脳味噌が溢れ出し、口から飛び出したのかと思ったのだ。一目散に彼は脳味噌の元へ飛び立ったが、それは近づく事もままならないほどの異臭を放っていた。脳味噌から異臭がするなど誰からも聞いていない彼は仰天し、俺には脳味噌を食らうなどまだ早いのか、と自らを責め立てた。もう立派な大人カラスだというのに不甲斐ない。
「のうみそ〜のうみそはこれ?これは本当にのうみそなの?」
彼は近くに潜んでいるカラスに呼びかけた。応答はない。私はその応答を無視し、彼と女を観察し続けている。
いやまてよ、この女は梅の花のようなニオイを体中に浴びている、ならば脳味噌のニオイも梅の花のようなニオイでなければならない。そう思いはじめた。するとさきほどの白い液体は脳味噌ではない!騙された!彼のいら立ちは頂点に達し、絶対にこの女の脳味噌を食らってやると誓った。脳味噌を食らうと言うよりは、固い甲羅を割ってみたいと言う欲求のほうが強かったかも知れない。それには、経験豊富なカラスに協力を依頼しなければ。
「人間様のお通りだ〜脳味噌が歩いているぞ〜あるくのうみそ〜あるくのうみそはいかがかね〜」
暗闇に溶け込んだカラスは陽気な唄をうたいながら、人間様の脳味噌に反応しそうなカラスの存在を求めていた。だが、ネオンの眩しい街の中に、人間様の脳味噌を食った事のあるカラスはいなかった。彼らは人間様の食べ散らかした高カロリーな油と糖分を気の向くまま満たされるままに摂取していただけだった。知的な人間様と本能的な人間様とがいるように、知的で賢いカラスと、今この時にありあまるだけの食料があればよいとする、傲慢でそのくせ臆病なカラスとがいる。
彼は仲間が近くにいない事を知り、自分だけが頼りなのだという事実に興奮さえ覚えていた。野生動物であるのに、近頃は仲間に頼ったり人間様に媚を売ったり、ある時など人間様が喜ぶような「ショー」を見せて食料をもらったりする者もある。そんな仲間達にうんざりしていたのだ。こうなれば自分一人であの女を殺めてやろう。そしてきっと、脳味噌をすすってやるのだ。カラスの中で誰よりも賢いカラスになって、この街を今よりもっと美しい街にするのだ。
人間様は傲慢になりすぎた。いつも耳の中に何かを詰めて歩き、風の声にも花の唄にも雨の鳴き声にも耳を貸さない。そして、我々の忠告さえ無視し、この街を汚すだけ汚していく。許せない、絶対に許せないのだ。このまま野放しにしておくわけにはいかない。
人間様は、持っていた鞄を放り投げるとその場へ倒れ込んだ。真っ赤なワンピースからビリッという音が聞こえ、不自然な形をした靴は細長い部分が折れてしまった。人間様の体重を支えきれなくなった靴は道端に転がり、その命を経ったのだ。
人間様はワンピースが破れる音に気付くと舌打ちをし、ヒールが折れた事を知ると、腕をコンクリートに叩き付け涙を流した。暗闇の中で光る涙はコンクリートにシミを作り、赤黒い血液のように広がっていった。
そして人間様は、無駄な抵抗だと気付いたかのように動く事をやめ、全てを諦めた。赤いワンピースを着たデートも彼の笑顔もその眼球にとらえる事はなく、夢と散った。
辺りはまだ暗闇の中にある。破れたワンピースから骨が突き出ている。亡骸の周りをウロウロするカラスは、人間様の肉を食べたいと思えなかった。ここまでガリガリに痩せる必要が何処にあるのだろう。人間様は脂肪とともに命までもお棄てになった。そんなに脂肪が邪魔だったのだろうか。
「のうみそも、ないかもしれないなぁ」
空しく響く彼の歌声は、シャボン玉のように一瞬舞って消えた。
栄養失調で死んだ女は、最後に春雨を食べたいと言った。出来る事ならハンバーグも食べたいと。
私はそんな人間様に同情などしなかった。愛されるには痩せていなければならないという、思い込みによって現実から逃避していたに過ぎないのだから。痩せて痩せて、ここまで痩せたのに愛されないのは、己の心が貧しいのではなく、女としての愛が枯れていたのではなく、包み込む様な優しさも思いやる心もどこかへ棄ててきてしまったからでもなく、決して太っている訳ではないのに太っていると思い込む事によって、心に足りないものから目を背けていただけなのだ。何て哀れな、何て寂しい人間様であろうか。
心から目を背けていくうちに、自分の肉体にまで目を背けてしまった。骸骨に皮が被さったような状態の己を、どうして危惧出来なかったのか。
あの人間様は、一体何を見ていたのだろう。
どんな世界が見えていたのだろう。
私には想像もできない事である。
交通量の激しい道端で人間様は結局ひき逃げされて死んだ。そして飛び散った脳味噌をカラス達は貪ったが、あの濃厚で詰まった脂肪が出てくる事はなく、むしろ濁った血液と骨とがカラス達の美しい羽を傷つけてしまった。
一晩跡を付けたカラスは怒りに狂い、女を滅茶苦茶に犯した。空洞を二つ顔につくりあげ、耳を剥がし内臓を取り出した。思ったよりも細長い臓器にカラスたちは戸惑ったが、力を合わせてその臓器を持ち去った。宙にひらひら舞う血まみれのホースは、人間様をアッと仰天させるだけの輝きを放っていた。
脳味噌は味わえなかったが、ホースが思ったよりも美味しくカラス達はそれだけで満足した。